村井吉兵衛邸(山王荘)をめぐって

1.はじめに
現在、都立日比谷高校のある敷地(東京・永田町)は、かつて「たばこ王」として知られた村井吉兵衛の邸宅であった。和風建築の粋をこらして建てられた大邸宅は、地名(山王台)にちなんで「山王荘」と呼ばれた。現在、この建物の主要部は比叡山延暦寺に移築され、書院として現存している。
山王荘は「武田博士作品集」に掲載されており、武田五一が関わった作品として知られているが、建設の経緯などについて、ここにまとめておきたい。

2.建設経緯の資料
山王荘が移築される直前の昭和2年8月、洪洋社から写真集「山王荘図集」が出版された。昭和9年までに4版を重ねており、建築書としては好評だったようだ。その序文に次のようにある。
「山王台の一角に輪奐の美を極めた純日本式の広大壮麗な屋宇と、林泉の幽邃を誇る大邸宅「山王荘」は、建築上造庭上参考に資すべきもの甚だ多い(略)工学博士武田五一氏、工学士岡田信一郎氏が相談役で、総棟梁として監督に始終した人は小林富蔵氏である。大正四年秋に大体の平面図が出来、大正五年一月に着手したさうだが、竣工期は明瞭でない(略)」
応接間の「欄間は武田五一博士の図案に係る」(同書)というエピソードも伝えられており、武田が細部のデザインにまで関与したことが伺える。
また戸田組(現戸田建設)の「創業追想」(昭和36年)によれば、山王荘は戸田組が引き受けた仕事で、建設期間は大正5年2月から大正8年5月までである。小林富蔵は戸田組の幹部で、初代戸田利兵衛の妹を妻に迎えたが、大正6年に建設途中の山王荘の仕事を譲り受け、独立したという。
同書には、戸田組と村井家とは村井銀行(吉武長一設計、大正2年)建設以来の縁であることや、金閣寺風のパナマ万博日本館(武田五一顧問、大正4年)の仕事を行ったことも記されている。文京区に現存する求道会館(大正4年)はパナマ万博に続く工事で、同じ戸田組が施工していることも付記しておく。

3.武田と岡田の関連
ここで武田五一と岡田信一郎の関連について考察しておきたい。(略)
武田と岡田は同じ工科大学の出身で、卒業年次でいえば武田が9年先輩にあたる。武田は大学卒業(明治30年)後、大学院に進み、のちに工科大学助教授になるが、明治34年-36年には海外留学に赴き、帰国後は京都高等工芸学校に転任している。転任の直後、すれ違いに岡田が大学に入学している。
武田はこれ以後、関西圏を基盤に活躍してゆくが、様々な公私の所用で東京に来ることが多かった。明治43年には武田と岡田が建築学会の常議員を務めてもいるし、山王荘建設前の大正4年、武田五一らが工学博士号を授与された際の祝賀会には、両者が共に出席している。また、明治45年には大阪市公会堂の設計競技(コンペ)が行われ、中堅建築家13人が設計案を提出している中に、武田と岡田が含まれている点も注目される。結果は岡田の案が1等当選を果たし、武田は選外であった。武田はパナマ万博の準備に「渡米致し居り候為め深く考案を練ることを得ざりしは、大いに遺憾とする所」(美術新報)と弁明しているが、後輩である岡田の才能を高く評価したことと思われる。一方の岡田も海外の建築・デザイン事情に通じた武田に学ぶことは多かったであろう。
武田は岡田が逝去(昭和7年)した際には「自分は岡田君が大学卒業以来其の最も親しき友として其手腕には徹底的に期待を以っていた一人」(建築雑誌)であると追悼文を寄せているが、この文章からも、深い交友関係があったことが伺える。

4.小林富蔵について
山王荘の施工を行った小林富蔵は余り知られていない人物であるが、戸田組から独立した後、岡田信一郎に関連した作品を多く手掛けている(以下「土木建築請負並ニ関係業者信用録」などによる)。
岡田の設計によるものとして、村上柯吉邸(永田町、大正9年)/小千谷銀行支店(新潟県小千谷、大正10年)/村上喜代次邸(紀尾井町、大正11年、渋谷区内に移築)/青山会館(青山、大正13年)/護国院庫裏(上野、昭和2年、登録文化財)/太陽生命本社(東京・日本橋、昭和5年)/岡田信一郎別邸(熱海、昭和6年頃)などがある。また、渡辺実邸(藤沢、昭和9年)は、岡田建築事務所出身の三井道男の設計である。小林は吉田五十八に対して、最初に和風建築を教えた人物とも言われている。
実施作品の多くが既に失われていることは残念であるが、特に関東大震災を挟んで建設した鉄筋コンクリート造の青山会館の建設工事が小林の評価を高めたようである。また、上記の作品からも、技術面・デザイン面で和風・洋風いずれもこなし、用途では住宅から大規模な事務所・公共建築まで多様な建設工事を手掛ける技量を持っていたことが窺える。建設業が伝統的な棟梁から近代的な請負業者へと転換していった時代に生きた人物の一人、と評価できるだろう。

5.山王荘、その後
山王荘の施主・村井吉兵衛は大正15年1月に逝去した。その後、敷地一体は売却され、関東大震災で罹災した東京府第一中学校(現在の都立日比谷高校)が移転してくることが決まった。その校舎の設計にあたったのは岡田信一郎である。かつて関わった邸宅がわずか7年ほどで撤去されるとすれば、その胸中は複雑であっただろう。
現在、山王荘が移築されている延暦寺には、次のような話が伝えられている。昭和2年8月、「内閣官房」から天台座主・中村大僧正あてに電話連絡があり、「明年、京都で行われる御大典(昭和3年11月)に際し、延暦寺にも多数の来賓が参拝するだろうから、村井邸を購入して迎賓館に充ててはどうか」という趣旨の申し入れがあったという。この申し入れを受けて交渉した結局、昭和2年12月に延暦寺が村井邸の解体部材を購入することが決まった。
その部材の運搬にあたっても相当な苦労があった。御大典に用いるということから、鉄道省の好意で臨時列車が用意され、最寄り駅から現地の比叡山山上まで運搬したが、開通したばかりのケーブルカーでは対応できず、延べ1万人の人力で運び上げられたという。昭和3年4月に搬入が終わり、6月11日に地鎮祭、8月7日に棟上式、11月9日に竣工式と急ピッチで工事が行われた。御大典は11月7日から京都御所で始まったが、11月12日以降、外国大使、政府高官らが次々に比叡山を訪れ、書院で休憩したという。こうして何とか工事を御大典に間に合わせることができたのである。(「延暦寺書院の建物について」平成元年による)
以上の話の中で「内閣官房」から延暦寺に連絡があったという点が奇異に感じられるが、当時は田中義一内閣であり、鳩山一郎が内閣書記官長(現在の内閣官房長官に相当)を務めていた。
鳩山と岡田は高等師範付属中学校(現筑波大学付属高校)に一緒に通って以来の親友であり、鳩山邸(東京・音羽、現鳩山会館)を岡田が設計したことも、よく知られている。山王荘の確実な保存を願う岡田の意を汲んだ鳩山が、仲介に当たった可能性もあると考えられる。
また、日比谷高校敷地内には、かつて村井邸内にあった美術品倉庫がそのまま残され、現在、高校の記念館として使用されている。求道会館に通じるようなセセッションのスタイルで設計されており、武田五一設計と推測されるものだが、これも岡田の配慮により保存されたものと考えられる。
皮肉なことに、当の岡田が設計した校舎は既に老朽化という理由で取り壊されてしまったが、岡田が保存を願った建築物は今も残されていることになる。

(文京ふるさと歴史館「近代建築の好奇心 武田五一の軌跡」2005年)

※その後判明したことなど、こちらもあわせてご覧ください。

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)