2017.03.28

CMに鳩山邸

Hatoyama2017
鳩山邸(岡田信一郎設計)がゲームのCMに登場していました。

Hatoyama001
出演は岡田結実さんですが、岡田信一郎とは関係ないと思われます(多分)。

公式サイト(クラッシュロワイヤル)

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2017.03.23

鍋島閑叟公銅像の再建

佐賀城公園で先日、鍋島直正(閑叟)公の銅像が再建されました。

鍋島直正(1814-1871年)は幕末に佐賀藩の改革を進めた藩主です。生誕100年を前に銅像が建設され、大正2年(1913年)11月に除幕式が行われました。
銅像は武石弘三郎、台座は岡田信一郎によるもので、合わせて8mほどの大きなモニュメントでした。戦争中の昭和19年(1944年)、金属供出により残念ながら銅像は撤去されました。主を失った台座は、その後牛津町(現・小城市牛津公民館前)に移設され、忠霊碑の台座に転用されています。

今回、生誕200年を機に銅像の再建が決まりました。
公式サイト(鍋島直正公銅像再建委員会)
銅像の原型は佐賀大学教授の徳安和博氏が制作(武石が制作した小さな像が遺っており、参考にされたはず)。
台座は反射炉のイメージで造られているそうです(ということは岡田とは無関係)。

岡田ファンとしては、牛津に遺る台座にも注目していただきたいと思います。

以前の記事:2011年11月

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2017.02.28

岡田三郎助アトリエ

渋谷区恵比寿に残る洋画家・岡田三郎助のアトリエの記事が佐賀新聞に載っていました。
佐賀県に移築されることが決まったそうです。保存されるのは朗報ですが、現地に残らないのは寂しいですね。
「岡田三郎助アトリエ保存へ 県立博物館横に移築」(佐賀新聞2017年01月10日)

アトリエをテーマにした映画も公開されます。
あるアトリエの100年

明治時代(1908年)の建築で、確か博覧会(東京勧業博覧会?)施設の払下げを受けて建てたものだったはず。
伊達跡の美術家村について調べていた頃、「まだ残っているのでは」という話を聞きましたが、敷地の外からはよく見えないままでした。

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2017.02.24

台徳院霊廟(増上寺)

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増上寺本堂地下にある宝物館展示室に行ってきました。
1910年(明治43年)、ロンドンで開催された日英博覧会のために制作された台徳院霊廟の模型が展示されています。台徳院は二代将軍秀忠のことです。
模型と言っても10分の1の縮尺でかなり大きなもの。軒下の細かい組物が精巧に作られています。

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台徳院霊廟は旧国宝に指定されていましたが、戦災でほとんどが焼失しています(写真は増上寺三門から100mほど南にある台徳院霊廟惣門の遺構)。
建築模型はかつての霊廟の姿を伝える貴重なものといえます。

岡田信一郎ファン的には日英博覧会というのが非常に気にかかります(岡田と洋行の記事を参照)。
この建築模型は東京美術学校の古宇田実、高村光雲が監督し、当時の職人たちが制作したものです。岡田のすぐ近くで作られていたわけで、その出来上がりを横目で眺めていたのではないか、と想像されます。

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2016.09.29

正木記念館

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東京芸術大学構内に正木記念館があります。
明治後期から昭和初めの30年以上(1901-1932年)にわたって美術学校の校長を務めた正木直彦のため、1935年に建てられました。
設計者の金澤庸治は岡田信一郎の教え子で、美術学校助教授を務めていました。岡田設計の陳列館と並んで建っており、岡田ファンとしては気になる建物です。

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閉まっていることが多く、たまに(年に数日程度?)展示会で使用されています。偶々通りがかりましたが、中を見るのは初めてです(9月11日までの日本画第一研究室発表展)。
記念館2階から隣の陳列館を見たところ。
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記念館の2階は和風の書院造になっています。
今後も大学の文化遺産として活用してほしいものです。

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2016.07.30

OSN117夏目漱石(続)

高校時代の岡田信一郎は夏目金之助の英語の講義を聞いたのか、という疑問を以前の記事で書いたが、その後、史料が見つかり、岡田のクラスを担当していたことが確認できた。

1902年(明治35年)9月から翌年7月の時間割が残っており(駒場博物館蔵)、それによると夏目講師が担当したのは、1年の6クラスと、3年の2クラスであった。3年では2部3年1組(工科理科)と2組(工科農科)で、当時の名簿を見ると大学の建築学科に進んだ人物として、1組に岡田、笠原敏郎、井手薫、橋本勉、2組に倉田謙、本野精吾の名がある。
もっとも、(以前も書いたが)夏目が講師の辞令を受けたのは4月で、授業を始めたのは5月(?)、6月には試験で7月1日が卒業式である。講義は週2回(1組は水・金、2組は月・木)だったが、岡田たちが聞いたのは10回程度であろうか。
(笠原敏郎は卒業が遅れたので、内田祥三と同じクラスで1年間、夏目先生の講義を聞いたはず。)

この頃の夏目先生の様子は次のように記されている(江藤淳『漱石とその時代』第二部)。

一高生たちにも、高いダブル・カラーをつけて尖の細いキッドの靴をはき、小柄な身体をそらせて「爪先ですっすっと廊下を気取って歩いていた」金之助は、洋行帰りの正札をぶら下げたようなハイカラ教師に見えた。

夏目先生が来る前は誰が英語を教えていたか、という点も気になっていたが、前任は山川信次郎だったようだ。山川は夏目の友人である。狩野亨吉と夏目、山川が同じ熊本の第五高等学校に勤めていた時期もある(山川と同行した小天温泉の旅は、後に『草枕』の元になった)。
狩野は1898年11月、一高校長に就任。山川は1889年9月から一高教授になり、夏目は1900年、ロンドンへ2年間の留学に出る。夏目が帰国する少し前の1902年10月、山川は女性をめぐるスキャンダル攻撃にあって、高校を辞任している(『漱石周辺人物事典』)。しばらく狩野校長が英語の代講をしていたらしい。

続きを読む "OSN117夏目漱石(続)"

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2016.07.17

資料に見る近代建築の歩み

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湯島の岩崎邸隣りにある国立近現代建築資料館の展覧会「資料に見る近代建築の歩み」を見てきました。7月31日(日)まで。(公式サイト

以前、トヨタ産業技術記念館(名古屋)で行っていた「近代建築ものづくりの挑戦」と同内容です。

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明治初めの第一国立銀行から、大阪万博おまつり広場まで、図面や写真、模型等を使った展示です。
明治生命館の資料もあり、建設途中の記録映像があります(約34分、12時・3時に上映)。字幕で解説が付いており、名古屋も通算すると3回見てしまいました。
(画像は明治生命館を飾るライオンの装飾の複製)

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2016.05.24

OSN116第一高等学校の寮(続)

以前の記事で、一高時代の岡田が「自治寮に入ったかどうかが謎」と書いたが、関連史料が見つかった。

当時の寮役員が記した「寄宿寮記録」(1900年3月-1901年5月)である(駒場博物館所蔵)。ここに岡田の名が2回登場する。

(明治三十四年一月)二十二日 通学委員会を開く(…)
西寮六番岡田信一郎通学願の件 理由不完全なりし為許可せざると決す

(同年)二月十二日 委員会(…)
西寮六番 岡田信一郎 今学期間の下宿を許すこと

岡田が入学するのは1900年(明治33年)9月だから、入学から4、5か月経った頃の記事である。
これにより、岡田が西寮六番に入っていたこと、通学願を2回出してようやく許されたことが判明した。
岡田が通学願を出した理由は記されていない。「下宿」(?)が許されたのは「今学期間」(3月末まで)だが、その後は順当に寮へ戻ったのだろうか。記録の残る時期は限られており、なお疑問が残る。今後の課題である。

ここで当時の寄宿寮について補足しておく。(第一高等学校ホームページが参考になる)

一高には1890年(明治23年)に寄宿寮が設けられ、当初から学生による自治制をとっていた。全寮制が確立するのは10年後の1900年である。9月に新らしい中寮・南寮・北寮が竣工し、東寮・西寮と合わせて5つの寮が揃った。まもなく寮規程も改正され、従来は「新入学生は(…)一学年間入寮すべきものとす」とされていたのが、「本校学生は在学中寄宿寮に入寮すべきものとす」と明記された。原則として全学生が寮に入ることになったのである。(『第一高等学校自治寮六十年史』)

1899年(明治32年)5月(狩野校長が赴任した翌年)の「寄宿寮記録」には次の記事がある。

若し新入生の入寮を自由にせば自治寮は合宿所と変じ去らんのみ 以て我寮生の目的たる校風の受取願ふべからざるなり 且つ本年新入生に向ては校長より入寮を入学の条件として入寮を迫る演説を乞はざるべからず、然るに校長の意見然らず、(…)此に委員四氏校長を問ひ(…)新入生を悉く入寮せしめざるべからざる所以を陳し将来に於て改善の方針をとる事を答へ以て嘆願し終に許可せらる
校長の狩野亨吉は、入寮を強制することに疑問を持っていたようであるが、寮の役員らは「自由に任せては寮は合宿所と変わらなくなってしまう」、「寮に入らなければ校風が伝わらない」ということで、全寮制の徹底を校長に迫ったのである。
なお、「校風」なるものについてはかねて議論が繰り返されていたが、おおむね「尚武ー元気ー運動ー団結」といった理解がされていた。(『六十年史』)

岡田や鳩山一郎が一高に入学したのは、まさに全寮制が確立するこの時期であった。
鳩山の回想(前出)によれば、「全寮制は感性によくない」ということで入寮を断ったところ、先輩たちが騒ぎ出し、結局1、2か月寮に入ることで妥協したという。
「寄宿寮記録」にはこの件の直接の記事はない。ただし、翌1901年4月に次のような記事がある。

狩野校長は「新入生の通学を許すや否や」は舎監の判断によるべき、という意見であった。これは「昨年九月鳩山事件」の際に校長が約束した内容と矛盾していたため、寮の役員3名が校長を訪ねた。その結果、従来の慣例どおり、通学許可は舎監と委員が協議して決すること、校長は干渉しないことを確認した。

やはり「鳩山事件」は全寮制の根幹に関わるものであり、大きな波紋を呼んだことがうかがえる。
また、親友の鳩山が入寮を拒否し、先輩たちに責められていたとき、岡田はどうしていたのだろうか、といった疑問も浮かんでくるのである。
(狩野の日記が駒場図書館にあるらしいので、機会があれば見ておきたい。残念ながら1900年の分は欠けているようだが。)

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2016.05.22

OSN115一高画学会

洋画家・三宅克己の回想によれば、第一高等学校時代の岡田信一郎が絵画サークルに入っていたという。以前の記事にも記したが、高校時代の岡田についてはエピソードが少なく、貴重な証言である。内容を検証してみたい。

三宅の『思ひ出つるまゝ』(1938年)に、明治30年代に一高画学会を指導していたことが書いてある。
発端は当時、大学生だった中村春二(成蹊学園の創立者)である。学生時代の中村は、雑誌などに投稿し、原稿料を稼いでは、よく旅行をしていた。絵が趣味で、三宅とは親しくしていた(三宅の方が3年上)。

中村先生は、休日などに水彩画の写生道具を携帯され、私と好く郊外に写生に行かれた。某日高等学校の学生を大勢引率して来られたが、それが動機となり私が高等学校の画学会に関係するやうになつた。私の以前に藤島武二先生が指導されて居られたさうだ(…)。日曜日や大祭日毎に弁当持参で、郊外に写生に行くのだが、田端辺の田圃中で終日茶一杯飲む所無く、湯茶の代りに一同農家の井戸の水を飲んで済して置くことも珍らしくなかつた。その頃の出席者は、今日では殆ど皆何々博士級の人ばかりである。上野の東京府美術館や歌舞伎座を設計した故岡田信一郎さんもその仲間の一人であつた。

中村春二は高等師範附属中学出身で、岡田の先輩にあたる。卒業後、長く同窓会幹事を務めており、後輩の間にも顔が広かった。
ここで少々脱線。岡田と同じ中学の1年下だった後藤慶二(建築家)が、中村と登山をした記録がある。中学5年の年(1900年)、後藤は、同級生の石黒忠篤、穂積重遠、加藤鉄之助、波多野義男、大学1年の中村とともに日光などを旅した。日程は7月26日から8月3日であった。中村の紀行文を復刻した『尾瀬、檜枝岐への山旅』(1973年)に同行者6人の写真が掲載されている。

画学会の話に戻る。一高の歴史を記した『向陵誌』(1913年版)に「一高画会のこと」という記事があるが、会の創立についてはあやふやである。

この会の始まりは(…)多分明治三十二三年のころからであらう(…)写生会に出かけたり、内々に品評会のやうなことをしてゐたのがこの会の起源である。そしてその時分には当時水彩画の普及に熱心であつた三宅克己氏やまたは今の文部省展覧会審査員の中澤弘光氏などを指導者と仰いでゐたのである。
活動が中断した時期もあったということで、記事の執筆者・久保正夫(当時3年生、高等師範附属中学出身)も、過去の経緯はよく知らなかったのである。

「明治三十二三年」と言えば、中村が一高を卒業したのが1899年(明治32年)7月、岡田が入学するのは翌1900年9月だが、この頃の三宅は信州の小諸に住んでいた。東京に戻るのは1900年12月である。
中村が高校生を三宅に引き合わせた、というのはそれ以降のことであろう。

その頃の会員の1人に藤懸静也(美術史家)がいる。もともと絵が好きで、川端玉章に学んでいた。高校時代のことを自伝の中で少しだけ言及している(『藤懸静也 作画著述目録 自叙伝』1951年)。

当時一高に画学会といふのがあつて、フランスから帰られた若い三宅克己先生や、中澤弘光先生に水彩画や油絵をならつた。
藤懸は岡田と同時期の入学だが、自分以外の会員について全くふれていないのは残念である。

岡田が卒業した後では、太田正雄(作家木下杢太郎)、児島喜久雄(美術史家)、金森徳次郎(法制局長官等を歴任)らが、画学会に参加している。
ただし、画学会と岡田の関係にふれた史料は、今のところ三宅の回想以外には見当たらない。引続き調べてみたい。

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2016.01.20

西脇邸

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内藤多仲邸(新宿区若松町)の隣にある岡田信一郎設計の西脇邸が、取り壊されてしまいました。

一見、外国人アパート?といった趣きの西洋館で、小川三知制作のステンドグラスがありました。竣工は大正末頃?
昨年の岡田別邸取壊しに続く悲報です。
(画像は2009年撮影)

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