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2020年3月の6件の記事

2020.03.31

OSN143明治生命館余話

1月以来、明治生命館に関わることを書き連ねてきた。この建物は重要文化財に指定され、既に多くの建築史家の方々が論じているが、自分なりに気になるところを書いてみた。
(重要な部分が相当抜けているので、『図録明治生命館』や野村和宣氏の『生まれ変わる歴史的建造物』などを参照してください)

ちょうど書いている最中に「静嘉堂文庫の美術館ギャラリーが、2022年に明治生命館1階へ移転」というニュースも入ってきた。その後の公開方法がどうなるのか、少々気になるところだが。

建設工事途中で岡田捷五郎に召集令状が届いたことなど、まだ謎は残っているが、このあたりで区切りとし、別の機会にしたい。
最後にいくつか補足を。

Ginza ■工事記録映像
明治生命館2階の資料・展示室で建設工事(1930-1934年)の様子を捉えた映像を流しているので、ご覧になった方も多いと思う。
クレーン、スチームハンマーなど建設工事の機械化が進む一方、まだ人力に多く頼っていたことが伺える貴重な映像資料である。残念なのは、解説が付いていないので何をやっているのかよくわからない部分があること。
そこで、工事記録映像の私的メモを作ってみた。
(暫定版なので詳しい方がいればご教示ください)

Hgenkan■旧館部材の行方
旧館(三菱二号館)の取壊しに際して、2か所の「玄関のアーチ型入口は、原型のまゝを東京美術学校及び横浜高等工業学校に寄贈し永久に現存せらるゝ事となつた」との記載が『六十年史』にある。
既に90年経っており、学校の組織自体も変わっているが、どうなっているのだろうか。

東京美術学校(現東京芸術大学)は岡田信一郎が教壇に立っていた関係で部材を引き取ったと思われる。
大正時代に建てられた校舎(文部省設計、1914年竣工)の外壁に保存部材が取り付けられていた。実際に取り付けるところまで、岡田が見届けたのかどうかは不明だが。
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(画像は練馬区立美術館の『大沢三之助展』ちらしより)
この校舎は既に取り壊されており、部材はしばらく放置されていたようであるが、現在は明治村に移されている。
ブログ記事「近代建築物の宝庫!明治村」(たらよろさん)の7枚目に円柱部分の画像がある。(この他にも明治村でペディメント部分を見た気がする?)

横浜高等工業学校は横浜国立大学工学部の前身である。曽禰中條事務所にいた中村順平(建築学科主任教授)の縁で部材を引き取ったのであろう。かつて工業学校があった敷地は現在の横浜国立大学教育学部附属横浜中学校で、1938年に建てられた工業学校の校舎が現存している。
二号館の部材がどこに置かれたのか、現状どうなっているのかは不明。(情報求む)

0kabeimg_2115■壁のモニュメント
明治生命館の北側スペース(皇居側から見て左側、ガラス屋根のかかるアトリウム部分)に、切り取られた壁の一部が置いてあり、建築業協会賞、建築学会賞などのプレートが付いている。

明治生命館一帯の街区再開発が行われる前には、地下駐車場に降りるスロープがあった。スロープに沿って造られた壁の一部(駐車場に入る直前の左側)をモニュメントにしたものである。

本館の壁は、中に鉄骨が入るSRC造だが、ここは建物の外でRC造になっている。構造は違うが、当時の工法を示す事例として参考になる。
壁の外側は花崗岩を積んでいる。壁の内側は擬石仕上げだが、現場打ちではなく、予めブロック状に造っておき、石と同様に積み上げていったのであろう(多分)。
鉄筋を組み、花崗岩と擬石を一段づつ据えながら、コンクリートを流し込んで壁を作っていると思う。
(スロープがあった名残りも、近くに残っているので探してみてください)

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2020.03.30

OSN142アメリカの保険会社(追記)

Metroimg_0661(その1)前回紹介した「ホームオフヰス訪問」が掲載された『生命保険経営』は、アメリカ帰りの生命保険関係者(日本生命の国崎裕、帝国生命の藤川博、明治生命の牧野亀治郎)らが創立した生命保険経営学会の機関誌である。

当時、近代的経営を学ぶために各社では社員(職員)をアメリカに派遣していた。
同誌の1931年9月号には生田武夫氏(簡易保険局)の「外遊雑記」という記事が載っている。英・米の生命保険会社を探訪した経験談だが、これを読む限り、アメリカの保険会社はかなり親切に対応している印象である。後進国の日本に対して、まだ友好的な時期だったということか。
(画像はニューヨークのメトロポリタン生命保険)

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2020.03.23

OSN141アメリカの保険会社

昭和初期の『生命保険経営』誌に「ホーム・オフヰス紹介」という記事が連載(1930-1934年)されていることに、つい最近気が付いた。アメリカにある保険会社23社のホームオフィス(本社)を写真入りで紹介したもので、創業から当時の経営状況、社屋の建築概要を記している。
執筆者の「本郷曙」は筆名で、連載の最後に明治生命保険の稲田勤であることを明かしている(出身地が本郷曙町)。1930年(昭和5年)に留学から帰国した稲田が、集めた資料や見聞をもとに執筆したものである。

稲田の後年の回想に「[1929年] 岡田信一郎氏の弟の捷五郎氏がわざわざアメリカにやって来て、有名な保険会社の内部設備や室内装飾を見たいというので、これはと思う会社はみんな案内して回りました」とある(「稲田勤と明治生命館」に引用)。
稲田と捷五郎が見て回った保険会社について、これまで具体的なことは不明だったが、連載に取り上げたのは稲田自身が興味を持って見た会社(=これはと思う会社)のはずだから、この中に視察先が含まれている可能性は高いと思う。

マサチューセッツ生命保険相互会社
Massachusetts Mutual Life Insurance Co.
Springfield, Massachusetts
1927年竣工(現存)
参考】(画像出典)
Massachusetts_mutual_life_insurance_comp


連載第1回はマサチューセッツ生命保険である。この社屋については『生命保険経営』誌でも何度か取り上げられており(稲田の記事の他にも1929年6月、1931年7月、1960年7月)、関係者の間でよく知られていたようだ。(文末で私見を記す)
他の22社は以下のとおりである。

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2020.03.20

OSN140稲田勤と明治生命館

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明治生命館に関わりの深い人物として、稲田勤氏(戦後に明治生命社長)のことを書いておきたい。もっとも、稲田氏が岡田信一郎と直接関わる場面はなかったかもしれないのだが。
(画像は稲田氏が描いた「空」と「横綱」。以下、敬称略)

稲田勤(1898-1976年)は東京生まれで、慶応義塾の理財科を出ており、阿部章蔵(水上瀧太郎)の後輩に当たる。スポーツ好きで、相撲の選手だった。
1922年の卒業後は明治生命に入社した。アメリカ留学を命じられ、1928年から1930年までフィラデルフィアに滞在。ペンシルベニア大学のヒーブナー博士(Dr. Solomon Stephen Huebner、1882-1964年)が主宰する夜間大学で生命保険学を学び、大学院にも通い、保険会社に行ってアメリカ式経営を視察した。

ちょうどその頃、岡田信一郎が明治生命館の設計を行うことになり、弟の岡田捷五郎をアメリカ視察に向かわせた。
後年の稲田の発言から引用する。(稲田『随筆 出張日記 その他』1961年)

私がちょうどアメリカに留学していたとき、岡田信一郎氏の弟の捷五郎氏がわざわざアメリカにやって来て、有名な保険会社の内部設備や室内装飾を見たいというので、これはと思う会社はみんな案内して回りました。そのため帰国を三ヵ月ばかり延ばして、シカゴ、ニューヨークからカナダにかけて視察しました。(略)岡田氏の設計に当っての考え方は、勤務上便利なこと、広告価値のあること、職員のモラール(士気)を高揚するものであること、などにあったようです。

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2020.03.11

OSN139阿部章蔵(水上瀧太郎)

Abe2img_2675 小説『銀座復興』などで知られる水上瀧太郎(1887-1940年)という人がいる。明治生命保険での勤務が本業で、明治生命館の建設に際しては、岡田信一郎とともに様々な問題の調整に当たっていた。
(画像は高井戸にある記念碑)

本名は阿部章蔵、1887年(明治20年)東京生まれ。福沢諭吉門下の俊才といわれ、1881年に明治生命を創業した阿部泰蔵(初代頭取、取締役会長)の四男である。
阿部は小学生時代から泉鏡花の作品に心酔していた。慶應義塾の理財科に進んだが、文学部の永井荷風や小山内薫の講義を聴いて文学に親しみ、『すばる』や『三田文学』に創作を発表した。水上瀧太郎というペンネームは、鏡花の小説の登場人物にちなむもの。
卒業論文は「劇場経営法」。経済と文学に関わるテーマを選んだのだろうか。

慶應義塾を出た後、父の希望もあってアメリカに留学し(1912年)、ハーバード大学で経済学、社会学を学んだ。折から第一次世界大戦が起こるが、ロンドン、パリと移って読書に明け暮れた。1916年10月に帰国した後は、父の意向に従って明治生命に入社し、作家と勤め人の二重生活となる。この間、やはり文学と仕事をめぐる葛藤があったようだ。

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2020.03.08

OSN138渡辺仁

Daiichiimg_2590 渡辺仁(1887-1973年)は銀座和光や東京国立博物館(原案)などの設計者として知られている。人物紹介はINAX REPORTの特集記事(大川三雄氏、2010年)がわかりやすいだろう。東京帝国大学建築学科の出身で、岡田信一郎の6年下に当たる。
渡辺仁の言葉として、建築史家の佐々木宏氏が記しているものがある。佐々木氏は1961年に渡辺から話を聞いたという。(『真相の近代建築』)

設計競技では一等を狙って、徹底的に審査員の顔ぶれを研究した。目標とした建築家は岡田信一郎、設計競技の成果やデザインの多様性には敬服させられた。(略)意匠は「社会の要請」や「施主の意向」に応じるのが当然ではないか。

前の記事では渡辺仁が明治生命に提出した応募案(多分)を紹介した。それを見た上でこの言葉を読むと、渡辺は自分の案が保険会社側の意向に沿っていなかったことを思い知らされたのかもしれない、などと想像してしまう。
この後で、渡辺が第一生命館の設計に関与することも少々因縁めいている。第一生命館(1938年竣工)は渡辺仁、松本与作の共同設計とされ、「外観のデザインは、まず設計競技によって十点が選出され、それを参考にして渡辺仁が新たに設計し直した」(『建築探偵術入門』)。

第一生命館の基本計画は本社の営繕課長だった松本与作が既にまとめていた。1932年に行われた設計コンペで選出された10案は参考にされただけで、入選者は設計に関与していない。(コンペの審査員は、葛西萬司、横河民輔、桜井小太郎、佐藤功一、中條精一郎で、明治生命館のコンペに指名された建築家と重なっている)
渡辺仁が設計に加わるのは矢野恒太社長の判断によるもので、渡辺は石坂泰三専務の親戚という縁があった。
松本与作は建物の三方向をトスカナ風の列柱が並ぶアーケードで囲む案を作っていたというが、渡辺仁の設計により簡潔で風格あるデザインにまとめられた(伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』)。

※当時の文献の表記は「渡邊仁」「松本與作」。

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