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2020年8月の7件の記事

2020.08.31

ハーフティンバー駅舎の前史

前回、ハーフティンバー駅舎の鎌倉駅が原宿駅のデザインに影響を与えたことを書きました。小野田滋氏は鎌倉駅からさらに遡って、明治中期の官庁集中計画のドイツ系デザインとの関連で論じています。

Tetsudoin2 鎌倉駅を設計した上野肇は、これより先に鉄道院仮庁舎(1910年)を設計したと言われています。これもハーフティンバーのデザインで、中央にある2つの塔が特徴的です。
上野が大学を卒業するのは1909年(明治42年)7月なので、大学を出てすぐに担当した作品ということになります。

Teisin12238_161723111212134615210_900 小野田氏はこの仮庁舎のデザインのもとになったのが逓信省仮庁舎(1907年)だとしています。これは木挽町の逓信省が火災にあった後、急遽建設したものですが、当時建設中だった東京駅・神田駅間の鉄道高架橋を利用しています。煉瓦アーチ部分を1階として、上にハーフティンバーの木造庁舎を載せたような体裁です。

設計したのは逓信技師の吉井茂則(京都の中京郵便局が代表作)。逓信省が鉄道事業を所管した時期もあった関係で、鉄道技師を兼任していました(二代目の大阪駅などを設計)。
鉄道施設の上に他の役所を建てるというのも特異な手法ですが、吉井が役所間の調整をまとめたのかもしれません(?)

吉井はドイツの建築家エンデ、ベックマンによる官庁集中計画の時代に臨時建築局に入り、議院建築(国会議事堂)の設計に関わっていました。結局、官庁集中計画は頓挫したため、議院建築は木造の仮建築とされました。

The_second_japnese_diet_hall_18911925初代の仮議事堂(1890年)は建設後間もなく火災で焼失したため、二代目の仮議事堂が約半年の突貫工事で建設されました(1891年)。吉井はこの工事に際して、ドイツ人技師オスカール・チーツェと共同設計でハーフティンバーのデザインを採用しています。仮とは言いながら、関東大震災を乗り越え、1925年火災にあうまで使われていました。

小野田滋氏は、「吉井が二代目国会仮議事堂でドイツ人建築家のチーツェからハーフティンバーの技法を学び、逓信省仮庁舎を経由して、鉄道院上野肇の鉄道院仮庁舎、鎌倉駅へと受け継がれ、鎌倉駅の現場を担当した長谷川馨によってさらに原宿駅へ継承されたことが推察される」としています。(前掲「大正浪漫の駅 原宿駅」)

※画像は小野田滋『高架鉄道と東京駅(上)』、文化遺産オンラインWikipediaより引用。

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2020.08.26

ハーフティンバーの駅舎

原宿駅はハーフティンバーと呼ばれる様式で、関東大震災の翌年、1924年(大正13年)に竣工しました。設計者は鉄道省技師の長谷川馨とされています。
小野田滋氏(鉄道総合技術研究所情報管理部長)が鎌倉駅や官庁集中計画と関連して原宿駅を論じているのが面白いと思ったので、紹介します。

Kama197945004325_624_v1537992114 かつての鎌倉駅(1916年)は中央の時計塔が印象的な駅舎でした。
Kama_shinsai竣工当初はハーフティンバーの木造駅舎でしたが、いつの頃からか(震災後の改修?)、モルタル仕上げの壁に改めたようです。古い写真を見ると木組の様子が確認できます。。
上の画像は1979年撮影:Blog「阿房列車ピクトリアル」から引用。下は関東大震災後の駅舎)

鎌倉駅は、東京帝国大学出身(1909年卒)の技師・上野肇による設計と言われます。
原宿駅を設計した長谷川馨は名古屋高等工業学校の3期生(1910年卒)で、上野より年少になりますが、鎌倉駅建設の際に、現場監督を務めていたそうです。

上野肇は1921年12月に若くして亡くなります。国会議事堂の設計コンペ(1918年)に応募するため、無理を重ねて体を壊したようです。

原宿駅にハーフティンバーのデザインが採用された背景には、大正期の田園都市構想やロマン主義などの要因もありそうですが、直接には鎌倉駅からの影響と考えられます。

(補足)
現在の鎌倉駅は1984年の竣工。建替えに際して反対運動が起こったため、妥協案として(1)中央の時計塔を西口広場に移設する、(2)旧駅舎のデザインを新駅舎に採り入れる、ということで収めたようです。

(参考文献)小野田滋「大正浪漫の駅舎 原宿駅」(鉄道ファン、2011.1-2)、馬場知己「駅のうつりかわり」(汎交通、1984.1)

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2020.08.23

旧原宿駅舎の取壊し

Haraimg_3610 旧原宿駅舎の取壊しが明日(8/24)から始まるそうで、記念撮影をしている方を多く見かけました。文化遺産と言っていい建物をなぜ残せないのか、と考えるとまったく情けない話です。
Haraimg_3622JR東日本側にも保存の声が多く寄せられたようで、8月7日に出されたニュースリリースでは「地域の皆さまに親しまれてきました旧駅舎は、防火地域に適した材料を用いて、外観を可能な限り再現し建替えを行ってまいります」とされています。
Hara789旧原宿駅舎の特徴は木部を現したハーフチンバーの造りで、確かにそのままでは耐火的に問題があるのでしょう。また、再現案を作っている建築関係者も限られた条件内で様々苦労されていることとは思いますが…。
(敷地の余裕もないことから、ただ表面だけそれらしくするのではないかと危惧されます)
どうにも釈然としないところです。

参考:JR東日本のニュースリリース(8/7)

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2020.08.20

旧尾崎行雄邸

Ozakiimg_2925 豪徳寺2丁目に残る旧尾崎行雄邸を見てきました。
尾崎の東京市長時代にあたる1907年頃、麻布に建てた邸宅で、1933年に豪徳寺へ移築したものだということです。
木造下見板貼の西洋館で、貴重な明治建築です。
Ozakiimg_2934現在は工務店などが所有しており、7月に取壊し予定となっていました。保存運動によりいったん工事は延期されていますが、現所有者は買取りを要求しているようで、厳しい状況です。
Ozakiimg_2926詳しい記事は旧尾崎行雄邸保存プロジェクトFBにあります。

(画像は7月に撮影)

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2020.08.17

岩佐多聞邸が取壊し

Iwasaimg_3590渋谷区代々木上原2丁目の岩佐多聞邸が近々取り壊されるというので見てきました。
9月から解体予定と標識が出ています。

周囲には住宅が建ち並んでいますが、かつてこの一帯には紀州徳川家の邸宅がありました。徳川家迎賓館と言われる建物です。
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今では木が生い茂っており、建物の全貌がよく見えません。左の画像は『東京の近代洋風建築』(1991年)掲載の写真で30年前の様子ということになります。同書によれば、設計者不明で大正初期の建設とされています。
右の画像はGoogleマップより拝借。中央の洋館と左下のマンションを取り壊し、新たにマンションを建てる計画と思われます。
Iwasaimg_3554大正建築と言われてみれば、窓の下あたりなどに見られる装飾はセセッション風のようでもあります。

この建物については、朝日向猛氏のHPに「紀州徳川家の迎賓館?」「代々木御殿:久米民之助邸⇒紀州徳川家邸⇒岩佐多聞邸」があって詳しく考察されています。
当地には明治末か大正初め頃から久米民之助(工部大学校出身の実業家)の邸宅があり、代々木御殿と呼ばれていたそうです。久米は関東大震災後、邸宅を徳川家に譲っており、その後も所有者が変わっていますが、岩佐邸は久米民之助邸洋館ではないか、ということです。

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2020.08.15

ラーメン閑話

Ramen_boyラーメンと聞けば、しょう油味、とんこつ味等の麺料理を思い浮かべる方が多いと思う。
だが、建築界隈でラーメンと言えば、構造力学で学ぶラーメン構造のこと。構造力学はアーチ、トラス、ラーメンなどの構造物に働く様々な力(荷重、地震、風など)を数学的に解明するものである。

Rahmenところで、アーチやトラスは英語だが、ラーメン(Rahmen)はドイツ語である(額縁、枠組、骨組などの意味)。英語ではrigid frameだが、なぜドイツ語が使われているのか自分なりに調べてみた。

続きを読む "ラーメン閑話"

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2020.08.05

角川武蔵野ミュージアム

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所沢市の角川武蔵野ミュージアムがプレオープンというので見てきました。(公式サイト

サクラタウンの一角にあり、商業施設やホテルはこれから開業するようです。
ミュージアムでは隈研吾展を開催しています。外観は異形ですが、内部は意外に普通で、窓のない箱です。
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建物外観の仕上げは中国産の花崗岩で、複雑な表面は三角形で分割しているそうです。
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もう一つの見どころらしいのがこの神社。どういう御利益があるのかは聞き逃しました。
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