2020.01.14

OSN134モックアップの謎

Meiseicolum 左の写真は明治生命館の建設工事中に撮られたもの。鉄骨が組み上がり、壁は未だできていない状態で、円柱が1本立っている。現地に設置された原寸大のモックアップ(模型)である。

写真は工事を施工した竹中工務店が所蔵していたようで、1932年(昭和7年)5月の撮影だという。他に明治生命館の建設工事の様子を撮影した記録映像(16mmフィルム)があるが、同年5月5日に行われた定礎式のシーンより前に、このモックアップが映っている。
この写真と記録映像以外に文献史料が見当たらず、モックアップについては謎が多い。
■柱頭の渦巻
明治生命館のファサードを飾るコリント式円柱の柱頭を見ると、中央上部にある渦巻(volute)が交差している。ちょっと珍しいデザインかもしれない。(文末の補足を参照)
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Meijishosai 工事の始まる直前に描かれた詳細図(左)では渦巻が交差していないので、工事の途中でデザインが変更されたことになる(詳細図は縮尺1/20で「昭和5年8月31日」の日付がある。工事は9月12日起工)。


柱頭部分については3パターンの原寸図が残っており、渦巻を交差させるかどうか、検討していた様子がうかがえる(『図面で見る都市建築の昭和』掲載)。
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2020.01.06

OSN133三井本館と明治生命館3

三井本館と明治生命館の平面図を比べると大きな違いがある。
Mituiplan10 三井本館では内部に大きな吹き抜け空間が3か所あって、その周りに柱が立ち並んでいるが、外側に並ぶ列柱と内部の柱のグリッドがきれいに揃っている。(左図は2階部分の平面図:三越側が下)
外部の列柱と内部空間を区切る柱が整然と配置されている。


Meiseiplan1明治生命館にも吹き抜け空間が2か所あるが、外部の列柱と吹き抜け付近の柱位置は合っていない箇所が多い。柱の配置がズレていることによって、柱が密になる部分が出来ている。(左図は2階部分:皇居側が下)
外側の列柱を構成する部分と、内部空間に応じて柱を配置する部分とで折合いを付けているような具合である。
建築史家の鈴木博之氏は明治生命館の構成について次のように述べている。

全体の構成は1階営業室部分と事務室部分を大スペースとして確保し、その周囲に諸室を配置してゆくもので、大スペースからなる中心部分と、周囲の部分では柱の並び方が異なる。こうした構造計画は現代のビルでは行われないものであるが、内部スペースの配置を第一に考え、それにあわせて構造的な柱を配置するという手法と思われる。(『図録明治生命館』)

私(筆者)は外側の列柱を優先してこうした配置になったのかと思っていたが、鈴木氏は内部空間を優先した配置と見ている。いずれにしても、柱が密になる部分が出来たことで、構造を強化する効果も生んでいるようである。(注:ここでは三井本館の耐震性能との優劣を比較している訳ではない)

まだ比較すべきところは残っているが、ここでいったん一区切りとする。

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2020.01.05

OSN132三井本館と明治生命館2

Ordermeiji まず、三井本館と明治生命館のファサードに並ぶ「円柱の長さ」を比較してみる。どちらもコリント式の円柱である。(図は明治生命館の「丸柱石割図」)

三井本館は高さ60cmほどの基壇の上に大きな円柱が並んでいる。円柱の長さを図面で見ると54フィート1インチ=約16.48mである。
明治生命館の方は1階部分を基壇として、2階から6階の高さ分の円柱が並んでいる。円柱の長さは53尺5寸5分=約16.22mである。ということは両者の円柱の長さはほぼ同じである(これは偶然なのかどうか?)。


建築オーダーは柱を中心にした比例関係の体系である。ルネサンス期に古代の建築理論書が再発見され、数多くの理論書が書かれた。また、フランス・アカデミーではそれらの理論書を巡って延々と議論を重ねていたのであった。

オーダー【order】
建築の構築的体系およびその秩序。後には特に、古典建築様式における円柱の形式とそれに付随する構成の比例体系を指すようになる。古代ギリシア思想においては、あらゆる自然の有機体と同様に、建築も自然の法則に従い、あるいはそれを模倣すべきものであった(アリストテレスのいう〈ミメーシス〉)。したがって建築の各部は、人体がそうであるように、それぞれが独自の形態と役割を保ちつつ、調和(シュンメトリア)のとれた全体を構成しなければならず,そのためには各部相互の関係、特に寸法的比例(プロポーション、エウリュトミア)が重要であると考えられた。(世界大百科事典 第2版)

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2020.01.04

OSN131三井本館と明治生命館

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三井本館と明治生命館は、共に昭和初期に建てられた古典様式のオフィスビルである。コリント式の円柱を並べたデザインは元をたどれば古代ギリシアの神殿建築に由来するが、建設当時(20世紀初め)アメリカで流行していたスタイルでもある。

19世紀後半から20世紀前半にかけて、アメリカの建築界はフランスのエコール・デ・ボザール(アカデミーの芸術学校)から多大な影響を受けていた。ボザールで建築を学んだアメリカ人建築家が建築界をリードし、またボザールから招いた教授たちがアメリカの大学で建築教育を行っていた。フランス流の古典様式に基づいて建てられたアメリカ建築は、アメリカン・ボザールと呼ばれている。

日本の建築界も高層建築をはじめアメリカから多くのものを学んだ。アメリカン・ボザールのデザインを採り入れたオフィスビルも数多く建てられたが、中でも三井本館と明治生命館は双璧と言えるであろう。
三井本館はアメリカの設計事務所(トロブリッジ&リビングストン社)による作品で1929年(昭和4年)の竣工、明治生命館は岡田信一郎の設計によるもので1934年(昭和9年)の竣工と、5年の差がある。

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2019.12.24

OSN130竹内勝太郎への便り

日本の象徴詩を確立したと言われる詩人、竹内勝太郎(1894-1935)という人がいる。一般には知られていないと思うが、富士正晴(詩人)、野間宏(作家)、竹之内静雄(筑摩書房社長)らを育てた人である。

Fujip1040683 茨木市の富士正晴記念館では、富士が残した膨大な資料を所蔵している。その中に恩師竹内勝太郎の日記や書簡などが含まれており、岡田信一郎から竹内にあてた書簡が1通見つかった。

(画像は記念館に再現された富士正晴の書斎)

書簡は1929年(昭和4年)11月4日に書かれたもので、岡田47歳、竹内36歳のときである。両者の関わりは大礼記念京都美術館の建設委員会である。この年から岡田は武田五一、伊東忠太らとともに京都美術館の建設委員を務め、設計案を決める段階で同美術館に関与することになった。竹内勝太郎は委員会の嘱託という立場であった。

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2019.12.22

岡田デザインの照明

Shoumei 今年の1月頃、「建築家 岡田信一郎デザイン シャンデリア照明」というふれ込みで、アンティークの照明器具がネット販売に出ているのに気づきました。

どこから出たものか記載はなく、なぜ岡田デザインとわかったのか。(もしかすると西脇邸あたり?)


しばらく在庫に残っていましたが、先日確認したところSold outでした。

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2018.10.16

OSN129大道弘雄への便り

岡田信一郎が大阪朝日新聞の名物記者と言われた大道(おおみち)弘雄に宛てた書簡を紹介したい。
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大道弘雄(1888-1961)は大阪天満天神の社家(世襲の神職)の生まれで、國學院大学の出身。同窓の折口信夫(民俗学者)とは友人だった。
(天満宮の画像はWikipediaより拝借)
里見弴の小説「新聞記者にして殿上人」(小説新潮1964.12)に出てくる「O君」は大道がモデルである。「O君」は賽銭その他の上がりで十分暮らせる身分で、新聞記者としての仕事は一切せず、ただ東京などから京都へやってくる芸術家、実業家らの接待役をするのが仕事だった、ということになっている(ただし、大道は後に朝日の出版編集部長に昇進しており、接待ばかりやっていたとも思えないのだが…)。
大道は美術関係などの著作を残しており、古代裂の収集家でもあった。

日本近代文学館では、大道の遺族から寄贈された書簡類を「大道弘雄コレクション」として所蔵している。小山内薫、谷崎潤一郎、木下杢太郎といった作家や石井柏亭ら美術家の書簡のほか、岡田信一郎の絵はがき等も含まれている。
岡田のものは1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)までに出された9通で、ふざけた内容も多く、気のおけない間柄だったことがうかがわれた。

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2018.10.01

OSN128連作小説『旋風』

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岡田信一郎が小説(の一部)を書いていたことがわかった。1926年(大正15年)、週刊誌『アサヒグラフ』に連載された連作小説「旋風」で、小説を本業としない執筆者たちが持ち回りで書いたものである。
朝日新聞社の杉村楚人冠が第1回を執筆し、柳田国男(民俗学者)、鶴見祐輔(後に政治家)、和田英作(洋画家)らが書き継いで、連載終盤の24回を佐藤功一(建築家、岡田の同僚)、25回を岡田が書いた。最後の26回は黒板勝美(歴史学者)の予定となっていたが期限に間に合わず、杉村楚人冠が執筆し、完結させた。
どのような小説なのか、いちおう説明しておこう。新聞記者の松村幸一郎と、幼なじみのお政が主な登場人物である。
戦争(第一次世界大戦)の取材でポーランドのガリツィアを訪れていた松村は、ロシア各地を回る曲馬団の花形スターお政がドイツ軍のために殺された、という報道に驚かされる。その後、実はお政が生きていることを知り会いに行くが、誘拐されてしまう。松村は身代金を払ってお政を救う…といった調子で、ヨーロッパ、アメリカ、日本などを舞台に、刑事やロシアのスパイが登場する荒唐無稽な筋書きである。
柳田国男によると、全体の筋書きは決まっておらず、各自が思い思いに書き継いだようだ(全集27巻)。各人3日で執筆、という厳しい条件だった(単行本の跋文)。

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2018.09.18

OSN127國井家観音堂

岡田信一郎の設計作品の中に「國井家観音堂」がある。『建築雑誌』(1932年5月)のデータによると次のとおり。
*國井家観音堂 山形県高松 國井門三郎氏邸内 [竣工大正]9年

国会図書館の資料(岡田兄弟設計図集)にある「観世音堂」の図面を見ると、屋根に鴟尾を乗せた桁行3間、梁間2間の小規模な仏堂建築である。資料には石川確治(山形出身の彫刻家)の手紙も入っており、石川が観音像を制作している。

國井家は山形県でも有数の大地主で、当主は代々門三郎を襲名していた。ここでいう門三郎は明治4年生まれの方で、國井酒造を経営し、県会議員、高松村長等を歴任。昭和6年、次男に名を譲り、國井経崇と改名している(次男は後の寒河江市長)。
建設した経緯は不明だが、観音堂はその後(1935年)國井邸から父母報恩寺(山形県村山市)に移築され、「雪の観音」と呼ばれている。
Yukikan1behrens__oldenburg_2 Yukikan2behrens__oldenburg_2
画像はgooglemapより借用。左は県道側から:山門の左手に観音堂がある。右は国道13号側から:観音堂の背面が見える。

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2018.09.16

OSN126梅田ビル

Umedap1220052 (画像は『太陽』1986年2月特集「甦るアール・デコ」より)

岡田信一郎が設計した梅田ビルは、1928年(昭和3年)12月竣工、RC造4階建の小規模なオフィスビル。
東京駅近くの八重洲二丁目にあり、オーギュスト・ペレのフランクリン街のアパート(画像)を思わせる出窓や、アールデコ風の細部装飾が特徴的であった。
ブログ「ぼくの近代建築コレクション」によると、1985年4月時点で1階のレストラン「シャンティー」が営業していたそうだが、上記『太陽』の記事には「現在は都会の廃墟と化した」とあり、この後まもなく建て替えられたのであろう。

梅田商会主の梅田潔(1873-1953年)は日露戦争後、ロシアとの貿易で財産を築いた人物である。
今や忘れられた作家、梅田晴夫は梅田潔の子に当たる(Wikipediaに父親の経歴も簡単に記載されている)。

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