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2020.09.18

OSN147岡田信一郎と恒川陽一郎

(萬龍の話の続き)
恒川陽一郎が亡くなり、未亡人となった静(もと萬龍)と岡田信一郎が結婚した。これはよく知られた話であるが、恒川の葬儀の際に岡田が友人総代を務めていたことは、あまり知られていないと思う。筆者(私)もこれを知って驚いたのである。
岡田と恒川はどこで知り合ったのだろうか。

岡田、恒川はともに第一高等学校から東京帝国大学に進んでいるので、共通の知人がいた可能性もあるが、世代がちょっと違うし(恒川が5年下)、高校・大学で共通の友人らしき人物も思い当たらない(後述の小山内薫?)。
恒川は1905年(明治38年)に府立一中を卒業し(谷崎潤一郎と同年)、9月に金沢の四高へ入学。翌年一高に入り直している(この年に岡田は大学を卒業)。1909年に高校を卒業し、大学の法科大学政治学科に入学。この間、萬龍との出会い、結婚があり、5年かかって1914年(大正3年)7月に大学を卒業する。

前の記事で紹介した『名流婦人情史』は、1910年の時点で(美術学校講師の)岡田と(大学生の)恒川が親友だという設定であるが、不自然な印象を受ける。2人の交友はもう少し後ではないだろうか。

岡田と恒川の接点として考えられるのは、(1)恒川の弟、呉作、(2)岡田の弟、復三郎、(3)銀座のカフェ・プランタン周辺の人たち、である。

(1)恒川呉作は1916年(大正5年)に早稲田大学建築学科を卒業している(同年の卒業生は28人。修学期間は3年で、1913年入学か)。岡田は建築学科教授だったから、呉作は教え子に当たる。この頃は学生数も少なく、教員との関係も近かったと思う。

(2)岡田復三郎は国民新聞の記者であり、萬龍を取材していた可能性が考えられる。恒川の逝去後であるが、『萬龍未来記』(1916年)という本があり、復三郎は「孤煙生」名義で「美しき人に美しき生涯を」という一文を寄せている。これを読むと、復三郎は恒川家の内情をよく知っていたことがうかがえる。

(3)岡田信一郎は美術学校同僚の古宇田実とともに、カフェー・プランタン(1911年開業)の改装を担当したとされている。
弟の復三郎はプランタンの会員であった。恒川もプランタンによく出入りしており、恒川が書いた小説『旧道」にもM(萬龍)との逢引きの場所としてプランタンが登場する。
プランタン経営者の松山省三と平岡権八郎は『旧道』のために、挿画や装丁を担当している。また、同人誌『新思潮』で恒川との関わりがある小山内薫はプランタンの名付け親でもあり、『旧道』に跋文を寄せている。
岡田信一郎も恒川も、プランタンの周辺にいたのは確かである。

(1)-(3)いずれかのつながりで、岡田信一郎と恒川が親しくなったのではないだろうか。

恒川は大学卒業後、耕文社という出版社を興す。実際に出版された本としては、巌谷小波の随筆集『目と耳と口』(1916年)ぐらいしか見当たらないが、岡田信一郎の著書『建築美講話』を出版する計画があった(注)。この企画で購入希望の予約を募ったのであるが、実際に刊行された形跡はない。詳しい経緯は不明だが、予約者が少なく、資金不足に陥ったのかもしれない。

この後まもなく、恒川は急死(1916年8月)するのだが、出版計画の頓挫は、未亡人の静(萬龍)と岡田信一郎にとって懸案事項として残ったのではないかと思う。
先にふれた岡田復三郎(孤煙生)の文中に「陽一郎氏は為すべき多くの仕事を残して死んで行つた(略)彼女[萬龍]が陽一郎氏に代つて完成させようとする事業ーー夫れは出版事業である」とあり、『建築美講話』の件もその一つではなかったかと、筆者(私)は想像している。

(注)新聞広告(1916.2.18朝日)を見ると、岡田信一郎の文章に世界各地の建築物の写真を添えたものだったようで、「欧米日支印度希臘等参考写真二百五十頁」とある。岡田信一郎は『早稲田文学』(1911.7)に「建築美術講話」という22ページほどの小論を書いており、内容は新聞広告にある章立てに近い。推測すると、この小論をベースに加筆して、写真を加えたものではないだろうか。

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