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2020.09.10

『名流婦人情史』と萬龍

131130_momiji 1929年(昭和4年)に刊行された照山赤次編『名流婦人情史』に萬龍の章がある。これは萬龍に関する著作の中でも珍作と言えるであろう。

人気芸妓の萬龍が箱根で恒川陽一郎と出会い、困難を乗り越えて結婚するが、恒川に先立たれ、岡田信一郎と再婚する、という話を小説仕立てにしている。ある程度はフィクション交じりだろう、と割り引いて読んでみても、他の記録と比べてディテールが食い違う点が多い。以下にあらすじを書いてみる。

  • 喜劇役者の曾我廼家五九郎が、萬龍に振られるエピソードが冒頭に描かれる。
  • 葉桜の時期、恒川は親友の岡田と強羅の宿に来ていた。夜が更け、雨が強くなってくる。11時ころ、風呂へ行った岡田はうっかり女風呂に入ってしまい、大変な美人(萬龍か?)を見かける。翌朝、岡田は用事があって、雨の中を先に帰った。(岡田が恒川と一緒にいたというのは本当だろうか?また、旅館は同じ箱根でも強羅ではなく、塔ノ沢では?)
  • 雨が上がった後で、芸妓3人と客1人が川の近くで遊んでいた。1人の芸妓(萬龍)が川に落ちて流され、横倒しになった樫の木にひっかかった。それを恒川が流れに入って助け出した。(実際は萬龍は洪水から逃げる途中で気分が悪くなったところを助けられたのではないか?)
  • 東京へ戻り、再会した恒川と萬龍は恋に落ち、度々会うようになる。恒川は肺病を患ったことがあり、結婚をためらっていた。親友の岡田は結婚するよう2人を励ました。(岡田が2人の仲を取り持ったというのは他の記録には全く見えない話だが、本当だろうか?)
  • 恒川と萬龍は結婚する。だが、まもなく恒川の病状が悪化し、遂には亡くなってしまう。強羅の一件から2年目の夏だった。(実際は1910年の箱根大洪水から1916年の死去まで約6年である)
  • 恒川が岡田にあてた遺書には「自分の死後、君は萬龍の一切をみてやつてくれまいか。もしできるなら、萬龍と結婚してやつてくれ」とあった。恒川の後を追うことを考えていた萬龍だったが、結局、岡田のプロポーズを受け入れ、再婚した。(恒川の遺書というのも他の記録にない話である。恒川は急死したそうなので、遺書を書く暇はなかったのでは?)

このように、疑問点が数限りなく出てくる。もし「萬龍と恒川の仲を取り持ったのは岡田」、「恒川は萬龍を岡田に託して亡くなった」というのが事実だとすれば、岡田研究史上のスクープ(?)かもしれないが、これまで『名流婦人情史』を引用して岡田や萬龍を論じたものは見当たらない(注1)。やはり突飛な話なので、フィクションだと思われているのであろう。
(登場人物の名前も「恒川陽一」「岡田真一郎」と微妙に間違っている。もしかすると抗議があった時にフィクションだと言い逃れするためだろうか?)

『名流夫人情史』に採り上げられた女性は17人で、川上貞奴、林きむ子、原阿佐緒、神近市子、白蓮夫人、武林文子、尾竹紅吉、松旭斎天勝、丹いね子、お鯉、山田順子、萬龍らである。このうち10名分はかつて「東京毎夕新聞」に掲載されたものだという(ということは、残り7名分は書下ろしか?)。この時期の「東京毎夕新聞」は国立国会図書館や新聞ライブラリーなどにもないようで、初出は確認できなかった。

編者の「照山赤次」というのは、当時毎夕新聞の駆け出し記者だった花見達二(1903-1970年)のペンネームである。
花見の『昭和記者日記』(1968年)によれば、毎夕新聞の編集局長だった御手洗辰雄(1895-1975年)が、波乱に富んだ各界の女性たちの思い出や告白を記事にする企画を立て、花見と吉川亘(注2)が分担して書いたという。花見は、松旭斎天勝、林きむ子、原阿佐緒、丹いね子らの記事を書き、吉川がお鯉(桂太郎の愛妾)、川上貞奴らを担当したというが、萬龍の記事をどちらが書いたかは不明である。
花見と御手洗は、萬龍の結婚話が世間をにぎわせていた頃はまだ10代であり、詳しい事情を知っていたはずもないが、戦後、政治評論家として一定の評価を得ている人物であり、そうそうデタラメなことは書かないような気もする。
だが、若気の至りで書いた一文なのかもしれないし、悩ましいところだが、まあフィクションと考えるべきだと思う。

(注1)中嶋光一「恒川陽一郎氏の小説「旧道」について」(『大衆文学論叢』5号、1977年)が『名流夫人情史』の一場面(川に落ちた萬龍が恒川に助けられるというシーン)に言及しているのが唯一の例か。
(注2)吉川亘は戦後、京都新聞の幹部、京都放送東京支社長を務めている。大沢洋三『赤壁の家』(1978年)に、立教大学で同級だった吉川のエピソードが書いてあった。

(画像はWikipediaより拝借)

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コメント

当時の新聞報道を見ると、萬龍が滞在していたのは塔ノ沢の福住旅館のようです。福住は洪水のため流失し、犠牲者も出ています。

また、恒川は環翠楼にいたようです。
(洪水の数日前、8月7日に環翠楼にいた恒川が友人にあてた書簡が残っています。「甲南国文」42号で細江光氏が紹介)

投稿: 岡田ファン | 2020.09.14 23:08

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