2017.08.01

藤島武二展

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練馬区立美術館の藤島武二展を見てきました。今年は生誕150年だそうです。9月18日まで。
公式サイト

岡田信一郎が本郷曙町の藤島邸を設計したようなので、私(筆者)としては何か関係資料でもないか…と思ったのですが、特段なし。

もう一つ興味があったのは「蝶」のことで、今回も出展はされていませんが、図録に説明が書いてありました。
加藤陽介氏(学芸員)によると、藤島の代表作「蝶」と「芳蕙」は1967年(50年前)の藤島武二展に出展されており、当時の所有者は大里一太郎氏。それ以来2点とも所在不明とのことです。
大里氏はほとんど知られていない人物ですが、相当なコレクターだったようで、現在東京国立近代美術館にある中村彝の「エロシェンコ氏の像」は「大里一太郎氏寄贈」となっています。
Chou(画像はWikipediaより借用)


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2017.07.25

OSN120小池駸一(続)

卒業式の終わったある日(1906年7月19日)、小池駸一と岡田信一郎は偶然日本橋で会った。
小池日記には「共に丸善まで行き、ここにて別れ帰る」といった簡単な記述のみであるが、おそらく就職のことが話題に上ったことだろう。小池は同郷の古市公威博士に就職のあっせんを依頼し、返事を待っている状態であった。岡田の方は警視庁(嘱託)に内定していたはずである(翌20日付で辞令)。
7月末になって、小池は韓国の京義線に就職口を紹介され、ここに決めた。10月14日に新橋を立ち、18日に京城(ソウル)に着いた。勤務先は杻峴(仁川の近く)にある鉄道建設部工務課であった。

小池は1913年(大正2年)1月、鉄道院に勤めることになり、東京に戻った。
1927年(昭和2年)には役所勤めを辞め、池上電鉄の技師になった。

岡田は1932年(昭和7年)に亡くなるが、訃報を聞いた小池は護国寺での葬儀に参列している(4月6日)。

大学卒業後、岡田と小池が何かで顔を合わせる機会はあっただろうか。それとも丸善での別れが最後だったのだろうか。
これまで読んだところから察すると、共通の友人はいるものの、特別親しかった訳ではなさそうだ。20年分の日記を読み通すのは、中々躊躇されるところである。   

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2017.07.24

OSN119小池駸一

岡田信一郎と高校3年のとき同級だった小池駸一(しんいち)というひとがいる。

1882年(明治15年)、東京生まれ。第一高等学校を経て東京帝国大学土木学科に進み、鉄道技師になった。中学時代の1896年(明治29年)から1966年(昭和41年)まで、70年にも及ぶ日記を遺しており、神奈川県立公文書館に所蔵されている。

もしかすると岡田のことが書いてあるのでは…と思い、高校入学から就職が決まるまでの7年分を中心に日記を読んでみた。
結果として、高校時代の岡田に関しては、特に記述は見あたらなかった(高校を卒業した後に若干記事がある)。
その代わり、建築学科に進んだ倉田謙(九州大学の校舎群が代表作)や井手薫(台湾にいくつか作品が残る)がしばしば日記に登場する。倉田はテニス仲間であり、井手とは学生寮で同じ部屋だったようだ。
岡田と同時代に身近なところで学生生活を送っていた人物ということになる。

以下、小池日記の一端を紹介するが、岡田ファンという偏った視点での記述になることはご容赦願いたい。
(なお、当時は高校・大学とも、9月入学、7月卒業である)

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2017.06.30

OSN118森鴎外

以前に夏目漱石のことにふれたので、森鴎外についても書いておきたい。

森鴎外と岡田の父(岡田謙吉)は、同じ陸軍衛生部で石黒忠悳が上官、という共通点があり、お互いに顔見知りであったのではないかと想像している。ただし、鴎外も岡田謙吉については特に書き残していないようで、具体的なことはわからない。
Isiguro
岡田信一郎が森鴎外に最も接近した可能性があるのは、松本順・石黒忠悳像の制作のときである(この銅像については、鳩山和夫像の項で少しふれた)。

石黒忠悳像の制作を任されたのは、1909年(明治42年)にベルギー留学から帰国したばかりの武石弘三郎である。紅葉館(芝公園)で行われた武石の帰国歓迎会に、同郷の石黒忠悳が出席しており、石黒から銅像建設の計画があることを聞かされたという。
銅像は、軍医総監の森林太郎を中心に、陸軍衛生部が発起したものである。

鴎外は石黒像の出来具合を気にかけ、武石のアトリエを度々訪れている.(『武石弘三郎ノート』)。
この銅像の台座部分(写っていない)は岡田が設計しているので、鴎外と打合せの機会があったかもしれない。ただし、今のところ記録が見当たらず、岡田が除幕式に出席したかどうかも不明である。

このほか、1913年に発足した国民美術協会では、鴎外(当時、文展審査員であった)と岡田がともに学芸部に所属しているが、これも詳しいことはわからない。

接点がありそうだが確証はない、という話ばかりでモヤモヤするが、いずれ史料が見つかることもあるだろう。

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2017.03.28

CMに鳩山邸

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鳩山邸(岡田信一郎設計)がゲームのCMに登場していました。

Hatoyama001
出演は岡田結実さんですが、岡田信一郎とは関係ないと思われます(多分)。

公式サイト(クラッシュロワイヤル)

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2017.03.23

鍋島閑叟公銅像の再建

佐賀城公園で先日、鍋島直正(閑叟)公の銅像が再建されました。

鍋島直正(1814-1871年)は幕末に佐賀藩の改革を進めた藩主です。生誕100年を前に銅像が建設され、大正2年(1913年)11月に除幕式が行われました。
銅像は武石弘三郎、台座は岡田信一郎によるもので、合わせて8mほどの大きなモニュメントでした。戦争中の昭和19年(1944年)、金属供出により残念ながら銅像は撤去されました。主を失った台座は、その後牛津町(現・小城市牛津公民館前)に移設され、忠霊碑の台座に転用されています。

今回、生誕200年を機に銅像の再建が決まりました。
公式サイト(鍋島直正公銅像再建委員会)
銅像の原型は佐賀大学教授の徳安和博氏が制作(武石が制作した小さな像が遺っており、参考にされたはず)。
台座は反射炉のイメージで造られているそうです(ということは岡田とは無関係)。

岡田ファンとしては、牛津に遺る台座にも注目していただきたいと思います。

以前の記事:2011年11月

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2017.02.28

岡田三郎助アトリエ

渋谷区恵比寿に残る洋画家・岡田三郎助のアトリエの記事が佐賀新聞に載っていました。
佐賀県に移築されることが決まったそうです。保存されるのは朗報ですが、現地に残らないのは寂しいですね。
「岡田三郎助アトリエ保存へ 県立博物館横に移築」(佐賀新聞2017年01月10日)

アトリエをテーマにした映画も公開されます。
あるアトリエの100年

明治時代(1908年)の建築で、確か博覧会(東京勧業博覧会?)施設の払下げを受けて建てたものだったはず。
伊達跡の美術家村について調べていた頃、「まだ残っているのでは」という話を聞きましたが、敷地の外からはよく見えないままでした。

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2017.02.24

台徳院霊廟(増上寺)

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増上寺本堂地下にある宝物館展示室に行ってきました。
1910年(明治43年)、ロンドンで開催された日英博覧会のために制作された台徳院霊廟の模型が展示されています。台徳院は二代将軍秀忠のことです。
模型と言っても10分の1の縮尺でかなり大きなもの。軒下の細かい組物が精巧に作られています。

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台徳院霊廟は旧国宝に指定されていましたが、戦災でほとんどが焼失しています(写真は増上寺三門から100mほど南にある台徳院霊廟惣門の遺構)。
建築模型はかつての霊廟の姿を伝える貴重なものといえます。

岡田信一郎ファン的には日英博覧会というのが非常に気にかかります(岡田と洋行の記事を参照)。
この建築模型は東京美術学校の古宇田実、高村光雲が監督し、当時の職人たちが制作したものです。岡田のすぐ近くで作られていたわけで、その出来上がりを横目で眺めていたのではないか、と想像されます。

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2016.09.29

正木記念館

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東京芸術大学構内に正木記念館があります。
明治後期から昭和初めの30年以上(1901-1932年)にわたって美術学校の校長を務めた正木直彦のため、1935年に建てられました。
設計者の金澤庸治は岡田信一郎の教え子で、美術学校助教授を務めていました。岡田設計の陳列館と並んで建っており、岡田ファンとしては気になる建物です。

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閉まっていることが多く、たまに(年に数日程度?)展示会で使用されています。偶々通りがかりましたが、中を見るのは初めてです(9月11日までの日本画第一研究室発表展)。
記念館2階から隣の陳列館を見たところ。
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記念館の2階は和風の書院造になっています。
今後も大学の文化遺産として活用してほしいものです。

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2016.07.30

OSN117夏目漱石(続)

高校時代の岡田信一郎は夏目金之助の英語の講義を聞いたのか、という疑問を以前の記事で書いたが、その後、史料が見つかり、岡田のクラスを担当していたことが確認できた。

1902年(明治35年)9月から翌年7月の時間割が残っており(駒場博物館蔵)、それによると夏目講師が担当したのは、1年の6クラスと、3年の2クラスであった。3年では2部3年1組(工科理科)と2組(工科農科)で、当時の名簿を見ると大学の建築学科に進んだ人物として、1組に岡田、笠原敏郎、井手薫、橋本勉、2組に倉田謙、本野精吾の名がある。
もっとも、(以前も書いたが)夏目が講師の辞令を受けたのは4月で、授業を始めたのは5月(?)、6月には試験で7月1日が卒業式である。講義は週2回(1組は水・金、2組は月・木)だったが、岡田たちが聞いたのは10回程度であろうか。
(笠原敏郎は卒業が遅れたので、内田祥三と同じクラスで1年間、夏目先生の講義を聞いたはず。)

この頃の夏目先生の様子は次のように記されている(江藤淳『漱石とその時代』第二部)。

一高生たちにも、高いダブル・カラーをつけて尖の細いキッドの靴をはき、小柄な身体をそらせて「爪先ですっすっと廊下を気取って歩いていた」金之助は、洋行帰りの正札をぶら下げたようなハイカラ教師に見えた。

夏目先生が来る前は誰が英語を教えていたか、という点も気になっていたが、前任は山川信次郎だったようだ。山川は夏目の友人である。狩野亨吉と夏目、山川が同じ熊本の第五高等学校に勤めていた時期もある(山川と同行した小天温泉の旅は、後に『草枕』の元になった)。
狩野は1898年11月、一高校長に就任。山川は1889年9月から一高教授になり、夏目は1900年、ロンドンへ2年間の留学に出る。夏目が帰国する少し前の1902年10月、山川は女性をめぐるスキャンダル攻撃にあって、高校を辞任している(『漱石周辺人物事典』)。しばらく狩野校長が英語の代講をしていたらしい。

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