2018.03.25

OSN124岡田の同期生

岡田信一郎の大学時代については、これまで断片的にしか書いてこなかった(木葉会小池駸一などの記事)。
大学時代の同級生についてまとめておく。

【1903年9月-】第1年
市田菊治郎、萩尾菅次郎、橋本勉、岡田信一郎、横浜勉、竹内六蔵、永瀬狂三(留)、倉田謙、山尾三郎、松井貴太郎、本野精吾(9月入学、いろは順)、井手薫(10月以降入学)
*永瀬は明治35年に建築学科に入学し、2回目の1年。

【1904年9月-】第2年
岡田、本野、橋本、松井、倉田、井手、市田、永瀬、横浜
*山尾・竹内は2回目の1年。萩尾は京都帝国大学電気工学科へ。

【1905年9月-】第3年
岡田、本野、倉田、井手、橋本、市田、横浜、松井、永瀬
*山尾は3回目の1年、竹内は2年。

【1906年卒業】
岡田、本野、倉田、井手、橋本、松井、市田、横浜(7月卒業)、永瀬(10月卒業)
*山尾は退学か。竹内は3年に進む(長谷部鋭吉、後藤慶二らと同じ1909年7月卒業)。
以上は、主に『東京帝国大学一覧』による。
Seizu2
建築学製図室(国立国会図書館デジタルライブラリー『東京帝国大学』より)
※1900年刊行なので、これは岡田が入学する以前の写真。

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2018.03.23

OSN123工業大辞書(完)

Order
『工業大辞書』の目録編纂が始まったのは1905年12月頃という(前の記事)。
1905年と言えば、岡田信一郎は大学3年生であり、どこまで関わったのか不明だが、翌年9月、大学院に進む頃には、先輩の大熊喜邦を手伝い、積極的に関わるようになったのではないか。
1908年1月(推測)に記事を分担し、執筆が始まると、前記のとおり岡田も多くの項目を担当している。
(画像はオーダーの挿図)

第1冊(あ~え)の刊行は1908年8月を予定しており、かなり忙しい日程で作業が進められたはずである。
だが、岡田自身も大学院に籍を置きながら、工手学校、東京美術学校、日本銀行、建築学会役員など多くの仕事を抱えていた(以前の記事「卒業後の状況」を参照)。次第に執筆が困難になっていったのではないか。

途中から前田松韻、松井清足、倉田謙らが参加しており、岡田が執筆する予定だった項目を複数で分担したと想像される。

ちょうど第2冊(え~き)が刊行された頃(1909年9月)、岡田は病気で長期療養を要する状態になり、建築学会の役員を辞任している。また、日英博覧会嘱託として洋行する予定であったが、その機会も逃してしまう。
年明けには小田原へ静養に出かけ、3月頃まで過ごしている。同年5月刊行の第3冊(き~け)にある項目(希臘建築など)は、病気で倒れる前に執筆済みだったものだろうか。

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2018.03.21

OSN122工業大辞書(続)

Karutusi
岡田信一郎が執筆した『工業大辞書』の項目を具体的にみてみよう。

(西洋建築の用語)
*拱(アーチ)、アチック、オーダー、カルツーシ(右の画像)
(西洋建築史)
*愛蘭土(アイルランド)建築、アングロ・クラシック建築、アングロ・サクソン建築、アングロ・パラヂアン建築、英吉利(イギリス)建築、希臘(ギリシャ)建築、クラシック建築、ノルマン建築
(西洋の建築家)
*アポロドロス(古代ローマ)、アルベルチ(15Cイタリア)、アレッシ ガレアツオ(16Cイタリア)、イクチノス(古代ギリシャ)
(日本建築の用語)
*合口、足代、足止丸太、足場、阿迫羽目(あぜりばめ)、アテ、歩、嵐打、石敷、石畳、板抉(いたじゃくり)、甍、入子板、齊柱(いんばしら)、内法、腕木、埋土台、裏板、椽座敷、拝打、蟇股(かへるまた)
(日本建築史)
*城堡(じょうほ)建築

語の定義のみで数行程度の短い項目もあるが、イギリスを中心に西洋建築史関連の項目に力を入れているようである。
『工業大辞書』は国会図書館デジタルライブラリーで公開されているので、比較的長く、図版がある項目へのリンクを示しておく。

*拱(アーチ) (第1冊)1909(M42).3刊
*英吉利建築 (同上)
*オーダー (第2冊)1909.9刊
*希臘建築 (第3冊)1910.5刊
*城堡建築 (第5冊)1911.6刊
*ノルマン建築 (第7冊)1913.8刊

ところで、工業の用語を調べたいという一般読者に対して、ガレアッツォ・アレッシの説明がどれほど重要性を持つのだろうか。建築史好きな私(筆者)も、少々疑問に感じる点である。

それはさておき、ここで気が付くのは、岡田が執筆した記事の分布が、前の方に偏っていることである。
あ行、特に「あ」で始まる用語が多く、か行以降は少なくなる。
項目数でいうと、「あ」17、「い」8、「う」4、「え」1、「お」2、「か」2で、後は「き」「く」「し」「の」が各1で、合計38項目となる。

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2018.03.17

OSN121工業大辞書

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明治時代末に刊行が始まった『工業大辞書』という用語辞典がある。若き日の岡田信一郎が同書の項目を執筆しているので、調べてみた。

『工業大辞書』は同文館が企画した『大日本百科辞書』の一部で、収録語は6千以上、4千ページを超える大著である。本文を8冊に分けて、1909年(明治42年)に刊行が始まり、1913年(大正2年)に完結した。

同書の復刻版(本文4巻、索引1巻)を刊行した日本図書センターの公式サイトによれば、「明治期を代表する学者を動員した大型辞典として定評」があり、「工業はもとより陸海軍・外務・文部・鉄道など幅広い分野の執筆人による充実した内容であり、近代史・社会史研究のための歴史用語辞典」であるという。
建築史家の村松貞次郎は、工業大辞書について「理論的には未だ建設期ではあるが反面、生産の現実によく根ざした成果を総決するものである」と述べている。(『近代日本建築学発達史』P401に引用)

まず、本書の建築関連の執筆者を挙げておくと、刊行開始当初(1909年)では以下のとおり。
伊東忠太、関野貞、塚本靖、中村達太郎(以上、工学博士)
内田祥三、大熊喜邦、岡田信一郎、葛野荘一郎、佐藤功一、佐野利器、中村伝治、前田松韻(以上、工学士)

刊行途中で、北村耕造、倉田謙、内藤多仲、松井清足、山崎静太郎(いずれも工学士)が執筆に加わった。

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2018.01.08

正月の上野

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正月休みは鎌倉、皇居、上野あたりを回っていました。

上野では黒田記念館に行きました。1月2日から14日まで、特別室(「湖畔」「智・感・情」などを展示)を公開しています。
公式サイト

(博物館、寛永寺本堂を見た後、)谷中七福神の一つ、大黒天をまつる護国院に寄ってみると、初詣客で結構にぎわっていました。

芸大の陳列館、小松宮像も横目で見て、岡田信一郎ゆかりの建物めぐりでした。

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2017.10.15

運慶展

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東京国立博物館の「運慶展」を見てきました。土曜の夜で空いていました。
東大寺の重源像(運慶?)や八大童子がよかったです。

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常設展に寄ってみると、2階の3室に岡田信一郎寄贈の「愛染明王像」(13世紀)がありました(11月12日まで展示)。

東博の画像データベースで「愛染明王」と検索しても、残念ながらこの作品は出てきません…。
以前の記事で紹介したとおり、末松謙澄の旧蔵品とのことです。

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2017.08.01

藤島武二展

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練馬区立美術館の藤島武二展を見てきました。今年は生誕150年だそうです。9月18日まで。
公式サイト

岡田信一郎が本郷曙町の藤島邸を設計したようなので、私(筆者)としては何か関係資料でもないか…と思ったのですが、特段なし。

もう一つ興味があったのは「蝶」のことで、今回も出展はされていませんが、図録に説明が書いてありました。
加藤陽介氏(学芸員)によると、藤島の代表作「蝶」と「芳蕙」は1967年(50年前)の藤島武二展に出展されており、当時の所有者は大里一太郎氏。それ以来2点とも所在不明とのことです。
大里氏はほとんど知られていない人物ですが、相当なコレクターだったようで、現在東京国立近代美術館にある中村彝の「エロシェンコ氏の像」は「大里一太郎氏寄贈」となっています。
Chou(画像はWikipediaより借用)


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2017.07.25

OSN120小池駸一(続)

卒業式の終わったある日(1906年7月19日)、小池駸一と岡田信一郎は偶然日本橋で会った。
小池日記には「共に丸善まで行き、ここにて別れ帰る」といった簡単な記述のみであるが、おそらく就職のことが話題に上ったことだろう。小池は同郷の古市公威博士に就職のあっせんを依頼し、返事を待っている状態であった。岡田の方は警視庁(嘱託)に内定していたはずである(翌20日付で辞令)。
7月末になって、小池は韓国の京義線に就職口を紹介され、ここに決めた。10月14日に新橋を立ち、18日に京城(ソウル)に着いた。勤務先は杻峴(仁川の近く)にある鉄道建設部工務課であった。

その後、1913年(大正2年)1月、小池は鉄道院に勤めることになり、東京に戻った。
1927年(昭和2年)には役所勤めを辞め、池上電鉄の技師になった。

岡田は1932年(昭和7年)に亡くなるが、訃報を聞いた小池は護国寺での葬儀に参列している(4月6日)。

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2017.07.24

OSN119小池駸一

岡田信一郎と高校3年のとき同級だった小池駸一(しんいち)というひとがいる。

1882年(明治15年)、東京生まれ。第一高等学校を経て東京帝国大学土木工学科に進み、鉄道技師になった。中学時代の1896年(明治29年)から1966年(昭和41年)まで、70年にも及ぶ日記を遺しており、神奈川県立公文書館に所蔵されている。

もしかすると岡田のことが書いてあるのでは…と思い、高校入学から就職が決まるまでの7年分を中心に日記を読んでみた。
結果として、高校時代の岡田に関しては、特に記述は見あたらなかった(高校を卒業した後に若干記事がある)。
その代わり、建築学科に進んだ倉田謙(九州大学の校舎群が代表作)や井手薫(台湾にいくつか作品が残る)がしばしば日記に登場する。倉田はテニス仲間であり、井手とは学生寮で同じ部屋だったようだ。
岡田と同時代に身近なところで学生生活を送っていた人物ということになる。

以下、小池日記の一端を紹介するが、岡田ファンという偏った視点での記述になることはご容赦願いたい。
(なお、当時は高校・大学とも、9月入学、7月卒業である)

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2017.06.30

OSN118森鴎外

以前に夏目漱石のことにふれたので、森鴎外についても書いておきたい。

森鴎外と岡田の父(岡田謙吉)は、同じ陸軍衛生部で石黒忠悳が上官、という共通点があり、お互いに顔見知りであったのではないかと想像している。ただし、鴎外も岡田謙吉については特に書き残していないようで、具体的なことはわからない。
Isiguro
岡田信一郎が森鴎外に最も接近した可能性があるのは、松本順・石黒忠悳像の制作のときである(この銅像については、鳩山和夫像の項で少しふれた)。

石黒忠悳像の制作を任されたのは、1909年(明治42年)にベルギー留学から帰国したばかりの武石弘三郎である。紅葉館(芝公園)で行われた武石の帰国歓迎会に、同郷の石黒忠悳が出席しており、石黒から銅像建設の計画があることを聞かされたという。
銅像は、軍医総監の森林太郎を中心に、陸軍衛生部が発起したものである。

鴎外は石黒像の出来具合を気にかけ、武石のアトリエを度々訪れている.(『武石弘三郎ノート』)。
この銅像の台座部分(写っていない)は岡田が設計しているので、鴎外と打合せの機会があったかもしれない。ただし、今のところ記録が見当たらず、岡田が除幕式に出席したかどうかも不明である。

このほか、1913年に発足した国民美術協会では、鴎外(当時、文展審査員であった)と岡田がともに学芸部に所属しているが、これも詳しいことはわからない。

接点がありそうだが確証はない、という話ばかりでモヤモヤするが、いずれ史料が見つかることもあるだろう。

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