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2020.10.26

OSN148岡田信一郎と分離派建築会

Bunriha(100年展を機に)分離派建築会と岡田信一郎の関わりをまとめてみた。
■第1回展と岡田の批評
東京帝国大学建築学科を卒業したばかりの石本喜久治らが、日本橋の白木屋で分離派建築会展を開いたのが1920年(大正9年)の7月18日(日)から22日(木)まで。
岡田信一郎が展覧会を見に行ったのは7月22日であった。芳名録を見ると、同じ日に芥川龍之介や新家孝正、瀧川鼎(たぶん)の名がある(注)。

岡田は展覧会から感銘を受けたようで「分離派建築会の展覧会を観て」という批評文を書いている(建築雑誌1920.9、アーカイブ)。
「諸氏の宣言は勇にして作品は怯である」などと辛辣な部分もあるのだが、全体に若い才能に対する期待が感じられる。

分離派建築会のメンバーは装飾画や絵画、彫刻に熟達していると評判だったようで、岡田も「特に彫刻は新海竹太郎君の指導を受けて進歩見る可きものがあると言ふ事であつたので其影響が建築図案に現はれる事」を期待していたが、「彫刻のやうに多種多様の豊富の面を取扱つて立体的の面白味を移入したものは少なかつた」ので不満に感じた。会場にいた石本喜久治にその感想を伝えると、「還元的の意向から最も簡単なものから出発する為に此の態度を取つた」という返答だったという(意味不明?)。

岡田の批評を読んで当人達はどう受け止めたのだろうか。
瀧澤真弓は後年の回想で「その[岡田の]批評によればわれわれの企ては要するに「稚気愛すべきもの」であった」と淡々と記している(建築と社会1961.12)。
一方、第2回展覧会から分離派建築会に参加した蔵田周忠(早稲田出身で岡田の教え子)によれば、「岡田信一郎は、当時-大正初期としては、海外の事情、殊に建築の新時代の動きに通じていて、新しい方向性に明確な一家言をもち、若い学生達に対しては有力な指導的立場をとっていた優れた先輩の分離派評は大いに傾聴されたものである。」(『近代建築史』1965年)と、当時の感激そのままに記しているのが面白い。

なお、岡田の批評を受けてのことかどうか、「それ以後の分離派建築会展では山田や蔵田をはじめ総じて手の跡を感じさせる彫刻的な建築モデルが出品されるようになった」と菊地潤氏は指摘している(「100年展図録」p104)。

■国民美術協会講演会
1922年5月、国民美術協会主催の美術講演会があり、山田守が「博覧会に現はれたる建築の傾向に就いて」と題する講演を行った(美術月報1922.7)。ちょうど上野で平和記念東京博覧会が開催されている時期で、分離派の堀口捨巳、瀧澤真弓が展示館の意匠を担当していたのに因んだテーマであろう。
山田を講師に推薦したのは国民美術協会学芸部の岡田であった。山田は「私共の敬愛する先輩岡田信一郎氏が(略)私共後輩の努力して居ます新しい建築の運動への同情の意味に於て、私如き者に特にお勧め下さつたからであります」と前置きして、建築界の動向を論じている。
近年は外国の新しい建築(セセッションや表現派)を模倣する傾向があるが、これらは日本の気候、風土、国民性に合わず、西欧の歴史建築を模倣する旧来の頑迷派と同じく邪道である。
今回の博覧会建築は不十分ながらも、模倣から創作への「新建築の気運を漲らした」と山田は述べている。

■ワグナー十年祭、アルス建築大講座
岡田が石本喜久治にオットー・ワグナー没後10周年を記念する催しを提案したのをきっかけとして、「ワグナー十年祭」(1928年4月)が行われたことは以前の記事に書いた。
今回の「100年展」で知ったが、その時期はちょうど石本が分離派建築会を離れる前後だったようである。石本は1927年1月の第6回展まで出展しているが、瀧澤真弓との意見の相違があり、第7回展(1928年9月)には参加していない。この第7回展をもって分離派建築会は自然消滅といった状態になった。

これも別の記事で書いたが、岡田と石本には『アルス建築大講座』の「近代建築史」の分担を巡る関わりもあったはずである(1928年頃)。岡田が執筆予定の「近代建築史」の部分が間に合わず、石本らの「最近建築様式論」でカバーした(ように思われる)一件である。
こうしてみるとやはり石本と岡田に関わるエピソードが多い印象である。
この他にも文献があるかもしれないので、ご存知の方はご教示を願いたい。

(注)「100年展図録」p51に芳名録の画像がある。
芳名録に名のある芥川龍之介は、瀧澤真弓にとって一高の先輩で、建築学科を選ぶ際にも、芥川の勧めがあったという。
瀧澤は「宣伝効果を期待して、私は当時新進作家として名をあげつつあった芥川竜之介氏を訪ね、ぜひわれわれの展覧会を見て所見を何かに書いてもらいたいと、懇請した。」と回想している(建築と社会、前出)。
また、瀧川鼎は岡田の後輩であり、同年3月に美術学校を卒業した岡田の弟(捷五郎)が瀧川コンクリート工務所に就職している。岡田と瀧川が一緒に来ていたとしても不自然ではないと思う。

(補足)分離派の名の由来
瀧澤真弓の回想-「われわれは建築史を伊東忠太先生から学んだ。講義の終りに近いころ(略)セセッションから現代建築が始まったということを話された。(略)若いわれわれはそこから大きな感銘を得た。現代建築は創作であらねばならぬと。」(同前)
日本建築学会図書館には、伊東忠太の西洋建築史講義のノート(コピー)が所蔵されている。年代は記していないが、藤島亥治郎が筆記したものである(藤島は1920年4月入学、1923年3月卒業。「建築史」の講義は1学年のときか?いずれにしても分離派世代の数年後)。確かにそれを見ると、ウイーン分離派の話で講義の最後を締めくくっている。
もっとも、「100年展図録」に加藤耕一氏が寄せた論考では、「伊東忠太に聞いた」説には否定的なようであるが。

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コメント

第1回展覧会のポスターには、会期が7月18日から22日までと書いてあります(図録のp84)。

ところで図録p51には「福田重義、奥村精一郎、新海竹太郎」のサインがある芳名録のページが載っています。
パナソニック汐留美術館に問い合わせたところ、これは「7月23日」のところに書いてあるそうです。

となると、会期を23日まで延長したのか。
そうでないとすれば、受付の際に誰かが日付を間違えて書いてしまったのか。

図録には3ページ分のコピーだけが掲載されていて、全体がわからないので、判断ができません。

投稿: 岡田ファン | 2021.02.09 23:26

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