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2020.03.11

OSN139阿部章蔵(水上瀧太郎)

Abe2img_2675 小説『銀座復興』などで知られる水上瀧太郎(1887-1940年)という人がいる。明治生命保険での勤務が本業で、明治生命館の建設に際しては、岡田信一郎とともに様々な問題の調整に当たっていた。
(画像は高井戸にある記念碑)

本名は阿部章蔵、1887年(明治20年)東京生まれ。福沢諭吉門下の俊才といわれ、1881年に明治生命を創業した阿部泰蔵(初代頭取、取締役会長)の四男である。
阿部は小学生時代から泉鏡花の作品に心酔していた。慶應義塾の理財科に進んだが、文学部の永井荷風や小山内薫の講義を聴いて文学に親しみ、『すばる』や『三田文学』に創作を発表した。水上瀧太郎というペンネームは、鏡花の小説の登場人物にちなむもの。
卒業論文は「劇場経営法」。経済と文学に関わるテーマを選んだのだろうか。

慶應義塾を出た後、父の希望もあってアメリカに留学し(1912年)、ハーバード大学で経済学、社会学を学んだ。折から第一次世界大戦が起こるが、ロンドン、パリと移って読書に明け暮れた。1916年10月に帰国した後は、父の意向に従って明治生命に入社し、作家と勤め人の二重生活となる。この間、やはり文学と仕事をめぐる葛藤があったようだ。

少々煩雑になるが、明治生命での職歴を記しておく。(『水上瀧太郎全集』補遺の「年譜」より)
1916年(大正5年)12月、明治生命保険に入社、契約課勤務(30歳)
1917年11月、大阪支店副長
1919年10月、本社に復帰、臨時取締役助役、同11月、総務主事助役、同12月取締役会書記
1926年6月、総務主事心得
1927年(昭和2年)2月、総務主事(41歳)
1933年12月、取締役(総務主事を兼務)(47歳)
1935年2月、常務取締役
1940年2月、専務取締役(54歳)

明治生命の『六十年史』を見ると助役は課長職、総務主事は部長職に相当するようだ。父親の七光りという要素もあると思うが、順調な昇進は本人の実力が認められてのことだろう。(ちなみに父の泰蔵は入社後の1917年に会長職を退き、1924年10月に逝去している)

ちょうど総務主事のときに、明治生命館の指名コンペ(1928年)があり、設計図も完成し、建設工事が始まった(1930年)。
工事上の要件について、明治生命保険と岡田信一郎、建築顧問の曽禰達蔵が打合せを行った記録が残っている(明治生命館2階資料・展示室の画像データベース)。それを見ると、1930年9月に始まったおよそ月1回の会合には、会社側の代表として阿部章蔵主事と営繕担当の櫻木良馬助役が毎回出席している。

岡田と阿部は新築工事の仕事が初顔合わせだったろうか。岡田三郎助(洋画家、東京美術学校教授)という共通の友人もおり、お互いの噂などは聞いていたと思うが。

以前の記事(三菱二号館の取壊し)では、会社側に二号館の取壊しを推進した人物がいたであろうと書いたが、どうも阿部章蔵がその人ではないかという気がしている。
新社屋の建設となれば取締役会の決定事項のはずだが、総務主事なら取締役会の議論の内容もよく承知していたはずである。
阿部の立場では取締役会の決定を覆すことはできないので、岡田信一郎に協力を依頼し、二号館の取壊しを進言してもらったのではないか、というのが筆者(私)の想像である。  

後に阿部が記した文章を引用する。(1938年に曽禰達蔵が亡くなった際の追悼文、全集11巻「曽禰先生追憶」)

明治二十八年、馬場先門角に建つた明治生命の石造スレエト葺の社屋は、コンドル曽禰両先生の合作と聞く。明治年間の洋風建築中最も美しいものゝひとつであつた。私はその社内で働く事を幸ひとした。(略)明治生命はその美しい建築を爆破して、幾層倍の新館を建てなければならない程発展してしまつた。誰にも未練はあつたが、事態は止むを得ないのであつた。(略)明治生命は堅実を旨とする会社である。一時しのぎや間に合せを許さない気風が強い。建築の事にしても、本店はいふ迄もなく、各地支店いづれも其の土地の一流の場所に一流のものを建てた。

とりあえず旧館の隣に新館を建てておこうという話が、阿部には「一時しのぎや間に合せ」と思えるようになったのだと思う。

1932年に明治生命館が竣工した際、阿部は「岡田信一郎氏は(略)明治生命館の建設を一生の記念塔として、将来にのこさんとこゝろざし、文字通り全生命を打込んでしまつた」と書いて、その死を悼んでいる。(全集12巻「明治生命館人事」)

その阿部は取締役昇進後、全国の支店回りで多忙な身となった。激務のため創作活動はほとんどできなくなり、やがて健康を損なってしまう。
1940年(昭和15年)3月23日、明治生命館7階講堂で「銃後娘の会」発足式が行われた。挨拶に立った阿部は途中で脳溢血の発作を起こし、そのまま同日夜に亡くなった。

阿部の記念碑が高井戸のダイヤモンドテニスクラブ(元は明治生命の運動場)入口左手に残っている。1941年に社員一同が建立したもので、高さ3mほどの花崗岩に阿部の筆跡で「志は高かるベし」と刻まれている。記念碑は岡田の弟、捷五郎のデザインによる。

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