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2020.05.01

OSN145照葉と萬龍

萬龍さん(岡田信一郎夫人)関連の資料を探していて、「照葉」という芸妓のことが気になった。
照葉は1896年(明治29年)生まれ。明治の終わり頃、萬龍と同様、絵葉書美人として評判を取った新橋芸妓である。
Sincho61musnk7ylもとは大阪におり、千代葉の名で芸妓に出ていた。(数え)16歳のとき、男への義理立てから自分の小指を切り落とす、という事件を起こし、大阪に居づらくなり、東京へ出てきた。
事件の顛末が新聞の連載記事(「恋の照葉」東京日日1911.9.11-10.4)に取り上げられ、世間の同情を集めることになった。記事を書いたのは、かつて「萬龍物語」を書いた名物記者、小野賢一郎である。

照葉は人気芸妓となり、桂太郎や西園寺公望らからも贔屓にされた。
後に、相場師の小田某と結婚し、夫婦でアメリカに出かけ、帰国後は映画女優になった。一見派手だが、内実は不幸な結婚生活で、自殺未遂や家出を繰り返し、結局は離婚した。
自伝『照葉懺悔』を執筆して作家を目指したり、大阪でバー「テルハの酒場」を開いたりするが行き詰まり、過去の過ちを悔いるようになった。1934年(昭和9年)、仏門に入り、高岡智照と名乗る。

嵯峨野・祇王寺の庵主になり、戦後はラジオ、テレビにも出演。瀬戸内晴美(寂聴)の小説『女徳』(1963年)のモデルになるなど、有名人であった。

高岡智照の自伝『花喰鳥』(1984年)に、萬龍の話が出てくる。
照葉として東京へ出てきた頃、既に萬龍の名は有名であった。萬龍の方が18歳で、2年上である。
1911年(明治44年)7月2日、照葉がお披露目で座敷を回った日の日記を引用している。

今日初めてお座敷で一緒になった芸妓衆や半玉の中で一番優しい人だと思ったのは、赤坂春本の萬龍さんだった。いつも絵葉書で見ては憧れていたが、今夜初めて瓢家で長島 [隆二] さんのお座敷で会って、想像していたよりずっと若くて優しい方だったので、初めて会ったにもかかわらず大変親しみを感じた。(略)東京の新橋といえば日本一の花柳界だ。芸妓衆も半玉さん達もびっくりするような人ばかりかと思っていたけれども、目の覚めるような人は萬龍さん一人位のもんだった。

(これとほぼ同文が『照葉懺悔』(1928年)にもある。)
お披露目の当日は新橋、築地、木挽町等の待合・料亭を30軒ほど回ったとも書いており、2人でゆっくり話をする時間はなかっただろうが、照葉が萬龍に好印象を持ったことがうかがえる。

文中に登場する長島隆二は桂太郎の娘婿で、当時は大蔵省に勤めていた。1911年7月と言えば、第2次桂内閣の時期である。およそ1年半の後、大正政変で第3次桂内閣が倒れると、長島は官僚を辞め、政治家の道に進んだ。
長島は『政界秘話』(1928年)で、萬龍と照葉の思い出話を書いている。
照葉が芸妓として一本になるときの費用は長島が出したという。また、萬龍の相談相手にもなっていたようだ。

『花喰鳥』には小村欣一の話が出てくる。条約改正を成し遂げた外務大臣・小村寿太郎の長男で、東大の政治学科を首席で卒業、外務省に入っていた。当時、萬龍と小村欽一のゴシップが記事になっており、自分も気になっていた人物である(ちなみに小村と岡田信一郎はともに明治16年生まれ)。
しかし、照葉が待合のおかみに聞いた話によれば、萬龍の方が小村に惚れていたのだが、きっぱり断られてしまったという。
照葉も小村を好きになったが、「家内が一人ありますから」と、やはり振られてしまった。
こうしたことも萬龍と照葉の妙な縁である。

芸妓から女優に転身し、仏門に入ってからも自伝を書くなど、自己を通した照葉に比べると、萬龍の後半生は淡々としたものであった。
対照的な2人だが、戦後に一度会ったことがあるという。吉屋信子が、岡田未亡人からの聞き書きを記している。(「私の見た美人たち」文芸春秋1964.3)

「[戦後] 少し世の中が落ち着きましてからお茶事の用を兼ねて京都へ参りました。(略)新橋の照葉さんが嵯峨の祇王寺の庵主さんになられたと伺ってましたので参りました。(略)万竜と言いたくない名を口にしましたら、まあびっくりなすって……あのお寺の桜が咲いていました」
(略)その時、智照尼は岡田未亡人の亡夫の冥福を祈りたいと言うので、未亡人静は(略)良人の戒名を書いて渡した。それを仏前に備えて智照尼は読経したという。

祇王寺での再会は、昭和20年代頃だろうか。吉屋も「まるで新派の一幕もの」と書いているが、芝居がかったような場面である。
(岡田静が高島屋の川勝堅一に宛てた1948年(昭和23年)4月24日付の書簡には、5月に大徳寺孤篷庵の遠州忌に出席する旨が書かれており、この時に祇王寺を訪れたのかもしれない。智照尼の日記は残っていないのか?)

(付記)
新橋芸妓時代の照葉は、赤坂芸妓の菊龍と仲が良かったという。萬龍の妹分(「春本」の養女)にあたり、萬龍が箱根で大洪水にあった際も一緒にいた芸妓である。
菊龍(お良)は、後に作家、里見弴の愛人になったことでも知られている。

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