« OSN136指名設計競技の謎 | トップページ | OSN138渡辺仁 »

2020.02.29

OSN137三菱二号館取壊しの謎

2gouimg_1946明治生命保険の設計コンペの条件として、旧館(三菱二号館、1895年竣工、J.コンドル設計)を保存し、その隣りに高層の新館を建てることになっていたはずである。
実際には、旧館を取り壊して明治生命館が建てられたが、そこに至る経緯はどうだったのだろうか。基本史料はやはり『明治生命保険株式会社六十年史』になる。

■旧館の保存方針
『六十年史』によれば、新社屋の建設に関して社内では、(1)既存の社屋は震災の被害を受けておらず直ちに建替える必要はない、(2)建築美術上からもできるだけ保存したい、(3)隣接地に新館を建設し、将来旧館を取り壊した場合に、適宜増築できるようにしておけばよい、という方針でまとまっていた。(昭和3年時点)
応募案を審査する段階でも議論があったが、(a)旧館・新館の調和よりも、将来「新旧両敷地を掩う大建築が完成したる時」のことを基本に判定すること、また(b)「荘重、堅実 且美的外観を失はざる事」という方針で審査を行ったという。(昭和3年末~4年1月頃?)
いずれ旧館を取り壊す時期が来るまで当面は残しておこう、ということだが、(1)~(3)と(a)を比較すると、次第に将来の「大建築」に意識が寄ってきているように感じられる。

■応募案の関連資料
設計コンペの応募案については当時公表されておらず、現在も関連資料が何点か知られている程度である。(以前の記事で書いたことと重複する部分もあるが、再度内容を確認しておく)

1つは、国立国会図書館所蔵の岡田兄弟設計原図に含まれているもの。標題は「明治生命保険株式会社新築設計図」とあり、岡田建築事務所で作成された平面図10枚である。旧館の隣接地に8階建の新館を配置しており、皇居側のファサードに6本の円柱を並べていることがわかる。
ちなみに円柱の柱間(心心)は21尺5寸になっている。この後で大きな設計変更が行われるにもかかわらず、柱間は現在の建物と同じである(前出)。このサイズは構想段階から最後まで変わらなかったことになる。立面図は残っていないが、おそらく現在の明治生命館を短縮したようなファサードデザインだったのであろう。

もう1つは、明治生命館2階にある資料・展示室で公開されている画像データベースに含まれているもの。「昭和3年~4年指名懸賞競技」として、25枚の図面が収められている。
そのうち22枚は「明治生命保険株式会社新築設計図案」と標題にあり、平面図・立面図・断面図・パース図で3通りの計画案を示している。
Conpeanimg_2090立面図等に「Prof.Dr.K.Satow」とサインがあり、すべて佐藤功一による設計案と考えられる(影の付け方など描写法が違うので、佐藤の構想を基に事務所員が分担して図面を仕上げたのだろう)。
3つの案はいずれも旧館の隣接地に新館を建てる計画である。立面図、パース図を見ると、次のように多彩なデザインが使用されている。
・ルネサンス系 … 中央に時計塔があり、野村ビル(佐藤功一設計)にやや似た雰囲気(全7枚)
・ゴシック系 … 垂直線を強調し、日比谷公会堂(同)に似た雰囲気(全6枚)
・古典主義系 … 皇居に面した側に4本の円柱が立つデザイン(上図)で、現在の明治生命館にやや似ている(全9枚)
複数案を提出しても規定上は問題なかったのだろうか。いずれにしても、佐藤のデザインの力量と、設計コンペにかける熱意がうかがえると思う。

佐藤功一案の図面22枚の他には、既存の旧館を描いたスケッチ1枚(作者不明)とパース図2枚がある。
パース図の1枚はルネサンスを基調にスパニッシュを加えたようなデザインで、旧館の隣接地に新館を建てる計画案である(設計者不明、岡田の案ではない)。
Animg_2212もう1枚には「z(?).watanabe」とサインがあるので渡辺仁が提出した案か。垂直線を強調し、ゴシック調というべきか、少々ゴタゴタしたデザインである。どうも明治生命側が求めていた「荘重、堅実」は感じられないと思う。
不思議に思うのは、この案が旧館を撤去して大きな敷地に建てる計画になっていることである。
旧館を保存することが設計コンペの条件だったのではなかったか。
旧館を撤去した方が土地を有効活用できる、という応募者側からの提案だったのだろうか。あるいは、審査側が「新旧両敷地を掩う大建築が完成したる時」(前記)を考慮して選考するために、提出を求めたものだろうか。
コンペの経緯が不明確なため、今のところは不明というしかない。

■三菱二号館の取壊し
『六十年史』によれば、旧館の取り壊しは岡田信一郎が進言したことになっている(「岡田氏は(略)新旧両敷地を掩ふ大建築こそ明治生命の偉容を発揮し得るものなる事を主張し、可及的速かに旧館を取除くの良策なる事を進言したのであつた」)。
旧館を取り壊す理由として『六十年史』が挙げているのは、(1)市内最優等の商業地域を3階建の建物で占めるのは極めて不経済であること、(2)旧館を残すのは「美観建築地区」に不調和であること、(3)大きな容積が荘重なる外観を生むこと、である。
『六十年史』の編集者は岡田を顕彰するつもりで(将来の発展を見越して大建築を進言したのは、先見の明があったと)このように記述しているのかもしれない。だが、筆者(私)はかねてこの点を疑問に思っている。そのゆえんを以下に述べたい。

まず取壊しの理由(2)だが、丸の内を含む皇居周辺が美観地区に指定されるのは1933年(昭和8年)のことであり、コンペ実施の当時(1929年)、美観地区に不調和だという理由が説得力を持ち得たのだろうか。どうも後付けの理由に感じられる。

また、岡田はかねて明治建築の価値を評価しており、関東大震災で被災したニコライ堂(J.コンドル設計)の復興工事など実際の保存修復にも携わっている。三菱二号館の取壊しを岡田の側から積極的に提案するだろうか。

さらに、まだ利用可能な旧館を取壊して敷地一体に建てるとなれば、当面の建設費用は増大する。荘重なる外観の方がいいからと建築家が予算を膨らませていいものだろうか。もちろん商業地域に3階建は「不経済」かもしれないが、そこは経営者側が考える問題だろう。

明治生命保険の社内に、敷地一体の新建築を建てるべきだと考える人物がいたはずである。
岡田はその人物の意向を受けて(渋々ながら?)、旧館を保存した場合と取り壊した場合の比較資料を作成したり、曽禰達蔵の意見を聴いたり調整に当たっていたのであろう。表面的に見れば、岡田が自分の思うような作品を造りたいために動いていると捉えられたかもしれない。

『六十年史』は当時残っていた社内文書、関係者からの聞き取り等をもとに執筆されているはずである。
もしかすると「可及的速かに旧館を取除く」べし、と岡田が書いた書類があったのかもしれない。仮にそうだとしても、岡田の真意やそこまでの経緯については、もう少し考えてみたいと思うのである。

| |

« OSN136指名設計競技の謎 | トップページ | OSN138渡辺仁 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« OSN136指名設計競技の謎 | トップページ | OSN138渡辺仁 »