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2020.09.05

『近代美人伝』と萬龍 補遺

長谷川時雨(1879-1941)と言えば、江戸の面影が残る明治時代の下町を活写した『旧聞日本橋』で知られている。元々は劇作家で、六代目尾上菊五郎のために書いた舞踏劇「江島生島」などは今日でも上演されている。

6nihon01xtgs7dgtl 長年にわたって「美人伝」と題した女性の評伝を書いており、「美人伝の時雨(しぐれ)」と呼ばれたそうだ。その一部をまとめた『近代美人伝』(1936年2月、サイレン社)には、マダム貞奴、樋口一葉、新橋のぽんた、萬龍など、20人の「美人伝」が収められている。
萬龍の章の初出は1919年(婦人画報2月号)で、岡田信一郎と再婚した後である。

※岩波文庫版『近代美人伝』では、残念なことに萬龍の章は省略されてしまっているので注意。

時雨は萬龍と親しくしていた訳でも、特に取材をした訳でもない。2回ほど見かけただけであるらしい。
初めは無名だった半玉時代(明治40年頃?)のこと。「美しい女のすきな」時雨は、劇場で素人風のいでたちをしていた少女を見て、「類ひない絶品の芍薬の莟(つぼみ) 」と感じ、「何家の令嬢だらう」と思っていると、連れの女が「萬龍さん」と呼びかけたので、その名を知ったという。
次に見たのも劇場で、一本の芸妓となり、絵葉書美人として評判を呼んでいた最盛期だが、「第一流の妓としては野暮くさい素人じみたところがあつた」と感想を記している。いかにも芸妓らしいというよりは、素人風で初々しいところが時雨の気にいった美点だったようである。

ところでサイレン社版には、取り上げた女性たちの「年譜」が掲載されている。以下は萬龍の部分の抜粋である。(便宜的に番号を付ける)

明治二十七年 萬龍(本名静子)茨城県の田向家に生る。
三十三年 萬龍七歳、赤坂春本の養女となる。
四十年 萬龍十四歳、はじめて春本より萬龍と名乗つて披露目する。
四十三年 関東未曾有の大出水あり、萬龍偶(たまたま)、箱根塔ノ澤にありて発病 恒川氏に救はる。
大正二年 萬龍、恒川氏と結婚す。
五年 萬龍、夫恒川氏と死別す。
七年 九月萬龍二十六歳、笹川臨風氏の媒酌にて岡田工学士と結婚す。
昭和七年 四月萬龍、夫岡田工学士に死別す。爾来岡田家にあり、遺子なし。



実は以前の記事(萬龍の年表)をまとめる際に、年代の諸説がある場合はこの「年譜」を基準にした。他の人物の分は知らないが、萬龍についてはおおむね妥当なように思う。
長谷川時雨自身が調べたとは思えないのだが、誰がまとめたものだろうか。

サイレン社について調べてみると、出版事業は1930-1931年の2年間に限られる。奥付の発行者は「盬谷晴如」とある。塩谷晴如で検索すると、ブログ「出版・読書メモランダム」(古本夜話)の記述からサイレン社の素性が判明した。

改造社の円本『現代日本文学全集』(1926年刊行開始)の編集主任だった塩谷に、時雨の夫・三上於菟吉が声を掛けて創業した出版社という。三上は当時の流行作家で、昭和初期の円本ブームで一儲けをした。このとき三上がダイヤの指輪を買ってやろうと言ったのを、時雨は断り、雑誌「女人芸術」創刊(1928年)の費用に充てたというエピソードがある。サイレン社では三上と時雨の本を何冊か出している。
三上はやがて経営から手を引き、塩谷は高利貸しから金を借りるようになり、結局は破綻した。この間、高利貸しとの折衝や会社の後始末を行ったのが森部経一(後に岡本経一)という人であった。『近代美人伝』の編集を担当したのも森部だったというから「年譜」の作成に関わっていたのかもしれない。

森部は1909年3月の生まれである。
1923年に岡山から上京した森部は、1925年に『半七捕物帳』で知られる作家・岡本綺堂の書生となる。夜学に通って勉強し、サイレン社に入った。『美人伝』刊行時は数えで23歳ということになる。倒産の後始末に苦労し、別の出版社に移った。「昭和12(1937)年、子どものなかった綺堂夫妻は、真面目で実直な性格の経一を見込んで養嗣子とした」(勝央美術文学館の作家紹介より)。
岡本経一は戦後、出版社青蛙房を立ち上げ、岡本綺堂や三田村鳶魚など江戸文化に関する本を多く出している。そう言えば私(筆者)が萬龍の話を初めて読んだのは、青蛙房が出した『女芸者の時代』(岸井良衛、1974年)であった。

『近代美人伝』に話を戻す。時雨はサイレン社版の刊行にあたって、美人たちの後日談など加筆を加えている。萬龍の章では(岡田が逝去した後)「萬龍は姑に孝養をつくしつつ、静かな未亡人生活をおくつている」と、記している。

この頃、元萬龍の岡田静は、設計事務所のあった神楽町の家を弟(岡田捷五郎)に譲り、姑とともに大和郷(六義園の近く)に移っていた。
時雨はその暮らしぶりをどうやって知ったのだろうか。あるいは歌舞伎座関係者か、美術学校関係者あたりに聞いたのか(岡田三郎助が『近代美人伝』の装丁をしている)。
もしかすると、森部が岡田家に確認に行ったのでは…などと私(筆者)は想像しているのだが。

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