2012.04.04

OSN080明治生命館の建設

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明治生命館は竹中工務店の施工により1930年に着工し、1934年に竣工した。これが岡田の遺作になったことは以前にも書いたことがある。

二号館取壊しに立ち会った曽禰が涙していたことや、石工がストライキを起こす騒ぎのあったこと、弟の捷五郎に召集令状が届いたことなど、何かと建設にまつわるエピソードは多いが、今回は割愛したい。

明治生命側の新社屋の建設担当は、役員の阿部章蔵であった(創業者阿部泰蔵の四男)。明治生命館の竣工後、阿部が社報に書いた文章を引用しておく。(水上瀧太郎は阿部のペンネームである)

建築顧問の曽禰先生は、今年八十三歳の御高齢であるが、雨の日も風の日も現場に御出向 [おでむき] になり、設計施工両方面の指揮監督にあたられた。世間一般に、老大家を顧問とか監督とかに頂く例は少くないが、多くは名目だけか又は特別の事についての相談相手に過ぎないのに、今度の工事に於ては、そんな生温 [なまぬる] い事ではなく、先生御自身の設計のものゝ監督と同じ或はそれ以上に心を籠めて尽くされた。(…)
新館設計者岡田信一郎氏は天才と称されたかくれなき大家であつたが、たつた一つの大なる欠点は、健康に恵まれない事であつた。六十萬人の人間を使用しながら、一人の死者も出さなかつたのは稀有の事だといはれてゐるが、不幸にして工事半途に岡田氏を失つったのは、かへすがへすも残念である。氏は明治生命館の建築を一生の記念塔として、将来にのこさんとこゝろざし、文字通り全生命を打込んでしまつた。新館披露の日、御遺族はその竣工を喜ばれると同時に、個人追慕の感慨に堪へず、しばし涙にくれたといふ事である。ひそかに想へば明治生命館が氏の寿命を奪つたとも言ふべく、立並ぶ大円柱は尊き犠牲を人柱の上に築かれたものとも考えられるのである。
不幸中の幸は、令弟捷五郎氏が最初から協力して居られたので、工事には何の支障もなかつた。(「水上瀧太郎全集」12巻)

本日(2012年4月4日)は岡田が亡くなってからちょうど80年に当たる。

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2012.04.03

OSN079明治生命館

明治生命館の設計者を決める際に設計コンペが行われたことは、以前にも書いたことがある。このコンペには8人の建築家が参加し、互選で設計者を決めたという(「明治生命保険株式会社六十年史」)。

参加者による互選と言えば、大阪市中央公会堂、日比谷公会堂のコンペといった事例はあるのだが、余り見かけない方式である。(なぜ互選になったかは、長くなるので今回省略)
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また社史によれば、コンペを実施した段階では三菱二号館(コンドル設計、1895年竣工、かつて建築学会の事務所も入居していた建物)を保存して、その隣に高層ビルを建てる計画であった。ところが、コンペに当選した岡田から、二号館を取り壊して敷地全体で高層ビルを建てるようにという提案があり、協議の結果そのように決まった、ということである。

個人的には、岡田が発案した、という点に少々引っ掛かりを感じている。それというのも、岡田は関東大震災によって失われてしまった明治建築を惜しむ一文「死児の齢を算えて」を書いており(関東大震災後の言論の項)、二号館の取り壊しを提案するのは、よくよくのことだと思われるからである。
(画像左は三菱二号館、右は東京商工会議所)

1997年、明治生命館は重要文化財に指定され、その後、保存再生工事が行われた。現在、建物の一部が公開されており、2階の資料・展示室には画像データベースがある。
その中に、設計コンペ案のパース図5種類と平面図・立面図等20枚ほどが含まれている。
パース図5枚のうち3枚には佐藤功一のサインがある。ルネサンス系(野村ビル風)、ゴシック系(日比谷公会堂風)、古典主義系(ギリシア神殿風の列柱)の3通りのデザインであり、また、平面図・立面図等は、全て佐藤功一の3案に対応するものである。
他のパース図2枚は渡辺(仁?)案と設計者不明の案である(岡田ではなさそう)。

ところで、渡辺案を除く4案は、二号館の背後に建設する計画(二号館保存案)であるが、渡辺案のみは独立した高層ビルの計画、つまり三菱二号館を撤去して建てるもの(二号案撤去案)となっている。
これらの図面を見ると、いくつか疑問が生じてきた。

・佐藤功一はどうして3案も作成したのだろう? 
・佐藤の図面以外に、(岡田も含めて)他の建築家の図面は残ってないのだろうか?
・当初の計画は二号館保存案だったはずであり、応募者はそれに沿った案を提出したはずである。二号館撤去案は、渡辺(仁?)が提案したことになるのだろうか。
明治生命のコンペについては、不明な点が多い。

コンペで当選した岡田は、高島屋の川勝堅一に書簡を送っている(1929年2月22日付)。

今般(昨年末)明治生命保険会社新築の設計主要なる建築家十名を指名致し設計競技致す事と相成り(…)幸に小生選に当るの光栄を担ひ、昨日右建築の依頼を正式に請け候。
[明治生命の]場所は馬場先門外商業会議所と相対峙する晴れの場所に有之、充分腕を振ひたくと大喜び致し居候。(…)
右設計は一言にては三井銀行の建築が米国建築家に依頼されたるは日本建築家の恥辱とも存じ、三井と同式にて確かに美術的には凌駕し得る自信に御座候。(内部其他の贅沢は不及候が)
アメリカの設計事務所が設計し、竣工間近であった三井本館(同年3月竣工)を意識していたのは面白いが、明治生命館の設計に臨んで、岡田の高揚感や自信のほどが伝わってくる。

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2012.04.02

OSN078新喜楽

芥川賞・直木賞の選考会場としても知られる、築地の料亭、新喜楽。
建築関係者の間では、吉田五十八設計ということでも知られるが、その他はネットにもほとんど情報がない。(グルメ王というサイトに潜入記?がある)

現在の建物は、関東大震災後に再建されたものをベースにしているが、戦後、吉田五十八らによって何度か改修されており、再建当時の部分はあまり残っていないようだ。(奥の方には、震災後に建てられたという古い部屋が残っている模様)

国立国会図書館の岡田信一郎図面の中に「新喜楽」の図面が残っており、岡田がこの料亭の建築に関わりを持ったことがあるのは確かなようである。
図面があるのは、広間と洋間の2部屋分のみである。おそらく、再建後、暫く経ってからの模様替えを岡田が担当したのだろう。
広間の方が写った絵はがきを見ると、欄間など岡田の図面に雰囲気は近いものの、異なる部分もある。

残念ながら岡田が設計した2部屋は、改修されてしまっている。

また、洋間にあったステンドグラスは、取り外されて現存している。ステンドグラス研究家の田辺千代氏は小川三知の作品と考えているようだ。(「小川三知の世界」)
岡田作品に小川三知のステンドグラスが彩りを添えた事例は鳩山邸をはじめ数多いので、成程とも思うのだが、岡田の図面にはステンドグラスは示されていないようだし。

設計の経緯など、どうもスッキリしないまま、何年もモヤモヤしている次第。

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2012.04.01

OSN077国民新聞社

近代日本を代表するジャーナリスト、徳富蘇峰が経営する国民新聞社の社屋は日吉町(銀座)にあった。この建物は関東大震災(1923年)で焼失してしまい、震災直後は一時、F.L.ライト設計の帝国ホテル内に編集部が置かれた。
岡田が設計し、木造バラック建ての仮社屋を建てたことは、以前の項「関東大震災後の仕事」でも書いたとおり。

本建築も岡田の設計によるもので、場所は加賀町(銀座)に移り、1926年に竣工した。古典様式系のデザインで、高い時計塔が特徴であった。施工は上遠組である。
(作品リストには、「国民新聞社 地階附3階建て、鉄筋コンクリート造 人造石ヌリ (延坪数)1,300坪 (竣工、大正)15年4月」とある)

青山会館、徳富邸、民友社(木造)など、徳富蘇峰関係の仕事を多く手がけた岡田にとって、国民新聞社の仕事を引き受けたのは、ごく自然な流れだったことだろう。

…と数年前まで考えていたのだが、意外な資料が見つかった。

震災の翌年1924年1月に、国民新聞新社屋の計画がパース図とともに発表されるが、設計をしたのは岡田ではなくて、ヴォーリズであった。
なぜヴォーリズに頼むことになったのだろうか。

震災後、個人経営だった国民新聞社は資金難に陥った。
そのとき資金提供を申し出たのが、主婦の友社の石川武美で、石川は副社長に就任した。
石川といえば、クリスチャンとしても知られ、震災後の主婦の友社(1925年)はヴォーリズの作品である。おそらく、石川の縁からヴォーリズに設計を依頼することになったのではないか、と思う。

しかし、新聞経営は勝手が違ったようで、結局石川は5か月ほどで辞任してしまった。
(石川が経営から離れたことで、設計も白紙になったのだろうか…。この辺はまだ不明である。)
(1940年、石川は蘇峰の蔵書約10万冊、成簣堂文庫を一括購入した。現在はお茶の水図書館の蔵書である。)

【参考】有山輝雄「徳富蘇峰と国民新聞」(1992年)

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2012.03.29

OSN0076看板建築(村木商店)

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「岡田さんの看板建築の隣が駐車場になったよ」と聞いて現地に行ってみると、旧村木商店の側面がよく見える状態になっていた。

2003年頃、国会図書館所蔵の岡田信一郎設計図の中にある「村木商店」について、所在地は神田、という情報が得られ、古い商工名鑑を手がかりに神田須田町に行ってみると、残っていたので驚いたものである。

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デザインでは中々凝った装飾が見られるし、建築家が関わった看板建築というのも珍しい存在だと思う。
是非とも往年の姿を取り戻してほしい物件である。

Muraki

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2012.03.28

OSN0075歌舞伎座への補足

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新しい歌舞伎座の建設が進んでいる。劇場部分の屋根も一部見えるようになってきた。
どんな姿になるのやら、不安と一抹の期待。

さて、歌舞伎座や関東大震災あたりの話を続けてきたが、書いたあとになって色々な資料が見つかることも多く、反省しきりである。

歌舞伎座と区画整理」については、「歌舞伎座百年史」資料編と、木村錦花「近世劇壇史 歌舞伎座編」(1936年)を併せて読んでおくべきところ。
後者によると、大谷が「歌舞伎座の建築に斟酌して貰ひたい」と陳情すると、後藤内相から「斟酌は出来ないが、位置の見極めは早くして遣らう」という回答があったとのこと。
木村は1912年に松竹入りし、1928年には取締役に就いている人物だから、内情はよく知っていたはずである。(野田秀樹脚本「研辰の討たれ」は木村の原作をもとにしている)

また、「関東大震災」のところで、岡田の震災当日の行動がわからないと書いたが、どうも歌舞伎座が燃えているところを実際に見ていた(?)らしき文章(1926年)を見つけた。

摶風(破風)造のコンクリート建築の窓から盛んに火を吹く状況も想ひ出される。(…)鉄筋の壁体は無事であつたけれど、舞台上に積上げてあつた建築木材に火が移つて、之れが焼失したため、舞台上の鉄屋根が、飴のやうに捩じくれて、糸のやうにもつれて落ちた、あの恐ろしい姿が浮ぶ。
歌舞伎座が燃え始めたのは1日の午後7時30分頃というが、鎮火したのはいつ頃かよくわからない。
岡田も歌舞伎座炎上の報を聞いて、いてもたってもいられず、木挽町に向かったのだろうか。
疑問は中々尽きない。

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2012.03.25

OSN0074都市研究会

「都市研究会」(後藤新平会長)の話が出てきたが、岡田との関わりで判明しているのは、今のところ次の2点である。

○会の機関誌「都市公論」1919年12月号に会員リストが掲載されており、岡田は特別会員になっている。加入時期は不明。1921年1月のリストにも名前があるが、その後も加入し続けたのかは不明である。
○1919年(大正8年)8月に、都市研究会が都市住宅政策の実行委員を決めるが、岡田は第四部(居住行政に関する件)の委員(主査)になった。(前項。神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)

「都市研究会」は、都市計画をはじめ、都市経営について研究し、一般向けの啓発を行う団体であった。官僚や研究者らが役員に名を連ね、機関誌「都市公論」の発行や講演会など普及活動を行った。
都市研究会に結集したのは、阪谷芳郎、片岡安、関一、内田祥三、笠原敏郎らで、その後も都市計画の推進に努力した人々である。都市計画法、市街地建築物法の起草を行った池田、佐野、笠原、内田をはじめ、法案の審議を行った「都市計画調査会」のメンバーの多くは、都市研究会の会員であった。(参照:越沢明「復興計画」P26-27)

ただ、設立当初の経緯などについて、今一つはっきりしない感じがする。岡田と関係がある団体ということで、少々寄り道にはなるが、いくつか書いておきたい。

●いつ設立されたのか…機関誌「都市公論」(1921.2)に、副会長の内田嘉吉の発言に「大正六年十月に本会創立の相談がございまして翌七年の二月十一日に始めて本会の趣意書を公にした」とある。設立総会などはなかった。
「都市公論」初期の十数号が欠落していることもあって、設立当初の状況がよくわからないのだが、1917年に「創立の相談」ということは、初めはコアメンバー数人の内々の会合(勉強会?)程度だったように思われる。そこで、都市計画の必要性や一般向けの啓発などが語られ、1918年4月の機関誌「都市公論」創刊に向けて態勢を整えていったのだろう。

●会員は…初期の「都市研究会」の規則を見ると、正会員、特別会員、賛助会員の別があり、会費は正会員が年4円、特別会員が年10円以上、賛助会員は200円以上を拠出した者である。「都市公論」1年分の定価は4円だから、正会員=定期購読者と考えてよさそうだ。(1919年12月号には、正会員1458名とある)

●事務局は…内務省に事務局が置かれた、とされるが、初期の「都市研究会」の規則や「都市公論」の奥付(1919年12月号)を見ると、会の所在地は「麹町八丁目二十八番地」となっている。これは「都市公論」の編集・発行人でもあった幹事の阿南常一の自宅か?(もっとも、入会申込みは、内務省の池田宏あてに出すことになっていた)

●設立の主体は…越沢明「復興計画」に、「佐野利器(…)池田宏(…)渡辺銕蔵(…)藤原俊雄(…)阿南常一(…)らは、都市研究会を結成し、会長に後藤新平(…)を戴いた」とあり(カッコ内は略歴)、素直に読めば、まず佐野や池田らが中心になって集まった団体のように思える。
だが、後藤が中心になって、周りにブレーンを集めたのではないか、とも想像してしまう。

都市計画法制定の動きが具体化するのは、1918年の都市計画調査会の設置によってである。しかし、調査会設置のための予算を通したばかりの4月、後藤新平は内務大臣から外務大臣に転じてしまう。本野一郎外相が病気で辞任したためである。後藤に代わって内務大臣となったのは、次官の水野錬太郎である。(水野は内務官僚上がりだが、政友会入りしていた)
調査会の活動は7月にスタートするが、9月には米騒動のため寺内内閣は倒れ、後藤も大臣職を離れる。政友会の原敬が首相となり、内務大臣は床次竹二郎に代わった。(床次も内務官僚上がりで、政友会に入党していた)
都市計画法が成立するのは床次内相時代である。
このように内務大臣のポストは1年ほどの間に、後藤、水野、床次と変わったが、後藤は都市研究会の会長を務めていたため、一貫して都市計画の問題に関わることになった(もちろんその後も)。

事前にここまで見通して都市研究会を作ったわけではないだろう。少なくとも、1918年4月に内務大臣を交代する際に、後藤が引続き会長職に留まったことで、都市計画の推進に大きな役割を果たすことができたのかもしれない。

後藤の主な経歴(1916年以降) ※後藤記念館の公式サイトに略年譜がある。
・内務大臣兼鉄道院総裁(寺内内閣1916.10~1918.4)
・外務大臣(寺内内閣1918.4~同.9)
・東京市長(1920.12~1923.4)
・内務大臣兼帝都復興院総裁(山本内閣1923.9~1924.1)

(貴族院議員…1903年に勅選され、1929年に逝去するまで務めた)
(都市研究会会長…後藤の逝去後は歴代の内務大臣が務めたとのこと)

●会の活動は…前述のように、機関誌の発行、講演会の開催がメインだが、その他にも法案の作成まで行っている。
1919年11月の新聞記事に「建物会社法案決定す」とあり、都市研究会・都市住宅政策実行委員の池田宏、渡辺鉄蔵、佐野利器らが「公共建築株式会社法案」を立案し、委員総会で決定したという。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)
例の実行委員のうち、第三部(住宅の建築に関する件)による仕事であろう。内容は、各都市に土地開発・建築を行う会社(例:東京市公共建築株式会社)を設置しようというもので、住宅公団のようなイメージだろうか。

■付記
似たような名称の団体に「都市協会」がある。藤原俊雄が両者に関わっているのもややこしい。
当時の新聞記事から推測すると、1915年頃、藤原あたりが呼びかけ、東京府市の関係者(幹部職員、議員)が中心になって集まった、市政研究の団体だったようである。
1916年4月の都市協会晩餐会で、岡田信一郎が「都市と建築」と題した講演を行っている。1918年には、建築学会、日本建築士会、関西建築協会と連名で、都市計画の法制化に向けた運動を行った(前項)。その後の活動についてはよくわからない。

初期の都市研究会、都市協会については詳しい方のご教示を願いたい。

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2012.03.20

OSN0073岡田と都市計画

笠原敏郎は、岡田が都市計画法の制定(1919年)に功績があったと書いている。
かつて建築学会は東京市から委嘱されて建築條例案を作成した(1913年)のだが、「闇から闇へ葬られた様な形」となっていた。

岡田君は非常に憂慮して大正4年建築條例実施促進の運動を起すべく、建築学会に建議案を提出したのであつた。学会は君の意見を容れて実行委員会を設置することゝなり君は其幹事となつて、それ以来、或は政府当局を説き、或は議会に建議し、或は輿論に訴ふるなど、不断の努力をつゞけた甲斐あつて、遂に内務省に都市計画調査会を設置せらるゝ機運となり、愈大正8年に都市計画法並に市街地建築物法案が議会に提出せられたときなどは、学会の実行委員は両院の特別委員を歴訪して其通過を図るなど、非常な努力をしたものであるが、是等の画策の中心となつて働いたものは君であつた。
越沢明氏の一連の都市計画史などを読んでも、岡田のことは何も書いてないが、笠原は、佐野利器・内田祥三とともに市街地建築物法案を起草した人物だから、発言には重みがあるだろう。
岡田は、親友の鳩山一郎(政友会)と協力し、制定運動を進めたとも言われる。
後に岡田が逝去(1932年)した際、勲四等を授けられたが、これも都市計画法制定に対しての功績が認められたためである。

<経過> 
●1906年(明治39年)、尾崎行雄東京市長から建築学会に建築條例案の検討が依頼される。(おそらく当時進んでいた市区改正事業と関連があるのだろう)
以後、6年半の歳月をかけて、海外の法規を参考に、條例案をまとめた。(岡田は直接関与はしていないと思う) 
●1913年(大正2年)、「東京市建築條例案」を提出。東京市から報酬として5000円寄贈された。

●1915年(大正4年)、建築学会の「建築法規委員会」開催。以後、毎月数回集まり、各国の法規を比較し、規則案を作成していった(倉庫規則、病院規則など・・・)。メンバーは内田祥三、笠原敏郎、後藤慶二、野田俊彦ら。(岡田は参加していない)
○同年(11月頃?)、岡田が建築学会に「建築條例実施に関する意見書」を提出した。(内容は未確認だが、「建築世界」掲載の論文と同旨か?)
○同年12月、岡田の建議に基づく「建築條例実施に関する意見書を調査する特別委員会」が開かれた。出席者は中條精一郎、岡田、田島せい造(?)、中村伝治、矢橋賢吉(?)、清水仁三郎。

○1916年1月1日、大阪朝日に岡田の「都市計画と建築條例」掲載。1月11日-14日国民新聞に「都市と建築」掲載。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にあり)
○同月、建築学会の通常総会で「建築條例実行委員」として、中條、大江新太郎、岡田、田島、中村達太郎、中村伝治、矢橋、山下啓次郎、佐藤功一、佐野利器、滋賀重列、清水の12名が決まる。
(後に、実業家の藤原俊雄を特別委員に任命、笠原、長野宇平治らも委員に加わる)

■1917年、片岡安が「同窓建築技術家に告ぐ」を公表。都市計画などの課題に、建築家が大同団結して建築協会を組織することを訴えた。(「近代日本建築学発達史」では、これをきっかけに運動が進んだとする。なお、この年、片岡は都市計画の論文により初めての博士号を取得した。また関西建築協会を設立した。)
■同年10月、佐野、池田宏(内務省、後に初代都市計画課長)、渡辺銕造(東大法学部教授)、藤原俊雄らが「都市研究会」を設立。会長は後藤新平(当時、寺内内閣の内務大臣)。
都市研究会は、主に都市計画の法制化に向けた活動を行った。

○1918年1月 「建築條例実行委員会」の岡田と佐野が協議委員に選定され、日本建築士会(長野宇平治会長)、関西建築協会(片岡安理事長)、都市協会(藤原俊雄幹事)と協議を重ねた。
○同年2月、建築学会と3団体の連名で、内閣総理大臣(寺内正毅)、内務大臣(後藤新平)、陸軍大臣(大島健一)及び政友会幹事長(横田千之助)らに意見書・理由書を提出。(陸軍大臣には防空上の意義を強調した)
また貴族院・衆議院の各議員に同文を印刷し配布した。
なお、佐野の回想には、「関西建築協会、建築学会(私は当時副会長であつた)、都市研究会の3会共同で2法制定につき政府と議会とに運動を開始した。3会の代表として片岡、藤原、私の3人が各省大臣をぐるぐる説き廻つた。」とある。(4団体が連名ということなので、やや不正確では?)
※これを受け、後藤は急遽、都市計画調査会設置のため、追加予算の措置を行った。
■同年5月、内務省に都市計画課を設置。6月に「都市計画調査会」の委員が任命され、7月以降に都市計画法・市街地建築物法の法案が審議された。前者は池田宏、後者は佐野、笠原、内田が起草したもの。
○同年7月、建築学会に「都市計画常置委員会」の設置が決まった。都市計画に関する研究を行う委員会で、岡田も委員を務めた。交通及衛生、地域公園公館及其他公共的施設、建築法規、住居の4部で構成され、岡田は第四部住居に属した。
○同時に、建築條例実行委員会が「都市計画実行委員会」に改称した。都市計画・建築法規の制定運動を行う委員会で、岡田も委員を務めた。

■1919年(大正8年)4月、都市計画法及び市街地建築物法公布。(前者は1920年1月、後者は1920年12月施行)
□同年8月、「都市研究会」(後藤会長)住宅政策委員の第四部居住行政に関する件で、岡田が委員及び主査を務めた。

(丸は建築学会関係、四角はその他。白抜きは岡田に関係のあるものである)

制定の過程を振り返ってみる。まず建築学会の中で岡田の建議に応じて「建築條例実行委員会」が設置された。ただし、当初はそれほど活発な活動はしていないようだ。しかし、あらかじめ組織を作ってあったことで、後の動きがやりやすくなったのではないか。
制定運動のターニングポイントは1918年2月の政府関係者らへの働きかけであろう。建築学会と片岡安や都市研究会の活動などがあいまって、効を奏したのである。

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2012.03.19

OSN0072関東大震災後の言論

岡田は大正中期に、建築条例(現在の都市計画法・建築基準法に相当)の制定運動を呼びかけた一人である。都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建築基準法の前身)は、いずれも1919年(大正8年)4月に成立し、前者は翌1920年の1月、後者は12月、六大都市において施行された。関東大震災(1923年)の数年前である。
例えば東京都市計画の街路網は1921年に決定されたが、財源問題から未着手のままであった。市街地の街路整備が遅れていたため、震災による被害は拡大することになった。

建築の規制や都市計画事業が進んでいれば、これほどの災害にならなかったのではないか…と岡田は悔やんでいた。

岡田が震災後に著した論考には、「中央公論」に寄せた「帝都再建論」、「死児の齢を算えて」、「自力復興」、「建築雑誌」の「耐震耐火建築」、「太陽」の「建築上より観たる震災並に火災の教訓」などがある。
以下に「中央公論」掲載の論考を紹介したい。

■「帝都再建論」(1923年10月号掲載)
震災後間もなく、9月中旬に書かれたものだろう(10月号の発売は10月10日)。まだ復興計画も固まっていない時期に書かれたこともあり、後から読むと違和感を感じる箇所があるが、ここは歴史的な視点から読むべきところだろう。

まず岡田は今回の大惨害(関東大震災)を「人類始まつてからの大惨事」とし、「東京の都市は近代の都市としては余りに多くの欠陥を有つて居た」、「隅田川に架した主橋までが多く焼け落ちた如きは、文明の都市として語るを憚る程の恥辱」と言う。そして、「建築家は、燃え易き家を造り、壊れ易き館を建てた都市に住んで充分の覚醒を図らなかつた事に対して強い自責を感ぜぬわけには行かない」と述べる。

岡田は「小東京の完成」を提言している。繁栄する東京は「大東京」と言われたが、大きいことを誇るだけでは仕方がない。市街地建築物法でも、大通りの表側は耐火建築とするよう規定されていたのだが、裏側が木造建築のままだったため、結局大きな災害が起こってしまった。そこで、日本橋、京橋などのような東京の中心部では、木造建築を禁止し、鉄筋コンクリート造の耐火建築で造るようにして、小東京を完成させよう、という主張である。
中心部以外は、「大体現状のまゝにして自然の発達に委せるがよい」とも言っているので、「小東京」と言っても、東京そのものを縮小させようというわけではなく、一定の範囲(小東京)に、安全な都市を築こうということである。

その他にも都市計画に関わる道路、公園、交通、橋梁などについて論じているが、東京駅は位置が不適当で、「都市計画の大きな邪魔物」と断じているのは面白い。

震災で大きな被害を受けた横浜について、「(東京湾の)埋立地に新横浜区を設けて横浜市民を遷り住ましめたい」などと言っているのは、現在から見ると乱暴な意見のようである。しかし、これにも背景がある。

幕末に開港し、貿易港として発展した横浜とは別に、東京にも港を造ろうという計画が何度か起こったことがある。
東京の発展にとって、築港は必要なことであった。しかし、衰退をおそれる横浜側の反対は熾烈を極めたという。(東京都公文書館の公式サイトにある「市区改正と品海築港計画」を参照)
また、関東大震災の後、全国から救援物資が届けられたが、横浜港は全壊しており、荷揚げも困難な状態であった。東京の自前の港湾施設が必要だ、とも感じられたのではないだろうか。
読む場合は、こうした当時の情勢を考慮する必要があるだろう。
(震災翌年の1924年3月、日の出埠頭の建設に着手し、1925年に完成。その後も色々と経緯があり、1941年5月、国際貿易港として東京港が開港した)

■「死児の齢を算えて」(1923年11月号掲載)
10月10日にニコライ堂の焼け跡を訪れたこと、17日に帝大の図書館(煉瓦造)が爆破されるのを見たことが書かれており、また「四十九日も近い」(本所の被服廠跡で19日に法要が行われた)とあるから、10月18日頃に書かれたのだろう。

震災で被害を受けた江戸時代から明治時代の名建築について書いている。
ふれられているのは、ニコライ堂、高等師範学校(山口半六設計)、湯島聖堂、帝国大学の工学部(辰野金吾設計)、法学部・文学部(コンドル設計)、図書館、東京美術学校の文庫(小島憲之設計)、帝室博物館(コンドル設計)、虎ノ門の旧工部大学校の諸建築、印刷局本館、開拓使物産館(コンドル設計)、兜町の渋沢邸(辰野金吾設計)、深川の岩崎家別邸(洋館はコンドル設計)、神田明神、銀座煉瓦街などである。

岡田は明治建築について、次のように述べている。

設計者の責任感と真摯、工人の熱心と好奇心、とは再び造る事の出来ない建築を造り出した。夫は人の手で造られたもので、機械の作ったものではなかつた。ラスキンやモリスが推賞した中古の建築と同じ心持の建築ができたのであつた
■「自力復興」(1924年1月号掲載)
末尾に11月28日の日付がある(新年号の発売は12月21日)。
岡田は「強い国民、弱い市民」と書いている。明治維新や日清・日露戦争などに見るように、日本人は強い国民である。しかし、市民としては弱いのではないだろうか、として、封建領主に対抗して都市の自治を獲得してきたヨーロッパの市民と比較している。

市民による復興として、具体的には土地区画整理の問題がある。

都市に於ける区画整理は其土地の利用を増進する事 従つて地価の増す事も多大であるから、(…)此の精神さえ了解熟知したならば、如何なる地主と雖 進んで組合を組織して、其進行に骨折るであらう。
東京帝国大学教授で、当時東京市建築局長を兼務した佐野利器の回想に、区画整理の苦労話がある。
[区画整理に対して] 世間にはゴーゴーたる反対の声があった。駿河台一帯を一番初めにやり、これが出来てからは大分わかってきて、反対はゆるんできた。
反対がおさまってきたのは、市民が次第に区画整理の意義を理解してきた結果なのか、それとも反対しても無駄なようだと諦めがついたためなのか、そのあたりは気になるが、ともかく相当困難な事業だったことは想像がつく。3,119haに及ぶ区画整理は、「世界の都市計画史上、壮挙であり、例のない大規模な既成市街地の大改造」だという。(越沢明「復興計画」)

今日では後藤新平(震災当時の内務大臣、帝都復興院総裁)の業績が高く評価されている。
だが、この論考での岡田は、帝都復興院について厳しい評価をしており、「帝都復興の大なる妨害」とまで言っている。
復興は市民が自ら行うべきなのに、復興院が何でも引き受けたような感を与えたために、市民の依頼心を増してしまったことや、都市計画は内務省の仕事なのに、審議会、復興院、復興評議会などと無用の膨大な組織を作ったこと。
また、後藤はかつて東京市長を務め、都市計画について十分調査していたはずなのに、復興のための都市計画案が中々示されず緩慢であること、復興評議会に付議された計画案がずさんであったこと、などを言っている。

岡田は十数年前に、後藤新平の銅像台座を設計したことがある。後藤の主宰する都市研究会にも加わっていたはずである。その割にはずいぶん遠慮のないことを言うものだと思う。
(この直後、12月27日に皇太子が狙撃される虎ノ門事件が起こり、山本内閣は総辞職。やがて、帝都復興院も廃止となった。)

「自力復興」の後、岡田の都市計画に関する論考はほとんど見当たらないようである。1930年に完成した帝都復興事業について、岡田がどのように評価していたのか、定かではない。

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2012.03.16

OSN0071関東大震災後の仕事

鎌倉では東京よりひどい揺れと津波による大きな被害があった。
岡田が設計した鎌倉の別荘は、他の建物が倒壊する中でも無事であったので、岡田の評価が一躍高まった、という話がある。

岡田信一郎君が鎌倉に新築した別荘の洋館はアタリ一面崩壊したマン中にビクともせずに立つてゐる。流石は岡田さんだと早くも設計依頼者が殺到して目の廻る忙しさだ、府から、市から会社から、個人から現存建築の健康診断を依頼される。朝から夜まで引張凧でヘト/\に疲れ乍ら、俺も医者の仲間入りして慈善行為をやつてゐるよと大気焔だ(中央美術}
もっとも、同じ鎌倉でも、米山梅吉別邸は煉瓦造の煙突部分が崩れてしまった。これは施工者の竹中工務店が部材を活かして再建したということである。
Nikorai
別荘が無事だったせいばかりではないだろうが、実際、岡田の許には、バラックの建設や、被害を受けた大小の建物についての相談など、復興のための仕事が数多く来ていた。(以下、時期は前後する)

○国民新聞社…徳富蘇峰が経営する国民新聞社は銀座にあったが、震災で焼失してしまい、木造バラックで社屋を再建した。
蘇峰は後に自伝の中で感謝の言葉を述べている。

当時青山会館の新築中であったから、その工事に従事する人 [小林富蔵] 、及びその監督者たる、岡田学士の好意によって、案外速やかにもとの焼跡に仮普請も出来た。
○日本赤十字社…日本赤十字社本社では、震災の罹災者のため、本郷区元町の松平伯爵邸内にバラック建ての臨時産院と臨時乳児院を開設した。図面が残っており、岡田の設計によるものらしい。
また、日本赤十字社本社の建物(妻木頼黄設計)は震災で被害を受け、本社は東京府農会の建物に間借りしていた。岡田は本社の復旧工事を担当した。(1926年3月竣工)

○東京美術学校…地震で煉瓦造の文庫(小島憲之設計)が被害を受けた。復旧のための詳細設計を岡田が行った。これをもとに11月15日、正木校長が関係書類を文部省に提出した。

○東京府庁舎…丸の内の府庁舎(妻木頼黄設計)は火災を免れたが、震災による被害を受けていた。10月3日、依頼を受けた岡田は建物を調査し、「建物は頗る危険でもう一度大きな地震でもあれば一堪りもなく潰れてしまふ」と言った。一方、内務省技師の角南隆の意見では、応急の修繕工事で問題ないということだった。(読売新聞)
結局、大がかりな復旧工事が行われることになったようだ。

○東京府知事官邸…芝公園の官邸(久留正道設計)が被害を受け、岡田が復旧工事を担当した。

○東京復活大聖堂(ニコライ堂)…煉瓦造の大聖堂(コンドル設計)は、火災により内部を焼失し、ドーム屋根が崩れ落ちるという大きな被害を受けた。岡田が教会関係者の依頼を受け、現地を訪れたのは10月10日であった。
これも岡田が復旧工事を担当した。(1930年2月竣工)

この他にも、石黒忠悳邸の土蔵修復の相談に乗ったり、バラック建築の設計などを行っていた。

上野の帝室博物館(コンドル設計)は、震災で大きな被害を受け、取り壊されることになったが、岡田は当時行われた座談会で、自分に任せてくれれば、という意味の発言をしている。
11月27日、正木校長と岡田は、博物館の大島総長を訪ね、美術館の敷地について相談した。その後、「大島氏の案内にて(…)博物館本館の震害の程度を視察」した。既に10月末に、爆破する方針が決まっていた。

(画像は建築雑誌447号、ニコライ堂)

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