2020.03.08

OSN138渡辺仁

Daiichiimg_2590 渡辺仁(1887-1973年)は銀座和光や東京国立博物館(原案)などの設計者として知られている。人物紹介はINAX REPORTの特集記事(大川三雄氏、2010年)がわかりやすいだろう。東京帝国大学建築学科の出身で、岡田信一郎の6年下に当たる。
渡辺仁の言葉として、建築史家の佐々木宏氏が記しているものがある。佐々木氏は1961年に渡辺から話を聞いたという。(『真相の近代建築』)

設計競技では一等を狙って、徹底的に審査員の顔ぶれを研究した。目標とした建築家は岡田信一郎、設計競技の成果やデザインの多様性には敬服させられた。(略)意匠は「社会の要請」や「施主の意向」に応じるのが当然ではないか。

前の記事では渡辺仁が明治生命に提出した応募案(多分)を紹介した。それを見た上でこの言葉を読むと、渡辺は自分の案が保険会社側の意向に沿っていなかったことを思い知らされたのかもしれない、などと想像してしまう。
この後で、渡辺が第一生命館の設計に関与することも少々因縁めいている。第一生命館(1938年竣工)は渡辺仁、松本与作の共同設計とされ、「外観のデザインは、まず設計競技によって十点が選出され、それを参考にして渡辺仁が新たに設計し直した」(『建築探偵術入門』)。

第一生命館の基本計画は本社の営繕課長だった松本与作が既にまとめていた。1932年に行われた設計コンペで選出された10案は参考にされただけで、入選者は設計に関与していない。(コンペの審査員は、葛西萬司、横河民輔、桜井小太郎、佐藤功一、中條精一郎で、明治生命館のコンペに指名された建築家と重なっている)
渡辺仁が設計に加わるのは矢野恒太社長の判断によるもので、渡辺は石坂泰三専務の親戚という縁があった。
松本与作は建物の三方向をトスカナ風の列柱が並ぶアーケードで囲む案を作っていたというが、渡辺仁の設計により簡潔で風格あるデザインにまとめられた(伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』)。

※当時の文献の表記は「渡邊仁」「松本與作」。

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2019.11.20

関根要太郎展

Seisekiimg_1085 多摩市の旧多摩聖蹟記念館で「関根要太郎展」が開催されています。
関根要太郎はこの記念館を設計した人物で、今年が没後60年に当たります。不動貯金銀行の建築を多く手掛けているほか、聖蹟記念館や京王閣(取壊し)などの作品が知られています。ユーゲントシュティル風の初期作品を函館に残しているのもユニークです。
建築家の作品展と言えば、まずは設計図面を並べるところでしょうが、関根の図面類はほとんど見つかっていないようです。史料が少ないため、雑誌記事などの展示が大半ですが、絵はがきなどのコレクションに感心しました。ブログ「関根要太郎研究室@はこだて」の方が展示に協力しているそうです。

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2019.04.11

安立糺(南座)

Minamip1060454京都にある劇場、南座の設計者として、安立糺の名が挙げられています。(画像は2009年12月撮影)

安立は名古屋高等工業学校の出身です。同校の『創立二十五周年記念誌』(1931年)の「出身者概況」に、次のような記載があります。

明治四十三年建築科出身者(…)安立糺(福井)
明治四十三年四月-明治四十五年三月 島根県庁土木課奉職、明治四十五年三月-大正元年十二月 南海鉄道株式会社技師奉職、大正元年十二月 京都市役所奉職、大正七年 京都市技師建築係長、大正九年 建築課長(組織変更ノ為メ建築課独立)大正十四年八月 退職、昭和二年一月-現在 建築事務所自営 此ノ間大正四年建築学会正員、大正六年 日本建築協会々員、昭和三年 日本建築士会正員

安立が京都市在職中に京都市本庁舎(現存する三代目庁舎)の建設計画が進められます。本庁舎は京都市建築課が設計し、意匠を中野進一(大正13年京都帝国大学卒、京都市嘱託)が担当し、武田五一が顧問を務めたそうです(推測ですが、京都市からデザインを依頼された武田が、教え子の中野を推薦したのでは?)。
安立が建築課長在任中の大正14年(1925年)3月、本庁舎の第1期工事が着工します(2年後の昭和2年4月に竣工)。

*京都市情報館(市庁舎の沿革設計者

本庁舎の工事中の大正14年に京都市を退職したのは、疑獄事件に連座したため、ということです(川島智生「大正・昭和戦前期の京都市における鉄筋コンクリート造小学校建築の成立とその特徴について」、1998年)。

独立したばかりの安立が手がけた大仕事が南座の設計です。「南座改築工事概要」(1929年、京都府立総合資料館所蔵 )には「設計者:安立建築事務所、施工者:白波瀬工務店」とあります。ただ、棟札によると、設計施工は白波瀬工務店(店主白波瀬藤三郎)となっており、安立の名がないのは少々不審なところです。

(この記事は以前「歌舞伎座の和風意匠」のコメント欄に書いた内容をまとめたものです)

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2018.11.02

蒲原重雄と野上弥生子

野上弥生子の全集で昭和3年の日記を拾い読みしていたら、別荘関連で蒲原重雄の名が出てきた。蒲原は小菅刑務所を設計した司法省の技師である。

昭和の初め、法政大学学長の松室致が北軽井沢に別荘地(法政大学村)を拓き、そこに法政大学の教員らが別荘を建てた。弥生子の夫・豊一郎は法政大学教授で、野上夫妻と家族は大学村開発当初からの住民になった。
法政大学村
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初めに建った40棟の別荘は蒲原が設計した。
野上弥生子は日記に、「技師の蒲原氏が一軒と同じ家はないやうな奇抜な設計で建てたのださうである」と書いている(1928年7月29日)。

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2015.07.05

佐藤武夫自邸

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電車の窓から見える洋館が以前から気になっていました。

雑誌「新建築」(1931.5)掲載の佐藤武夫邸に似ているな、と思って調べてみると、所有者は変わっていますが、地番が一致しており、やはりそうかも…。

佐藤武夫は早稲田大学教授。建築音響学で知られ、戦前の仕事として大隈講堂や岩国徴古館などが知られています。戦後は設計事務所を開設し、各地に多くの作品を残しました。

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自邸は1930年2月竣工。箱根土地が分譲した近郊の住宅地にありました。
佐藤の生涯を描いた「ロマンティストたちの家」によると、空襲で屋根を破損し、戦後の改修工事で屋根裏部屋を設計事務所にしたそうです。
(画像は2014年6月撮影)

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2015.05.31

堀越三郎

4年ほど前の記事で、ルビエンスキーの来日以来、堀越三郎が後援をしていた、と書いたのだが、堀越のことはよくわからないままであった。最近、資料が集まったので経歴をまとめておく。

1886年(明治19年)3月27日、数学者・上野清の三男として東京に生まれる。
1910年(明治43年)7月、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。
1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科を首席で卒業。清水組に入社(1913-1917年)。
1917年、大学院に入り、鉄筋混凝土構造を研究。
1919年8月、東京帝国大学助教授に就任(建築学を担当)。
(助教授時代)1920年、アメリカを視察。
1925年3月、退官。堀越建築事務所を主宰。
1929年12月、「明治初期の洋風建築」を刊行。
1932年1月、「明治初期の洋風建築」で工学博士号を取得。
1945年、事務所閉鎖。
戦後、東京中学校、東京高等学校学校長、工学院大学教授。
1972年9月30日、逝去。

数学科を出た後、建築学科に入り直した理由はよくわからない。兄の繁は父の跡を継いで数学者になっており、別の道を歩くことにしたのだろうか。建築学科卒業後、堀越角次郎(2代目)の娘、福子と結婚し、資産家で知られる堀越家の養子になった。

大学を辞めた理由について、滝沢真弓(1920年東大卒)によれば、「上司の教授と意見が会わず」(佐野利器のことか?)、同僚の田中(江國)正義助教授とともに退官したという(2人の後任が岸田日出刀、武藤清か)。
退官後、田中とともに建築事務所を始め、滝沢も誘われて入所した。堀越は事務所経営のかたわら、日本建築士会の育成や明治建築の研究を進め、田中は仕事の合間に構造学の研究をしていた。経営は赤字で、ある日訪ねてきた島田藤(1918年東大卒)は笑って、「ここはまるで大学院みたいだな、堀越さんは道楽で事務所をやっているのではないか」と言ったそうだ。

実父・上野清が創立した東京中学校は関東大震災後、西神田に再建された。RC造3階建の校舎は堀越の設計である。

堀越は錦絵をはじめ膨大な資料を集めていたそうだが、戦災ですべて失った。

東京中学校(鵜の木に移転)は兄の上野繁が2代目校長を務めていたが、戦後、公職追放となり、堀越が校長になった。

冒頭のルビエンスキーの話に戻ると、両者がどうやって関わるようになったのかは依然不明なままだが、堀越は「経済的に恵まれた境涯」で、芸術家の後援をするくらいの余裕はあったのだろう。

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2014.10.25

OSN094建築条例実行委員会

Sinohp1140923 建築学会の建築条例実行委員の1人に田島穧造という人がいた。読みは「せいぞう」であろう。(「穧」は環境依存文字なので文字化けが心配である)

田島は1870年(明治3年)生れ。1892年(明治25年)、伊東忠太と同年に帝国大学造家学科を卒業。本館建設工事中の日本銀行に勤めたが、なぜかすぐに辞めている。その後、陸軍技師を経て台湾総督府建築技師。セントルイス万国博覧会(1904年)を機に、1903年から1905年まで欧米に出張。1906年に官職を辞し、その後、1910年から東京市に勤めた。
1916年(大正5年)に建築条例実行委員となったが、1917年1月30日、48歳(数え)で逝去した。
四谷見附橋や新大橋(明治村に復元)、鍛冶橋・呉服橋(堀の埋立てにより撤去)の装飾は、田島によるものだという(建築雑誌362、伊東忠太の追悼文による)。これらの橋は、明治末から大正初めの市区改正事業で架け替えられたものである(橋梁自体の設計は土木技師)。

(画像は新大橋の江東区側にあるモニュメント:田島デザインか?)

さて、岡田及び建築条例実行委員会は、市街地建築物法の制定過程においてどのような役割を果たしたのか。改めて考えているうちに長大な文章(都市計画法等の制定まで)になってしまったが、何人かキーパーソンがいたことがわかる。
中でも内田祥三は、条文の作成を一貫して地道に続けており、実務面での功績は大きい。

その内田が十数年後の「回顧座談会」で、都市計画法・市街地建築物法の制定運動に尽くした人物として挙げたのは、片岡安、清水仁三郎であった(建築雑誌617)。
岡田に一言ふれてもよかっただろうに(言い忘れたのか、言うまでもないと思ったのか、もしかすると何かひっかかるものがあったのか…)、と岡田ファンとしては気になるのである。

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2014.09.12

OSN091清水仁三郎

以前、「岡田と都市計画」の項で、1918年(大正7年)2月、建築学会など4団体が連名で、建築法令の制定に関する意見書を寺内首相、後藤内相らに提出したことを記した。

(注)当時はまだ建築を規制する法令がなく、建築学会等が制定運動を行っていた。正確に言うと、このとき(2月6日)首相は病気で、官邸の秘書官に面会した。

当日、首相官邸等を回ったメンバーの中に岡田の名前があり(朝日新聞1918.2.7ほか)、再度調べてみたのだが、記事に少々混乱があり、岡田は同行していなかったようだ。
実際に回ったのは、4団体代表の塚本靖(建築学会副会長)、長野宇平治(日本建築士会会長)、片岡安(関西建築協会理事長)、藤原俊雄(都市協会幹事)と、清水仁三郎であった。(建築雑誌、関西建築協会雑誌)

清水について知る人はごく少ないと思う。筆者も全く知らなかったが、今回、少々資料を集めたので、書いておきたい。

清水仁三郎は1878年(明治11年)2月19日、京都の建築家、清水清兵衛の次男として生れた。岡田より5年上ということになる。(次男なのになぜ、ニサブロウなのか)
同志社を経て、後に建築工学を学び、1902年に岩崎家の建築技師になった。「同四十四年(=1911年)、岩崎家建築事務閉鎖と共に(…)清水工務所を開設す」、と「人事興信録」(4版、1915年)にある。
ただし、1908年(明治41年)5月6日の朝日新聞には「多年コンゲル氏(コンドルの誤植)に学べる田中正蔵 清水仁太郎両氏は内幸町に … 建築工務所を開設せり」とあり、独立の時期は1908年が正しいかもしれない。
田中正蔵は河合浩蔵に学んだ後、コンドルの事務所に入った人物。後に横田組を興し、ガーディナー設計の内田定槌邸(1910年、現在の「外交官の家」)を請負ったという(「ジョサイア・コンドル展」図録所収の堀勇良氏の論考)。
また、清水は岩崎家の縁で、コンドルと身近に接する機会が多かったはずである。

清水は独立の前後から、設計の分野だけでなく、様々な事業に活動を広げている。
1907年(明治40年)、一時廃刊していた「日刊工業新聞」(現在の同名紙とは別)を復刊させ、社長に就任。また、箱根の強羅に旅館、後楽館を開いた。強羅で初めての旅館である(「大筥根山」1909年)。
他にも伊賀耐火煉瓦社長、播美鉄道常務など、多くの事業を手掛けた(「人事興信録」)。
1912年、京都府から立候補し、衆議院議員(11期)に当選している。立憲国民党に属した。折しも藩閥の内閣に対する批判から護憲運動が起こり、桂首相が辞任に追い込まれた(大正政変)。運動の中心だった国民党の犬養毅が「憲政の神様」と呼ばれることになるが、清水も政界再編の動きの中で奔走していたようである。

冒頭の話に戻って、首相官邸等を回る際、各団体代表に清水が加わったのは、元議員として仲介役的な立場を期待されたためだろうか。

清水の遺した作品はあまり知られていない。湯本の吉池旅館別荘(登録文化財)のほか、茶室が残っている程度のようだ。
吉池旅館別荘は岩崎建築事務所時代の「岩崎彌之助箱根湯本別邸」の和館部分(1904年)である。かつては隣接してコンドル設計の洋館(1909年)が建っていた。

後半生もよくわからないが、亡くなったのは1951年11月である(「歴代国会議員名鑑」)。

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2014.08.06

萬翠荘の建設

(前の記事の続き)
「拓川集」には、萬翠荘の竣工前後の加藤恒忠の書簡が掲載されている。

(史料5)1922年10月26日付、加藤(東京の賀古病院に入院中)から木子七郎宛書簡
 竣工間近の時期の書簡で、「松山の事大安心に御座候 路易(ルイ)十六世式金ピカは少々おかしからんと存候」とある。
(どういうことだろう?加藤は兼ねてから「金ピカ」の西洋館になることを案じていたが、写真で出来栄えを見て安心した、といった意味か?)
(史料6)同年11月1日付、(入院先から)木子宛書簡
 「一番町(萬翠荘)は御骨折にて既に竣工奉 欣賀候」とあり、10月中にほぼ完成していたようだ。
加藤は11月15日に退院した後、松山に向かった。皇太子(後の昭和天皇)が松山を訪れることになっていたからである。皇太子は香川で行われた特別大演習の後、11月22日から24日まで萬翠荘に滞在した。
(史料7)同年11月26日付、(松山から)木子宛書簡
 「一番町は御尽力の結果大成功にて 殿下(皇太子)は盛に御気に入り宮様にむかはせ『自分もこんな家が欲しい』と被仰候由」とあり、皇太子が萬翆荘を気に入ったことが木子に伝えられた。

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2014.07.31

萬翠荘設計の経緯

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旧松山藩主、久松家の邸宅「萬翠荘」(松山市一番町)は木子七郎が設計したルネサンス風の西洋館である。竣工は1922年(大正11年)11月と見られる。
木子は、萬翠荘の着工に先立ち、海外視察に出かけている(1921年2月から11月まで)。
なお、1921年3月の日付のある萬翠荘の図面が残っており、出発前にはおおよその平面や外観デザインは出来上っていたことになる。(参考:「萬翠荘調査報告書」2010年)

この間の経緯をうかがう史料が加藤恒忠(元外交官、松山市長)の遺稿集「拓川集」に掲載されている。加藤は木子の義父にあたる新田長次郎と同郷で、親交があった。木子との関わりは新田の紹介によるものと思う。

(史料1)1920年(大正9年)8月1日付、東京の加藤から、大阪の木子宛書簡
 「来春は御遠遊のよし」という一節があり、加藤がこの時点で木子の海外視察計画を知っていたことがわかる。
(史料2)1921年1月6日付、木子宛書簡
 「此度久松家にて松山別荘新築の事に内定に付 是非御相談を要する件出来」とある。萬翠荘の建設につき、加藤が木子に相談を持ちかけている。
(史料3)同年1月8日付、日記
 加藤が大阪の木子と新田を訪ねている(「下阪 訪木子新田」)。
(史料4)同年2月24日付、木子宛書簡
 石井菊次郎(当時は在フランス大使館、特命全権大使)への添書(紹介状)を、加藤が外務省経由で木子に郵送する、という内容。(木子の出発直前の時期であろう)

史料2から、(加藤を通して)木子に萬翠荘の設計が依頼されたのは1921年1月上旬ということだろうか?、としばし考え込んでしまった。

しかし、1月上旬に初めて依頼を受けたのだとすると、2月(下旬?)の出発までに基本設計をまとめるのはちょっと無理ではないか…。「別荘新築」が内定する前段で、規模や予算など、おおよその検討はしていたのではないか…。

結局、書簡の文面だけではちょっと判断がつかないので、詳しい方からご教示いただければありがたい。

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