都市計画法等の制定まで

岡田信一郎を中心に(?)、都市計画法、市街地建築物法の制定(1918年)、施行(1919年)までの経過をまとめておきたい。(「岡田と都市計画」の増補版)
※建雑=建築雑誌、関西=関西建築協会雑誌(1919年、日本建築協会雑誌に改称)、発達史=近代日本建築学発達史の略。

1913年(大正2年)

6月、建築学会から東京市長(阪谷芳郎)に「東京市建築条例案」を提出。8月、東京市から報酬として5000円寄贈された。
条例案は尾崎行雄市長の時代(1906年)に、建築学会に検討を依頼されたもので、6年半の歳月をかけ、海外の法規を参考にまとめた。(岡田は直接関与していない)

1914年(大正3年)

6月、辰野金吾、長野宇平治、中條精一郎ら建築家12名が集まり、「建築士懇話会」を開催。日本建築士会の前身(発達史P1982、2040)。

1915年(大正4年) 

3月、建築学会の「建築法規委員会」第1回開催。以後、毎月数回集まり、各国の法規を比較し、規則案を作成していった(倉庫規則、病院規則等々)。メンバーは内田祥三、笠原敏郎、後藤慶二、野田俊彦ら。(岡田は参加していない)
夏頃に「都市協会」設立か(読売9.16に講演会開催記事)。
都市協会は市政研究(都市改造、都市生活の改善、自治思想の涵養)を目的とし、市幹部や議員らが参加していたようである。幹事は藤原俊雄(実業家、市会議員)。
11月頃、岡田が建築学会に「建築条例実施に関する意見書」を提出。(意見書の本文は未見)
12月23日、岡田の建議に基づき「建築条例実施に関する委員会」を開催。出席者は曽禰副会長及び委員の中條精一郎、岡田、田島穧造、中村伝治、矢橋賢吉、清水仁三郎。委員長は中村達太郎(建雑349)。

1916年(大正5年)

1月、岡田の論考「都市計画と建築条例」(大阪朝日1.1、東京朝日1.6)、「都市と建築」(国民1.11-1.14)。「建築条例の実施に就て」(建築世界1916.1)。
1月25日、建築条例実施に関する委員会第2回。出席者は中村(達)、岡田、田島、中村(伝)、佐藤功一、佐野利器(建雑350)。
1月28日、建築学会通常総会で「建築条例実行委員会」の設置が決まる。委員は中條、大江新太郎、岡田、田島、中村(達)、中村(伝)、矢橋、山下啓次郎、佐藤、佐野、滋賀重列、清水の12名(建雑350)。
2月26日、実行委員会開催。出席者は中村(達)、中條、岡田、田島、中村(伝)、佐野、滋賀。委員長に中村(達)、幹事に岡田を選出。
(3月に実業家の藤原俊雄を特別委員に任命、塚本靖、長野宇平治、古宇田実を委員に加える)
4月、藤原が幹事を務める都市協会晩餐会で、岡田が「都市と建築」の講演(朝日4.4)。
12月19日、実行委員会開催。出席者は中村(達)、岡田、塚本、矢橋、古宇田、佐藤、佐野、清水。
議会への請願について岡田、矢橋、藤原、清水に委託。警視庁へ建築技師を配置する件について中條、岡田、佐野に委託(建雑362)。請願の件は翌年1月25日(第38議会)、寺内首相が衆議院を解散したため果たせなかったが、4月に笠原敏郎(陸軍技師)が警視庁技師になる。
12月、片岡安「現代都市之研究」刊行。

1917年(大正6年)

1月29日、日本建築士会総会、長野宇平治を会長とする(発達史P1980)。
(5月、建築士会結成の記事が各紙に掲載。)
2月2日、都市協会晩餐会。片岡がタウンポランニング(ママ)について講演、後藤内相が自治談義を行う。水野内務次官、井上知事ら府・市関係者150名が出席(読売2.3)。
3月、片岡安「同窓建築技術家に告ぐ」(建雑363)。片岡は都市計画などの課題に、建築家が大同団結して建築協会を組織することを訴える。
3月、関西建築協会設立、理事長は片岡。
4月11日、大阪市に「都市改良計画調査会」を設置。委員長は関一(市助役)。片岡も委員になる。
4月14日、建築学会大会の晩餐会で岡田が都市計画について発言。翌年の建築学会大会のテーマを「都市計画」とする(建雑364)。
5月、片岡、論文「都市計画ノ科学的考察」で東京帝国大学より学位取得(都市計画の論文による初めての工学博士号)。
この頃、佐野、内田、笠原が「東京府建築取締規則案」を作成。(内田祥三文庫に9月19日付の草案等が残る。市街地建築物法施行規則の基になったという。石川孝重氏他論文
10月、「都市研究会」設立の相談が行われる(都市公論1921.2)。
12月、第40議会始まる。会期は翌年3月まで。
12月、片岡安(関西建築協会)が、建築法令に関する調査会の設置を内閣に建議する件で、建築学会、日本建築士会に照会。

1918年(大正7年)

1月、建築学会は片岡の提案に同意し、建築条例実行委員会の佐野と岡田を協議委員に選定(建雑374)。建築学会、日本建築士会、関西建築協会、都市協会の連名で、寺内首相あてに意見書を提出することに決まる。
1月30日、各団体の協議委員が集まり協議。佐野、岡田(建築学会)、長野、清水(日本建築士会)、片岡(関西建築協会)、藤原(都市協会)が出席。片岡が起草した意見書案に多少の変更を加え、政府、議会、報道機関へ配布することを決める(関西1-4)。
2月2日、藤原俊雄が東京府・市の幹部、建築学会正員らを保険協会に招待。警視総監、府内務部長(府知事代理)、府会副議長と建築学会の曽禰(会長)、佐野(副会長)、長野らが挨拶。50余人が出席(建雑374)。
2月6日、四団体から寺内首相あて調査会設置の意見書を提出。
塚本(建築学会副会長)、長野(日本建築士会会長)、片岡(関西建築協会理事長)、藤原(都市協会幹事)と清水仁三郎が、竹屋春光秘書官(病気中の首相の代理)、後藤新平内相、大島健一陸相に面会した(建雑374、関西1-4)。
同日、各団体の協議委員は政友会幹事長(横田千之助)、政友会の東京選出議員(磯部尚)に協力を依頼。(岡田も同行か?)
また貴族院・衆議院の各議員に意見書を配布(建雑374)。
2月11日、「都市研究会」の趣意書を公表(都市公論1912.2)。(趣意書の本文は未見)
2月24日、後藤内相から連絡を受け、曽禰、塚本、長野が後藤に面会(関西1-5)。
2月26日、磯部議員が衆議院に「東京市制に関する質問」を提出。重要都市建築法の制定は急務などの内容。
3月12日、衆議院本会議で、磯部議員の質問に対し、水野錬太郎(内務次官)が答弁。
佐野の回想によれば、事前に磯部議員と水野次官の間で相談があったという(建雑617)。
3月、京都・大阪等に東京市区改正条例を準用する法律案が議会を通過。また、都市計画調査の追加予算が議会で承認される。
4月、都市研究会の機関誌「都市公論」創刊。阿南常一が編集し、創刊号には藤原俊雄、内田嘉吉らが執筆。
(後に都市研究会は後藤を会長に迎え、事務局を内務省に置く。)
4月7日、意見書を提出した四団体の代表者が後藤内相に招かれる。(関西1-8、出席者は不明)
4月、後藤が外相に転じ、水野(内務次官)が内相に就任。
4月27日・28日、都市計画をテーマにした建築学会大会。27日、岡田は「都市における住居問題」を講演(建雑380)。28日は水野内相、田尻東京市長らが講演。
4月28日、水野内相は調査会設置に関する協議の意味で関係者を官邸に招き、晩餐会を開催。後藤外相、府知事、市長、警視総監、内務次官、内務省の局長ら、四団体からは曽禰、長野、片岡、藤原の他、伊東忠太、佐野、笠原が出席(関西1-8)。
5月、内務省に都市計画課を設置。課長池田宏、事務官吉村哲三、技師山田博愛、笠原敏郎。内田祥三は嘱託として建築法令の起草に当たる(都市公論3-12)。
6月、内務省の審議会「都市計画調査会」の委員24名を任命、建築界からは佐野、片岡が就任。また、臨時委員に矢橋賢吉、藤原俊雄ら。
7月、同調査会での審議が始まる。
7月、建築学会に「都市計画常置委員会」を設置。交通及衛生、地域公園公館及其他公共的施設、建築法規、住居の四部で構成され、岡田は第四部住居に属した(翌年12月まで)。
同時に、建築条例実行委員会が「都市計画実行委員会」に改称。委員長を中村(達)、幹事を岡田が務めた。(12月、委員長は塚本に交替)
9月、実行委員会で「建築法規に関する協議」を2回行う(建雑382)。
9月25日、寺内内閣が倒れ、原内閣成立。床次竹二郎が内相。
12月、「都市計画調査会」での都市計画法・市街地建築物法の二法案の審議を終える。
12月、第41議会始まる。会期は翌年3月まで。

1919年(大正8年)

2月末、二法案が議会に提出されないため、四団体の名義で原首相あてに陳情書を提出(関西2-3)。(これより先、都市研究会が陳情書を提出。)
3月6日、閣議の後、二法案を衆議院に提出。3月10日-15日の特別委員会を経て、15日に通過。貴族院では3月19日-24日の特別委員会を経て、26日に通過。
笠原によれば、この間、建築学会の実行委員が両院の特別委員を歴訪したという(建雑557)。(岡田も同行か?)
(3月25日、辰野金吾逝去。)
4月5日、都市計画法及び市街地建築物法公布(施行は翌年)。
7月、建築学会の都市計画実行委員会、都市計画常置委員会の連合会で「建築法規に関する調査委員会」を設置。委員は曽禰会長、塚本、佐野、岡田、内田、笠原(幹事)ら24名。
同委員会では、9月までに内田、笠原が起草した市街地建築物法施行のための勅令、省令の原案を審議(建雑399)。
8月、「都市研究会」住宅政策委員の第四部居住行政に関する件で、岡田が委員及び主査を務める。(具体的な活動、成果は不明)
11月11日、閣議で都市計画法施行令の原案決定。
11月27日、都市計画法施行令(勅令482)公布。
12月、建築学会の都市計画実行委員会廃止。
(1915年暮の岡田の建議により設置された実行委員会も、役割を終えたことになる。)

1920年(大正9年)

1月1日、都市計画法施行。
9月17日、閣議で市街地建築物法施行令の原案決定(原敬日記)。
9月29日、市街地建築物法施行令(勅令438)公布。
11月9日、市街地建築物法施行規則(省令37)公布。
12月1日、市街地建築物法施行。
12月8日、建築学会が市街地建築物法実施祝賀会を行う。岡田はスピーチで、藤原俊雄に謝意を述べた(建雑409)。

建築条例実行委員会の働き

建築学会創立50周年の回顧座談会で、内田祥三は「建築学会がやりました社会運動の中で(…)この都市計画に関する事項が最も重要なものであり、又最も成功を収めたものだと存じます」と述べている(建雑617、1936.10増刊)。
ここで「都市計画に関する事項」というのは、都市計画法及び市街地建築物法の制定であり、制定運動のため、設置されたのが建築条例実行委員会である。

建築条例実行委員会は、岡田信一郎の意見書に基づき、1916年1月に設置された。
当時、建築に関する統一的な法令はなく、学会では建築条例の案を何年にもわたって検討していた。
それに対して岡田は「条例調査立案は学会の学術的事業である。(…)条例の実施について重要な事がらではあるが、実施とは抑(そもそも)別問題である。条例は実施されて始めて其効用を認める事が出来るので決して空理空論ではない」(建築世界1916.1)として、学会が制定運動を行うことを提案したのであった。
岡田の考えは、始めから議会への請願だったのではないか、と思う。

1916年12月の実行委員会で、第38議会へ請願することが決まったが、衆議院が解散したため、次の機会とすることになった。
第39議会(1917年6月から7月)は会期が短かったためか、請願の話はなかったようである。
岡田の私事になるが、この年の6月28日、元赤坂芸妓、萬龍との結婚問題が新聞で大きく報道される、ということがあった。

次の第40議会は1917年12月に始まるが、ここで片岡安からの提案があり、1918年2月、学会など四団体から政府あてに意見書を提出した。これを直接のきっかけに、後藤内相が追加予算を通し、都市計画調査会の設置に至る。
学会の建築条例実行委員会は都市計画実行委員会と改称(1918年7月)。その後の主な活動として法令案の審議、原首相への陳情(佐野を通しての話か?)、法律案の審議を行う特別委員への働きかけがあった。

法律案が衆議院に送られ、審議のため特別委員会が置かれた。特別委員に指名されたのは27名で、鳩山一郎、磯部尚(政友会)や高木益太郎(国民党、後に憲政会)らがいた。高木は弁護士で「法律新聞」主宰者として知られ、震災後の区画整理の際にも名前が出てくる。
また、貴族院の特別委員は15名で、水野錬太郎、内田嘉吉、阪谷芳郎、永田秀次郎、古市公威らがいた。
笠原敏郎の回想では、「都市計画法並に市街地建築物法案が議会に提出せられたときなどは、学会の実行委員は両院の特別委員を歴訪して其通過を図」ったという(建雑557)。

岡田が実行委員会の幹事を務めたことについて、同僚で事情通の森井健介は、「岡田君がやれば鳩山さんに通ずる…と言うのでしょう。」と、鳩山一郎の政治力が期待されていたことを示唆している(「師と友と」)。
当時、岡田は鳩山宅に毎日のように通うほど親しい仲であり(建雑557)、法律案を通すために鳩山が様々な助言をし、仲介に当たるなどしたことも十分想像はできる。

大阪からの動き

急激な都市化が進む大阪市でも「都市改良」を検討しており(1917年、都市改良計画調査会設置)、事業促進のため、東京市区改正条例に相当する法律の制定を必要としていた。1917年暮、大阪府の大久保利武知事が内務省に特別法の制定を主張したところ、反応はよかったという。1918年2月初めに池上四郎市長と関一助役が上京し、内務省や大阪選出議員に精力的な運動を行った(渡辺俊一「都市計画の誕生」)。
2月6日、内務省は省議で大阪市への市区改正条例準用を決めたが、条例の準用は当面の措置であり、新たな都市計画の制度が必要であった。

建築学会など四団体が調査会設置の意見書を政府に提出したのは、同じ2月6日。
政府への建議を提案したのは関西建築協会の片岡安である(前述)。これより先(1917年春頃)、日本建築士会が建築法令(建築士法?)の草案を当局に進達したが、反響はなかったという(関西1-4、P124、詳細は不明)。これが失敗に終わったのを見た片岡は、単に建築界の立場から法律の制定を訴えてもうまくゆかないことを悟った。そして、広く経済、国防、法律等の分野から研究するため、専門家を集めた調査会の設置を考えたという(関西建築雑誌1-4)。
確かに、政府や議会に法律を作ってほしいと訴えるより、専門家を集めて調査してほしいと言った方が同意が得やすいであろう。片岡の提案はもっともな内容であった。

後藤内相は、大阪市や建築学会等からの要望を受けて、この際、都市計画と建築の制度を研究するため調査会の設置を決めた。

エピソード

市街地建築物法の勅令・省令は1919年9月には原案ができたが、実施までに1年以上かかっている。内田祥三はこのときの苦労を回想している。
都市計画課の笠原技師と吉村事務官は海外出張に出てしまい(笠原がロンドンの都市計画会議出張のため出発するのは1920年4月26日)、そのうち池田課長も社会局長に昇任してしまった(同年8月26日付)。既に都市計画法は実施されていたが、市街地建築物法の施行が未だという時期に皆いなくなってしまったのである。
池田の後任課長、前田多聞は俊英と言われた逸材で、道路課長、参事官の経験もあったが、さすがに建築の細かなことになると内田に任せざるをえなかったであろう。内務省内の参事官会議では、内田と野田(俊彦)が省令(市街地建築物法施行規則)案を説明したという(建雑617)。

また、村松貞次郎の聞取りによれば、「都市計画法の勅令が原総理の引出しの中に入ったままになっていて、あることはわかったが出してくれと言えず困ったこと。しかし、総理はやはり地域制について疑問があって保留していたので忘れていたのではなかったこと。前田多聞氏に内田先生が同行して説明に当たったこと。」があった(建雑1019)。
内田が説明をした「勅令」は、(都市計画法ではなく)市街地建築物法の施行令であろう。それなら、1920年秋頃、前田課長の時期であり、話が符号する。
「原敬日記」をざっと見たところ、都市計画法施行令の閣議の際には特に記載はないが、市街地建築物法施行令の閣議の際は「都市建築取締細則に付、先般来 未決の儘なりし処 本日内務省掛官説明 原案決定したり」とあった。
なお、後藤新平が東京市長に就任し、前田は助役に引き抜かれたので、都市計画課長を務めたのはわずか4か月ほどであった。

最後に岡田と藤原俊雄の関わりについて補足する。
建築条例実行委員会に藤原を加えたのは岡田ではないだろうか(推測)。
また、片岡の呼び掛けで首相あてに意見書を提出する際に、藤原の「都市協会」を加えたのは岡田の提案のように思われる。片岡が「建築学会に於いては(…)都市協会の加盟を慫慂することを提議した」と記しているからである(関西1-4)。
藤原は寺内首相あての意見書を提出する直前に、東京府・市の関係者らを招く会を開いているが、これも運動を進める上で必要な根回しであっただろう。(岡田は1920年、祝賀会でのスピーチの中で、この招宴に言及している。)

都市計画法、市街地建築物法が制定され、ひとまず制度の枠組はできた。主要都市では街路等の計画が決められるが、必要な財源の裏付けはなかった。計画はあっても事業は進まない中、東京は関東大震災を迎えることになる。
(2014年10月)

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