2021.02.01

OSN149山王荘の園遊会

1920年(大正9年)4月10日・11日、永田町の山王荘で園遊会が開かれた。
山王荘は実業家・村井吉兵衛が再婚を機に建設した純和風の大邸宅である。園遊会は山王荘の新築披露と、結婚披露を兼ねており、首相の原敬をはじめ、閣僚や渋沢栄一といった政財界の名士らが多数出席した。

筆者(私)は以前から山王荘と岡田信一郎の関わりを調べてきたのだが、肝心なところが今一つわからず、もどかしく思っていた。(村井吉兵衛邸(山王荘)をめぐって

Blimg_5661たばこと塩の博物館で先日まで開催されていた特別展「明治のたばこ王 村井吉兵衛」に、園遊会の招待客名簿(*)が出ていた。
ふと「岡田は招待されていたのだろうか?」と思いつき、問い合わせたところ、資料の所有者と博物館(学芸員・青木然氏)のご厚意により名簿の複写を閲覧することができた。
Bl892_001招待者名簿にはやはり岡田信一郎の名前が載っていた。山王荘の建設に関わった武田五一(名簿の表記は「名古や高等工業長 武田吾市」)と小林富蔵のほか、ガーディナー、吉武長一、戸田利兵衛(戸田組)、清水釘吉、清水満之助(清水組)、伊東忠太(伊藤と誤記)、横河民輔といった建築関係者の名もあった。

続きを読む "OSN149山王荘の園遊会"

| | | コメント (0)

2020.12.19

岡田信一郎のワグナー論

『現代之建築』に連載された岡田信一郎のワグナー論をテキスト化してみました。雑誌『学生』に掲載された記事に加筆したものです。

オツトー・ワグネル(Otto Wagner)

『現代之建築』と『学生』の文章を比べてみると、内容にそれほど大きな違いはないようです。
『学生』は「立志号」(1914.9)となっており、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世やリンカーンなどの政治家、エジソン、カーネギーら経済人、ミレー、イブセン、ゴーリキといった芸術家などを取り上げています。一体どうした経緯で(それほど有名とも思えない)オットー・ワーグナーの記事が載ることになったのか、少々不思議な感じです。

(以前の関連記事:オットー・ワーグナーワグナー十年祭ウィーンへの旅1岡田信一郎と分離派建築会

| | | コメント (0)

2020.10.26

OSN148岡田信一郎と分離派建築会

Bunriha(100年展を機に)分離派建築会と岡田信一郎の関わりをまとめてみた。
■第1回展と岡田の批評
東京帝国大学建築学科を卒業したばかりの石本喜久治らが、日本橋の白木屋で分離派建築会展を開いたのが1920年(大正9年)の7月18日(日)から22日(木)まで。
岡田信一郎が展覧会を見に行ったのは7月22日であった。芳名録を見ると、同じ日に芥川龍之介や新家孝正、瀧川鼎(たぶん)の名がある(注)。

岡田は展覧会から感銘を受けたようで「分離派建築会の展覧会を観て」という批評文を書いている(建築雑誌1920.9、アーカイブ)。
「諸氏の宣言は勇にして作品は怯である」などと辛辣な部分もあるのだが、全体に若い才能に対する期待が感じられる。

続きを読む "OSN148岡田信一郎と分離派建築会"

| | | コメント (1)

2020.10.22

旧館を知る(東京都美術館)

Blimg_5284 Blimg_5282
東京都美術館で「旧館を知る」の展示を行っています(12月6日まで)。
建物正面の位置にあるのに、初めて入る場所でした。
公式サイト

旧館と言えば、岡田信一郎が設計したもので、正面の列柱が印象的です(1926年)。前川国男設計の現美術館が竣工した後、1976年に取り壊されました。
建築模型(竣工当時と戦後の増築後)や、図面、写真が主なもので、一般の方にはさほど面白味はない感じですが、岡田ファン的に気になったのが取壊しの様子を捉えた写真。
正面の列柱部分は、他の部分よりも後に解体されたようです。写真には、最後に残った列柱部分がクレーンで引き倒される様子が写っていました。今さら言っても仕方が無いですが、部分的にでも、モニュメントとして保存してあれば等と勝手な感想を持った次第です。
Tobi
(画像は公式サイトより引用、撮影時期は戦後)

| | | コメント (0)

2020.10.20

探幽「漢武帝図」など

東京国立博物館本館8室(安土桃山-江戸)の展示に狩野探幽の作品が出ていました。
Blimg_5275一つは「漢武帝・西王母・長伯房図」3幅で、岡田信一郎の旧蔵品。1932年12月、岡田の逝去後に遺族から帝室博物館に寄贈されたものです。
Blimg_5277隣りにあった「山水図屏風」は西脇健治(実業家)旧蔵。数年前に取り壊された岡田の住宅作品・西脇邸の施主です。
2人の旧蔵品が並んでいたのは偶然と思いますが、岡田ファンとしては奇遇に感じる出来事でした。(展示期間11月1日まで)

以前の関連記事(大観「雨後」愛染明王像

| | | コメント (0)

2020.10.18

分離派建築会100年展

分離派建築会が結成されてから100周年ということで、パナソニック汐留美術館で展覧会が行われています(12月25日まで)。
公式サイト
Bunri2
分離派建築会メンバーの石本喜久治、堀口捨己、山田守らは近代建築史上に残る作品を設計していますが、戦前期の現物はほとんど残っていませんし、結構マニアックな企画だなと感じました。

筆者(私)の興味は岡田信一郎関係なので、岡田のサインがある「第一回作品展芳名録」の現物が見られたのは収穫です。あとは、後藤慶二の描いた「辰野金吾作物集図」(辰野の作品で構成した架空の街並みを描き、還暦祝いに贈ったもの)や、岩元禄の西陣電話局にある裸婦像のレリーフ(型取りしたもの)などを興味深く見ました。

展覧会を機に、100年前に岡田信一郎が書いた「分離派建築會の展覧會を觀て」をテキスト化してみました(アーカイブ)。
石本の作品(納骨堂)については比較的評価しているようですが、山田の作に対しては「構造を考えてない」「塔が意味不明」「なぜ山奥に公会堂?」と手厳しい感じです。
(文中で言及される海外作品…サンテリア「新都市」バイロイト祝祭劇場ヒル・オーディトリアム

| | | コメント (0)

2020.10.14

ユートピアの倶楽部

東京芸術大学で「藝大コレクション展2020」が開催されていました。「鮭」「悲母観音」「序の舞」など意外な名品が出展されているので見て損はない展示です。やはり建築部門は少な目で、ファンタネージによる建築装飾の素描など。
公式サイト(10月25日まで)
Kana 金澤庸治の卒業制作「ユートピアの倶楽部」(1924年)のパース図、断面図などが出ていました。
金澤は1900年(明治33年)生まれで、1919年に東京美術学校図案科第二部予備科へ入学。1924年3月に同校建築科を卒業しています。岡田信一郎(当時、東京美術学校建築科主任)の教え子ということになります。

美術学校では、図案科第二部から建築科に体制が変わったのが1923年5月で、金澤は建築科卒業生の第一号です(この年の「建築科卒業生」は金澤ただ1人。吉田五十八も同じ年の卒業ですが、病気で留年していたため、図案科第二部卒業ということになっています)。
「ユートピアの倶楽部」は大正期の表現主義建築の一例としてしばしば紹介されます。
以前は筆者(私)も、その名のとおり「空想的」「若気の至り」の作だろうと考えていたのですが、単なるデザインの面白さだけでは卒業制作の審査を通らなかったはず?、と疑問を持ちました。特に建築科に改組したばかりのことでもあり、岡田信一郎も金澤に期待をかけていたはずです。
Kana2岡田はかつて分離派建築会の展覧会に際して「構造の軽視の傾向が著しく目についた(略)構造の研究が充分でなく、且 構造を芸術味の基礎とする努力をしなかったことを残念に思ふ」(建築雑誌406号、1920.9)と批判していました。
金澤の作についても構造的な裏付けがなければ岡田は評価しなかったはずですが、素人にはちょっと判断が付きません。
専門家の視点で金澤の作品が、構造的、機能的にどう評価できるのか。聞いてみたいものだと思います。
(画像は「日本の表現主義展」図録(2009年)より引用)

| | | コメント (0)

2020.09.18

OSN147岡田信一郎と恒川陽一郎

(萬龍の話の続き)
恒川陽一郎が亡くなり、未亡人となった静(もと萬龍)と岡田信一郎が結婚した。これはよく知られた話であるが、恒川の葬儀の際に岡田が友人総代を務めていたことは、あまり知られていないと思う。筆者(私)もこれを知って驚いたのである。
岡田と恒川はどこで知り合ったのだろうか。

続きを読む "OSN147岡田信一郎と恒川陽一郎"

| | | コメント (0)

2020.09.10

『名流婦人情史』と萬龍

131130_momiji 1929年(昭和4年)に刊行された照山赤次編『名流婦人情史』に萬龍の章がある。これは萬龍に関する著作の中でも珍作と言えるであろう。

人気芸妓の萬龍が箱根で恒川陽一郎と出会い、困難を乗り越えて結婚するが、恒川に先立たれ、岡田信一郎と再婚する、という話を小説仕立てにしている。ある程度はフィクション交じりだろう、と割り引いて読んでみても、他の記録と比べてディテールが食い違う点が多い。以下にあらすじを書いてみる。

  • 喜劇役者の曾我廼家五九郎が、萬龍に振られるエピソードが冒頭に描かれる。
  • 葉桜の時期、恒川は親友の岡田と強羅の宿に来ていた。夜が更け、雨が強くなってくる。11時ころ、風呂へ行った岡田はうっかり女風呂に入ってしまい、大変な美人(萬龍か?)を見かける。翌朝、岡田は用事があって、雨の中を先に帰った。(岡田が恒川と一緒にいたというのは本当だろうか?また、旅館は同じ箱根でも強羅ではなく、塔ノ沢では?)
  • 雨が上がった後で、芸妓3人と客1人が川の近くで遊んでいた。1人の芸妓(萬龍)が川に落ちて流され、横倒しになった樫の木にひっかかった。それを恒川が流れに入って助け出した。(実際は萬龍は洪水から逃げる途中で気分が悪くなったところを助けられたのではないか?)
  • 東京へ戻り、再会した恒川と萬龍は恋に落ち、度々会うようになる。恒川は肺病を患ったことがあり、結婚をためらっていた。親友の岡田は結婚するよう2人を励ました。(岡田が2人の仲を取り持ったというのは他の記録には全く見えない話だが、本当だろうか?)
  • 恒川と萬龍は結婚する。だが、まもなく恒川の病状が悪化し、遂には亡くなってしまう。強羅の一件から2年目の夏だった。(実際は1910年の箱根大洪水から1916年の死去まで約6年である)
  • 恒川が岡田にあてた遺書には「自分の死後、君は萬龍の一切をみてやつてくれまいか。もしできるなら、萬龍と結婚してやつてくれ」とあった。恒川の後を追うことを考えていた萬龍だったが、結局、岡田のプロポーズを受け入れ、再婚した。(恒川の遺書というのも他の記録にない話である。恒川は急死したそうなので、遺書を書く暇はなかったのでは?)

続きを読む "『名流婦人情史』と萬龍"

| | | コメント (1)

2020.09.05

『近代美人伝』と萬龍 補遺

長谷川時雨(1879-1941)と言えば、江戸の面影が残る明治時代の下町を活写した『旧聞日本橋』で知られている。元々は劇作家で、六代目尾上菊五郎のために書いた舞踏劇「江島生島」などは今日でも上演されている。

6nihon01xtgs7dgtl 長年にわたって「美人伝」と題した女性の評伝を書いており、「美人伝の時雨(しぐれ)」と呼ばれたそうだ。その一部をまとめた『近代美人伝』(1936年2月、サイレン社)には、マダム貞奴、樋口一葉、新橋のぽんた、萬龍など、20人の「美人伝」が収められている。
萬龍の章の初出は1919年(婦人画報2月号)で、岡田信一郎と再婚した後である。

※岩波文庫版『近代美人伝』では、残念なことに萬龍の章は省略されてしまっているので注意。

続きを読む "『近代美人伝』と萬龍 補遺"

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧