« OSN139阿部章蔵(水上瀧太郎) | トップページ | OSN141アメリカの保険会社 »

2020.03.20

OSN140稲田勤と明治生命館

Scan001  Scan001_20200316210501
明治生命館に関わりの深い人物として、稲田勤氏(戦後に明治生命社長)のことを書いておきたい。もっとも、稲田氏が岡田信一郎と直接関わる場面はなかったかもしれないのだが。
(画像は稲田氏が描いた「空」と「横綱」。以下、敬称略)

稲田勤(1898-1976年)は東京生まれで、慶応義塾の理財科を出ており、阿部章蔵(水上瀧太郎)の後輩に当たる。スポーツ好きで、相撲の選手だった。
1922年の卒業後は明治生命に入社した。アメリカ留学を命じられ、1928年から1930年までフィラデルフィアに滞在。ペンシルベニア大学のヒーブナー博士(Dr. Solomon Stephen Huebner、1882-1964年)が主宰する夜間大学で生命保険学を学び、大学院にも通い、保険会社に行ってアメリカ式経営を視察した。

ちょうどその頃、岡田信一郎が明治生命館の設計を行うことになり、弟の岡田捷五郎をアメリカ視察に向かわせた。
後年の稲田の発言から引用する。(稲田『随筆 出張日記 その他』1961年)

私がちょうどアメリカに留学していたとき、岡田信一郎氏の弟の捷五郎氏がわざわざアメリカにやって来て、有名な保険会社の内部設備や室内装飾を見たいというので、これはと思う会社はみんな案内して回りました。そのため帰国を三ヵ月ばかり延ばして、シカゴ、ニューヨークからカナダにかけて視察しました。(略)岡田氏の設計に当っての考え方は、勤務上便利なこと、広告価値のあること、職員のモラール(士気)を高揚するものであること、などにあったようです。

岡田捷五郎が天洋丸で横浜を出発したのは1929年(昭和4年)6月下旬である(アメリカ到着は7月、帰国は9月か)。同年6月24日付で岡田信一郎が作成した平面図が残っており、これを見ると現状の平面と大きな違いはない。既に基本的な配置ががほぼ固まった時点での視察である。稲田が言うように、インテリアや設備の調査が視察の目的だろう。(なお、この視察旅行については資料が残っていないと考えていたが、手がかりになりそうな文献を最近見つけた。別の記事で記す)
また、設計者が建物の広告価値や職員の士気も考えていたというのは面白いと思う。

しかし稲田自身は岡田信一郎の設計に不満を持っていた。先の引用に続いて次のように発言している。

本館の設計について、私は、天窓は上から光線を採るから事務を執るものが疲れるし、空襲に対して無防備である、また相当広い自動車置場を設けなければだめだと、アメリカから進言しましたが、すでに設計が決定してしまっているのでやむをえないという返事でした。

当時の日本で空襲に備えるという意識はなかったのであろう。岡田がこの批判を聞いていたら苦い顔をしたかもしれない(?)。
(これより後の第一生命館の場合、工事途中の1937年に参謀本部の指示があり、屋上スラブのコンクリート厚を40cmに、鉄筋量を7割増にして、トップライトを取る中庭の上部に弾よけの厚い金網を張ることにしたという。伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』)

帰国した稲田は業務の合間に社史(五十年史)の編纂に取り組んだ。4時に仕事が終わると、夜9時まで編纂の仕事を続けたという。それまでに『明治生命四拾周年記念』(1922年)という小冊子が出ていた。阿部章蔵が書いたもので、創業者である父(泰蔵)の手記を参照している。稲田は阿部に、手記の原本を見せてほしいと頼んだが、見ることはできなかったと後に語っている。
『明治生命五十年史』は約800ページの大著で、明治生命館が竣工する直前の1933年12月、稲田(当時は本社助役)の編纂によって刊行された。(文末に注記)

かつて明治生命館の設計内容を批判していた稲田だが、竣工した建物には愛着を持ったことと思う。
明治生命館の正面玄関上には、ブロンズ製の文字で会社名が記されていた。これは、阿部章蔵に「ひとつ書いて見ろ」と言われた稲田の筆を元に制作されたものだった。ちなみに終戦後、株式会社が相互会社に変わったときにも稲田が書いた。
(現在は社名が変わっているので、稲田の書とは違っているはず)

明治生命館は戦争中の金属供出により、エレベータ、ボイラー、冷凍機、ブロンズ製電灯器具、内外の装飾金物類(扉、手すり、窓の装飾など)が取り外された。
幸いアメリカ軍の空襲は免れたが、戦争が終わった1945年9月、占領軍に接収されることになり、72時間以内に明け渡すよう命令が下った。稲田はGHQの担当者との交渉にあたり、丸の内の仲四号館などへの移転を進めた(15か所に分散)。
本社をGHQに引渡すときは「江戸城明渡しの役をつとめる勝海舟の心境」であった。接収後もビルの管理に当たる必要があり、稲田と営繕担当の櫻木良馬、荒木敬二、また電気、機械、警備、清掃の担当者30名余りが明治生命館に残留した。(翌年1月、明治生命館の地下2階の一部が接収解除)
1946年、稲田は常務取締役になる。従来の契約分を扱う会社と新規契約分を扱う会社を分離し、新会社を相互会社としたのは1947年であった。

1956年に接収が解除されると、戦時中・接収中に傷んでいた明治生命館の復旧工事が行われた。この工事は「復旧にあたり、創建時の図面を参照するなどして、当初の仕様の再現を試みている(略)現在の明治生命館が昔日の面影を失わずにいるのは、この時の裁量によるものといってもよいであろう」(『図録明治生命館』 )と評価されている。
1階のアーチ窓を飾る面格子(窓グリル)については、オリジナルが1つだけ残っており、これを元にして竣工当時のデザインを忠実に復元することができたという話を聞いたことがある。おそらく稲田や営繕担当者の努力によって保管されたものだろう、と筆者(私)は想像している。

稲田は1958年5月、副社長に就任。1961年5月から1964年5月まで社長を務めている。
多忙な業務の合間に趣味を広げており、絵画(抽象画)は銀座の画廊で個展を開くほどであった。「こんど、七階にオバケ屋敷をつくりますよ」という稲田の言葉が『日本の社長』(坂本藤良、1963年)に紹介されている。講堂のある明治生命館7階に抽象画をいくつも飾ってやろう(展示会?)という意味だと思うが、実現はしたのだろうか。

(注)『五十年史』の次に刊行された『明治生命株式会社六十年史』(1942年)は、以前の記事でも何度か引用したが、明治生命館建設の経緯についてはこれが最も詳しい。編纂は窪田重次(当時、厚生課長)である。阿部章蔵は既に逝去しており、稲田(外務部長)や櫻木(営繕課長)らの話も聞いたうえで書いたものであろう。

|

« OSN139阿部章蔵(水上瀧太郎) | トップページ | OSN141アメリカの保険会社 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« OSN139阿部章蔵(水上瀧太郎) | トップページ | OSN141アメリカの保険会社 »