2019.04.11

安立糺(南座)

Minamip1060454京都にある劇場、南座の設計者として、安立糺の名が挙げられています。(画像は2009年12月撮影)

安立は名古屋高等工業学校の出身です。同校の『創立二十五周年記念誌』(1931年)の「出身者概況」に、次のような記載があります。

明治四十三年建築科出身者(…)安立糺(福井)
明治四十三年四月-明治四十五年三月 島根県庁土木課奉職、明治四十五年三月-大正元年十二月 南海鉄道株式会社技師奉職、大正元年十二月 京都市役所奉職、大正七年 京都市技師建築係長、大正九年 建築課長(組織変更ノ為メ建築課独立)大正十四年八月 退職、昭和二年一月-現在 建築事務所自営 此ノ間大正四年建築学会正員、大正六年 日本建築協会々員、昭和三年 日本建築士会正員

安立が京都市在職中に京都市本庁舎(現存する三代目庁舎)の建設計画が進められます。本庁舎は京都市建築課が設計し、意匠を中野進一(大正13年京都帝国大学卒、京都市嘱託)が担当し、武田五一が顧問を務めたそうです(推測ですが、京都市からデザインを依頼された武田が、教え子の中野を推薦したのでは?)。
安立が建築課長在任中の大正14年(1925年)3月、本庁舎の第1期工事が着工します(2年後の昭和2年4月に竣工)。

*京都市情報館(市庁舎の沿革設計者

本庁舎の工事中の大正14年に京都市を退職したのは、疑獄事件に連座したため、ということです(川島智生「大正・昭和戦前期の京都市における鉄筋コンクリート造小学校建築の成立とその特徴について」、1998年)。

独立したばかりの安立が手がけた大仕事が南座の設計です。「南座改築工事概要」(1929年、京都府立総合資料館所蔵 )には「設計者:安立建築事務所、施工者:白波瀬工務店」とあります。ただ、棟札によると、設計施工は白波瀬工務店(店主白波瀬藤三郎)となっており、安立の名がないのは少々不審なところです。

(この記事は以前「歌舞伎座の和風意匠」のコメント欄に書いた内容をまとめたものです)

| | コメント (1)

2018.11.02

蒲原重雄と野上弥生子

野上弥生子の全集で昭和3年の日記を拾い読みしていたら、別荘関連で蒲原重雄の名が出てきた。蒲原は小菅刑務所を設計した司法省の技師である。

昭和の初め、法政大学学長の松室致が北軽井沢に別荘地(法政大学村)を拓き、そこに法政大学の教員らが別荘を建てた。弥生子の夫・豊一郎は法政大学教授で、野上夫妻と家族は大学村開発当初からの住民になった。
法政大学村
Kitap1040021
初めに建った40棟の別荘は蒲原が設計した。
野上弥生子は日記に、「技師の蒲原氏が一軒と同じ家はないやうな奇抜な設計で建てたのださうである」と書いている(1928年7月29日)。

続きを読む "蒲原重雄と野上弥生子"

| | コメント (0)

2015.07.05

佐藤武夫自邸

Satop1140586
電車の窓から見える洋館が以前から気になっていました。

雑誌「新建築」(1931.5)掲載の佐藤武夫邸に似ているな、と思って調べてみると、所有者は変わっていますが、地番が一致しており、やはりそうかも…。

佐藤武夫は早稲田大学教授。建築音響学で知られ、戦前の仕事として大隈講堂や岩国徴古館などが知られています。戦後は設計事務所を開設し、各地に多くの作品を残しました。

Satop1140587
自邸は1930年2月竣工。箱根土地が分譲した近郊の住宅地にありました。
佐藤の生涯を描いた「ロマンティストたちの家」によると、空襲で屋根を破損し、戦後の改修工事で屋根裏部屋を設計事務所にしたそうです。
(画像は2014年6月撮影)

| | コメント (0)

2015.05.31

堀越三郎

4年ほど前の記事で、ルビエンスキーの来日以来、堀越三郎が後援をしていた、と書いたのだが、堀越のことはよくわからないままであった。最近、資料が集まったので経歴をまとめておく。

1886年(明治19年)3月27日、数学者・上野清の三男として東京に生まれる。
1910年(明治43年)7月、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。
1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科を首席で卒業。清水組に入社(1913-1917年)。
1917年、大学院に入り、鉄筋混凝土構造を研究。
1919年8月、東京帝国大学助教授に就任(建築学を担当)。
(助教授時代)1920年、アメリカを視察。
1925年3月、退官。堀越建築事務所を主宰。
1929年12月、「明治初期の洋風建築」を刊行。
1932年1月、「明治初期の洋風建築」で工学博士号を取得。
1945年、事務所閉鎖。
戦後、東京中学校、東京高等学校学校長、工学院大学教授。
1972年9月30日、逝去。

数学科を出た後、建築学科に入り直した理由はよくわからない。兄の繁は父の跡を継いで数学者になっており、別の道を歩くことにしたのだろうか。建築学科卒業後、堀越角次郎(2代目)の娘、福子と結婚し、資産家で知られる堀越家の養子になった。

大学を辞めた理由について、滝沢真弓(1920年東大卒)によれば、「上司の教授と意見が会わず」(佐野利器のことか?)、同僚の田中(江國)正義助教授とともに退官したという(2人の後任が岸田日出刀、武藤清か)。
退官後、田中とともに建築事務所を始め、滝沢も誘われて入所した。堀越は事務所経営のかたわら、日本建築士会の育成や明治建築の研究を進め、田中は仕事の合間に構造学の研究をしていた。経営は赤字で、ある日訪ねてきた島田藤(1918年東大卒)は笑って、「ここはまるで大学院みたいだな、堀越さんは道楽で事務所をやっているのではないか」と言ったそうだ。

実父・上野清が創立した東京中学校は関東大震災後、西神田に再建された。RC造3階建の校舎は堀越の設計である。

堀越は錦絵をはじめ膨大な資料を集めていたそうだが、戦災ですべて失った。

東京中学校(鵜の木に移転)は兄の上野繁が2代目校長を務めていたが、戦後、公職追放となり、堀越が校長になった。

冒頭のルビエンスキーの話に戻ると、両者がどうやって関わるようになったのかは依然不明なままだが、堀越は「経済的に恵まれた境涯」で、芸術家の後援をするくらいの余裕はあったのだろう。

続きを読む "堀越三郎"

| | コメント (2)

2014.08.06

萬翠荘の建設

(前の記事の続き)
「拓川集」には、萬翠荘の竣工前後の加藤恒忠の書簡が掲載されている。

(史料5)1922年10月26日付、加藤(東京の賀古病院に入院中)から木子七郎宛書簡
 竣工間近の時期の書簡で、「松山の事大安心に御座候 路易(ルイ)十六世式金ピカは少々おかしからんと存候」とある。
(どういうことだろう?加藤は兼ねてから「金ピカ」の西洋館になることを案じていたが、写真で出来栄えを見て安心した、といった意味か?)
(史料6)同年11月1日付、(入院先から)木子宛書簡
 「一番町(萬翠荘)は御骨折にて既に竣工奉 欣賀候」とあり、10月中にほぼ完成していたようだ。
加藤は11月15日に退院した後、松山に向かった。皇太子(後の昭和天皇)が松山を訪れることになっていたからである。皇太子は香川で行われた特別大演習の後、11月22日から24日まで萬翠荘に滞在した。
(史料7)同年11月26日付、(松山から)木子宛書簡
 「一番町は御尽力の結果大成功にて 殿下(皇太子)は盛に御気に入り宮様にむかはせ『自分もこんな家が欲しい』と被仰候由」とあり、皇太子が萬翆荘を気に入ったことが木子に伝えられた。

| | コメント (0)

2014.07.31

萬翠荘設計の経緯

bansuisou
旧松山藩主、久松家の邸宅「萬翠荘」(松山市一番町)は木子七郎が設計したルネサンス風の西洋館である。竣工は1922年(大正11年)11月と見られる。
木子は、萬翠荘の着工に先立ち、海外視察に出かけている(1921年2月から11月まで)。
なお、1921年3月の日付のある萬翠荘の図面が残っており、出発前にはおおよその平面や外観デザインは出来上っていたことになる。(参考:「萬翠荘調査報告書」2010年)

この間の経緯をうかがう史料が加藤恒忠(元外交官、松山市長)の遺稿集「拓川集」に掲載されている。加藤は木子の義父にあたる新田長次郎と同郷で、親交があった。木子との関わりは新田の紹介によるものと思う。

(史料1)1920年(大正9年)8月1日付、東京の加藤から、大阪の木子宛書簡
 「来春は御遠遊のよし」という一節があり、加藤がこの時点で木子の海外視察計画を知っていたことがわかる。
(史料2)1921年1月6日付、木子宛書簡
 「此度久松家にて松山別荘新築の事に内定に付 是非御相談を要する件出来」とある。萬翠荘の建設につき、加藤が木子に相談を持ちかけている。
(史料3)同年1月8日付、日記
 加藤が大阪の木子と新田を訪ねている(「下阪 訪木子新田」)。
(史料4)同年2月24日付、木子宛書簡
 石井菊次郎(当時は在フランス大使館、特命全権大使)への添書(紹介状)を、加藤が外務省経由で木子に郵送する、という内容。(木子の出発直前の時期であろう)

史料2から、(加藤を通して)木子に萬翠荘の設計が依頼されたのは1921年1月上旬ということだろうか?、としばし考え込んでしまった。

しかし、1月上旬に初めて依頼を受けたのだとすると、2月(下旬?)の出発までに基本設計をまとめるのはちょっと無理ではないか…。「別荘新築」が内定する前段で、規模や予算など、おおよその検討はしていたのではないか…。

結局、書簡の文面だけではちょっと判断がつかないので、詳しい方からご教示いただければありがたい。

| | コメント (0)

2014.06.30

木子七郎の謎


Ehimeken
愛媛県庁舎などの設計者、木子七郎については、わからない点が意外に多くあります。

例えば、木子が亡くなったのは1955年(昭和30年)だと思っていたら、最近ではなぜか1954年とされることが多いのですが(「萬翆荘調査報告書」など)、不審なことです。
大阪日赤病院が1955年に米軍の接収を解除された後、木子が増築計画の設計依頼を受けているので(「看護」1955年4月号)、没年が1954年ということはありえません。
かと言って、1955年の何月に亡くなったのかがよくわからず、困ったことです。

木子七郎の謎についてはまた別に書きます。

| | コメント (1)

2014.06.06

高松政雄

昭和2年版の「建築年鑑」に「昭和二年の我建築界」という6ページほどの記事が載っています。筆者は「圓夢亭」という人で、「建築は構造である」、「機能が建築を形作る」といった単純な議論に対して、次のように述べています。

時代の成果たる「科学の基礎」の上に立ちながら、而も「古典」の丘に嘗て之を仰いだ如き所謂「直截なる明快」の俤と、「ロマンティシズム」の野に昔 之を味うた如き所謂「嫋々たる余韻」の流れとの両者をば、果して如何に調和せしめんかの模索に在り
タイトルから想像される当時の建築作品の紹介はほとんどなく、記事の大半は上記のような理念的な内容です。
それにしても、何となく岡田信一郎が言いそうな内容でもあります。
Hamada
「圓夢亭」って誰?と思ったら、「高松政雄君の制作と著作」にある蔵田周忠の一文で、高松のペンネームとわかりました。(イニシャルの「MT」→「圓夢亭」)
高松は東大建築学科出身で、安井武雄の同期生。岡田の4学年後輩になります。大学卒業後は曽禰中條建築事務所に勤め、慶応病院などを担当しています。

高松は建築評論を多く残しており、蔵田周忠は、美文調で知られる高山樗牛になぞらえています。
1934年(昭和9年)に50歳で亡くなりました。岡田の遺作・明治生命館が竣工した年です。
(写真は前掲書より産科婦人科浜田病院、1926年)

| | コメント (0)

2014.04.08

神田の棟梁たち

前々回の記事でふれた「石井権三、長谷川金太郎、富樫文治」について、少し調べたところ意外な事実が判明。

1913年(大正2年)5月に、神田区三崎町の「石井権蔵」が亡くなり、5月29日の読売新聞に死亡広告が載ってますが、「親戚総代」の中に「富樫文次」「長谷川金太郎」の名前がありました。親戚同士だったとは。
新聞記事を検索すると、3人の名前がいくつか見つかります。

■富樫文治
「建築請負業界の偉人富樫文次」と、1917年(大正6年)1月27日読売新聞の死亡記事にあります。心臓病で1月24日に死去。「年六十四」ということなので、1854年生れ(嘉永7年、ペリー来航の年)でしょう。

伊勢の常夜燈を寄進したのは数えで61歳のときです。

富樫登和(妻)が富樫組を継ぎ、養子の富樫厚博が内外エレベータの東京支店を兼ねることになった(?)ようです。(杣辺さん情報)

■長谷川金太郎
初代は1909年(明治42年)9月に死去。自宅は神田区錦町三丁目。
所沢飛行場飛行船庫(1914年、設計田村剛・内田祥三)の工事を行ったのは二代目でしょうか。

(補足)セントルイス万博(1904年)で日本館の工事を担当した同名の人がいますが、こちらは芝居の大道具で知られ、浅草、下谷あたりに住んでいたそうなので別人でしょう。
また、神田囃子の家元(明治~昭和初期)や、弘前教会の施工者(明治39年竣工)にも長谷川金太郎の名が出てきますが、同一人かどうか不明です。

■石井権蔵
初代は1913年(大正2年)5月に死去。自宅は神田区三崎町三丁目。千葉の中山に大きな別荘があり、中山協和銀行の頭取でもありました(5月29日読売新聞)。
養子の藤吉(旧姓久我)が二代目を継ぎ、鉄筋コンクリート造の建築をかなり多く手掛けたようです。

東京帝国大学、東北帝国大学、学習院、東京美術学校などの学校建築を多数施工しています(「日鮮満土木建築信用録」1925年)。
小笠原伯爵邸の施工者(石井組)もそうでしょうか。

石井組については、もう少し資料がありそうです。

(富樫文次か文治か、石井権三か権蔵か、は謎のまま)

| | コメント (0)

2013.10.18

蒲原重雄

小菅刑務所の設計者、蒲原重雄について。

蒲原は1922年(大正11年)3月に東京帝国大学の建築学科を卒業し、司法省入り。国立公文書館のアーカイブで検索すると「初叙判任官制限外任用之儀」(大正11年12月27日)という文書があり、嘱託の身分で月の手当が110円。同じ年、第一銀行の初任給が50円(大卒、手当別?)というので(値段の明治大正昭和風俗史)、中々いい収入だったようです。
Kochip1130590
当時、司法省の営繕にいたのは山下啓次郎。
山下は明治の人、というイメージでしたが、調べてみると昭和5年4月まで在職してました。後輩には自由に設計させていたのでしょうか。

蒲原は司法省の仕事の他に、法政大学第四校舎(1928年)や軽井沢の法政大学村(別荘)を設計してます。なぜ法政?と思ったら、第三校舎(1927年)を山下が設計しているので、おそらく山下に頼まれたのでしょう。法政の松室学長が桂内閣や寺内内閣の司法大臣を務めた縁によるようです。
第四校舎の設計は無償だったとか。(石井翔大氏の修士論文より)

豊多摩監獄(中野刑務所)の設計者、後藤慶二は37歳(数え)で亡くなり(1919年)、蒲原は35歳で亡くなりました(1932年)。

| | コメント (1)

より以前の記事一覧