岡田信一郎の近代建築史

Aeg_by_peter_behrens600岡田信一郎は近代建築史研究の先駆者の1人と言えるが、まとまった著作がなく、具体的な内容は明らかでない。

建築学会第1回講習会(1918年10月)の「最近建築史」の要旨から、岡田が捉えた建築史の流れを推測してみたい。
※講習会については「近代建築史」の項を参照。
(画像はベーレンス設計のAEGタービン工場、Wikipediaより)

 第一講 十九世紀の建築史

岡田は「最近建築史」の第1講で、19世紀の建築史を古典主義(Classicism)、浪漫主義(Romanticism)、「レネサンシズム」、合理主義(Rationalism)の四期に区分し各期建築の特質を論じた。「レネサンシズム」というのは、折衷主義(Eclecticism)と同義であろう(後述)。

この区分法は、キンボール(ミシガン大学教授)の『建築史』(Fiske Kimball、"A history of architecture"、1918.5)のものと同様である。キンボールは18世紀中期から20世紀初めまでの「近代建築」を、古典主義、ロマン主義、折衷主義、機能主義に区分している。(TextPDF
具体的な作品例:
古典主義…
パンテオン(スフロ)、イングランド銀行(ソーン)、ベルリン王立劇場(シンケル)など
ロマン主義…
国会議事堂[ウエストミンスター宮殿](バリー)、レッドハウス(フィリップ・ウェブ)など
折衷主義…
オペラ座(ガルニエ)、ニュージーランド・チェンバーズ(ショウ)、ドレスデン歌劇場(ゼンパー)など
機能主義…クリスタルパレス、エッフェル塔、ウィーンの駅舎(ワグナー)、AEG工場(ベーレンス)など

キンボールの『建築史』は古代から現代までを扱ったもので、現代部分はそれほど詳しくない。キンボール自身は古典主義を信奉しており、ワグナーなども簡単に済ませている。
(これより後、1925年にキンボールは論文「機能主義に対する新古典主義の勝利」の中でF.L.ライトらを批判した。憤慨したメンデルゾーンはライトを擁護する論文を発表した。『新建築』1926.9の「メンデルゾ-ンの観たるライト」を参照)

上記の区分に近いものが、岡田の論文「我が国の建築の過去現在及び未来」(国民文学1915.3)に見られる。ここでは、建築に現れた国民性という点から論述し、ヨーロッパの建築史を次のように概観している。
「十八世紀末から十九世紀前半へかけて行はれたクラシッシズムスの建築等」から、「多少此反動として十九世紀の半頃、各国の建築界に国民的自覚とも称すべき傾向が起つた」。
その後「十九世紀後半から現今へかけては、やはりルネサンス建築が最も多く行はれて居る」が、「建築界の現況は所謂エクレクチシズムで、古今の、又国々の、種々の建築の面白いところを取合せて、これを配合して、一の意匠を得ると云ふやうな皮相的なやり方」になっている。
つまり当時(20世紀初め)の建築界の主流は「ルネサンス建築」、折衷主義であった。その一方にいたのが「過去の因襲を全く脱離して、実需要を土台として、合理的な建築を作らうと云ふ新建築の一派」である。

岡田が「国民的自覚とも称すべき傾向」と言っているのはロマン主義のことである。
「湘南より」(建築画報1915.2)では、「十九世紀の中葉」の動向を、「ロマンチシズムの発展に伴い建築界にも中古復興の機運が漲つた」と捉えている(「中古」は中世のこと)。
そしてウィリアム・モリスに触れ、「二十世紀の新建築、新工芸美術はモリスに発祥すると認められて居る」としている点に注意したい。
「白耳義の新建築」上(建築世界1915.1)でも、「建築は適当な材料で似合はしく建てるアートである」というモリスの主張を紹介し、「モリスの此呼号はラスキンの建築評論と共に英国内は勿論大陸にも著しい感銘を与へた」としている。
「フヰリップ・ウェッブの死」(建築雑誌1915.9)では、モリスの自邸レッド・ハウス(フィリップ・ウェブ設計)に関して、「中古のロマンチックな趣を愛し」、「中古の率直な、飾らない作物の精神を捉え得た彼ら[=モリスとウェブ]の心から新に造り出された新しい建築」と評価している。

岡田は大正初年の時点で、19世紀建築の大枠を古典主義ーロマン主義ー折衷主義と捉え、「新建築」(合理主義)と対比させていたと言える。また、モリスの中世回帰の運動が20世紀の建築運動の起源になったと理解していた。
元になった論考があると思われるが、未詳である。
「古典主義・浪漫主義・折衷主義」という区分は19世紀建築を捉えるうえで便利であり、浜岡(蔵田)周忠(「近代建築思潮」1924)や岸田日出刀(「欧州近代建築史論」1928)、石本喜久治ら(「最近建築様式論」1929)も採用している。

 第二講 最近建築の素因及影響

岡田は第2講で、建築が変化してきた理由として、科学、時代思潮、経済状態、交通、建築目的、材料構造、生活状態、美術・工芸の発達、といった要因を挙げた。

これは、かつて岡田が「新建築の意義」(建築雑誌1914.7)で述べた内容(サイエンスの発達、建築目的の変化、材料及構造の変化、思潮の変化、交通の発達、経済状態、生活状態の変化、美術工芸の発達等から建築の変化を論じた)とほぼ同じであろう。
(これより先の「中形の浴衣とライスカレー」(建築ト装飾1912.6)では、思潮の変化、目的の変化、材料の変化の3つを挙げている。)

19世紀の折衷主義から合理主義への移行を単に建築界内部から説明するのではなく、社会全体の視点から説明しようとしている。これはワグナーの建築論に通じるものであろう。

近代の創り出すあらゆるものが、近代の人間に適合すべきであるなら、新しい材料と現在の要求に対応しなければならず、われわれ自身のよりよい、民主的な、自覚した、理想的なあり方を具現し、巨大な技術的、学問的な成果と人間のあらゆる実際的な動向を考えに入れなければならない(ヴァーグナー『近代建築』、樋口清他訳P37)

ワグナーの建築論をふまえて岡田なりに整理した内容なのか、元になった論考があるのかはわからない。

 第三講 白耳義仏蘭西の新建築

続いて各国別の新建築の動向である。第3講では、ベルギー出身のヴァン・デ・ヴェルデの新建築、フランスのアール・ヌーボーについて、起因、性質、影響を論じた。

ヴァン・デ・ヴェルデについては、「白耳義の新建築」上(前出)で言及している。モリスの主張を受け止めたヴァン・デ・ヴェルデは家具・室内装飾の改良を企て、アトリエ付きの自邸など新建築の先駆的な作品を建てた。
後のフランス・ドイツの新建築(アールヌーヴォー、ユーゲントシュティル)は「騒々しい極端なもの」になってしまったが、ヴェルデの建築・工芸は「温雅な作品」で「簡素、敦厚[=誠実]な点」が特徴である。「白耳義の新建築」下(建築世界1915.2)では後継者のホルタらの作品を論じている。

 第四講 墺地利のセセッション

岡田は第4講で、オットー・ワグナーとその影響を受けた建築家(オルブリッヒ、ホフマンあたりだろう)の作品を論じた。

近代建築の理念を表現したワグナーを、岡田が高く評価していたことは別の項で述べたので、ここでは省略する。(ワグナー十年祭

 第五講 独逸の新建築

第5講は中断したようだが、やはりベーレンスあたりを中心に論じる予定だったのではないかと思う。
ベーレンスについては、既に留学帰りの佐野利器や本野精吾が言及している。
本野はワグナーを過渡期の建築家で「歴史的形式の臭味を脱し得ぬ人」とする一方、ベーレンスのAEG工場を「威風堂々たるもの」、ブルネレスキのフィレンツェ大聖堂ドームと「趣を同じふしている痛快なもの」と高く評価している(「建築ト装飾」1912.8)。
佐野は実用的な工場建築を美的にデザインした例としてAEG工場を挙げている(「建築工芸叢誌」1915)。

ベーレンスの作風も、ユーゲントシュティルの自邸(1901年)から、AEG工場(1907年)、表現主義的なヘキスト染色工場(1924年)、シュトゥットガルトの集合住宅(1927年)まで、大きく変化しているが、講義時点での代表作は、AEG工場になるだろう。
岡田はベーレンスについて、「新建築の二、三観」(早苗会会誌5号 1918.12)でわずかにふれている程度であり、どのように評価していたのか、気になるところである。

なお、ドイツの動向全体について、同論文で「独逸の新建築には英国の十九世紀末期のフリーレネサンスとも称する様式が多大の影響を及ぼしてゐる。(…)英国の建築を紹介したムテシウスの著書などは此点では非常な功績を挙げた。」と述べているのはなかなか穿った見方だと思う。

 第六講 英米の新建築

英国の新建築はマッキントッシュ、アメリカの新建築はシカゴ派、F.L.ライトあたりであろうか。

マッキントッシュについて、岡田は「湘南より」(前出)で少しだけ言及している。
アメリカの高層建築については「我が国の建築の過去現在及び未来」(前出)でふれている。
また、ライトについて「新建築の意義」(前出)で論じている。自分達が造る建築について、「或は優麗な点が欠けて居るかも知れぬが適合を欠いては居らぬ、或はアグリーに見ゆる事があつてもフォールス虚偽ではない」というライトの主張を紹介し、岡田自身も「偽りの建築よりもアグリーの建築を選ぶ」と述べている。モリスの「率直な、飾らない作物の精神」からの流れでライトを評価しているようである。

後になるが、竣工直後の帝国ホテルについて、「工芸品として見ていゝものゝ一つだとおもふ、無論そこには美術的価値も認められる、いふまでもなく設計者のライト氏の製作的精神が入つてゐるのが主ではあるがまた、よく職工の綜合的精神も一向につて[ママ]纏められてゐるといへる」(図案と工芸1923.7)と述べている。
ただ、吉田享二の回想によると、「帝国ホテルの如き建築に対しては、自分[=吉田]の記憶が慥かなりとせば技巧の問題よりも醇化の程度が疑問であると話された」(建築雑誌1932.5)という。否定的な評価だが、伝聞であるうえに意味が不明瞭である。

当時は欧米の建築雑誌も入手しやすくなっており、建築家が外遊する機会も増え、海外の建築事情に関してはリアルタイムに近い情報を得られるようになっていた。直接作品を見る機会もないまま、新建築が生まれてきた背景に立ち入って論じることができたのは、それらの情報源のおかげとはいえ、岡田の熱心な研究の成果である。(2015年6月)

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