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2019.12.24

OSN130竹内勝太郎への便り

日本の象徴詩を確立したと言われる詩人、竹内勝太郎(1894-1935)という人がいる。富士正晴(詩人)、野間宏(作家)、竹之内静雄(筑摩書房社長)らを育てた人である。

Fujip1040683 茨木市の富士正晴記念館では、富士が残した膨大な資料を所蔵している。その中に恩師竹内勝太郎の日記や書簡などが含まれており、岡田信一郎から竹内にあてた書簡が1通見つかった。
(画像は記念館に再現された富士正晴の書斎)
書簡は1929年(昭和4年)11月4日に書かれたもので、岡田47歳、竹内36歳のときである。
両者の関わりは大礼記念京都美術館の建設委員会である。この年から岡田は武田五一、伊東忠太らとともに京都美術館の建設委員を務め、設計案を決める段階で同美術館に関与することになった。竹内勝太郎は委員会の嘱託という立場であった。

竹内は家庭の事情で中学を退学したが、文学への志を持ち続けた。新聞記者をしたり、京都基督教青年会の夜学でフランス語を学んだりしながら文壇に出ることを夢見ていた。はじめ、詩人の三木露風に師事し、詩や小説を書いては読んでもらっていたようである。日本画家の村上華岳、作家の志賀直哉らと交遊し、詩集『光の献詩』『室内』などを刊行した。
1928年(昭和3年)、フランス行きの機会を得ることができた。京都市から「欧米各国の美術館に関する調査」を嘱託された(昭和3年6月4日付)ことによるらしい(京都市からも費用が出たのか?)。6月、竹内は安田耕之助(前年まで京都市長)とともにフランスに向けて出発した。

翌年3月に帰国。朝日新聞への入社を望んでいたが果たせず、落胆する。
安田耕之助に美術館の仕事に押し込んでくれるよう依頼し、京都市に美術館の報告書を提出した。1929年10月28日付で京都市から「大礼記念京都美術館設計調査事務」を依嘱された。(以上は富士正晴「竹内勝太郎略伝」、『竹内勝太郎の形成』などによる)

岡田信一郎は、京都美術館の建設に関して清浦奎吾から相談を受けたことがあった(1928年4月12日、前出)。その後どういう経過があったか不明だが、建設委員会の委員に加わることになった。
委員会の第1回の会合は1929年10月26日である。ここで岡田は敷地等に関する「小委員」に指名されている(この会合の後、大道弘雄に書いた絵はがきのことは前出)。竹内は第1回委員会に出席したかどうか。正式な辞令の出る前だから、出席していないかもしれない。

京都市嘱託の辞令を受けた竹内は、委員に挨拶文を送ったようだ。それに対する返信が、冒頭で紹介した岡田の書簡である。内容は、挨拶文を受け取ったこと、「御家の為め京都の為め将又美術の為め」尽力を願うこと、自分も不行届きながらお手伝いしたいこと、などである。この時点で岡田と竹内はまだ顔を合わせていないかもしれないが、書簡からは(年下の竹内に対して)ていねいな文章という印象を受ける。竹内が京都市に提出した美術館の報告書を読み、竹内を評価していた可能性も考えられる(推測)。岡田から竹内あての年賀状(1930年1月、印刷されたもの)も資料の中にあったが、竹内の日記には美術館関係の記述は特に見当たらず、両者の関わりについて、これ以上のことはわからない。

美術館建設委員会の経過を記しておこう。(主に大礼記念京都美術館年報による)

第1回委員会…10月26日(上記)
小委員会…11月26日及び12月14日開催:位置は岡崎公園とし、懸賞公募(設計コンペ)の実施、その募集規程を決める。
第2回委員会…12月14日:小委員会の決定を可決。懸賞公募の審査委員として、伊東忠太、岡田、片岡安、佐藤功一、武田五一の建築家5名、芸術家4名、京都市助役の計10名が指名される。
懸賞公募の実施…1930年(昭和5年)5月公募開始、7月15日締切、7月19日に武田と三橋営繕課長立ち会いのもと下審査(規程違反のチェック)を行う。
応募図案審査会議…7月25日:前田健二郎の応募案を1等と決定。
審査委員実施設計協議会…11月5日:武田、芸術家4名、助役の6名が出席し、当選図案をもとに細部を協議。
最終の委員会…12月12日:祇園中村楼にて経過報告があり承認される。委員会を解散。

以上の経過を見ると、武田五一が実質的に設計コンペを仕切っていたのであろう。岡田が小委員会以降の会合に出席したかどうかは未詳である。

委員会が解散した後も、竹内は嘱託として美術館の仕事を続けた。竹内の弟子の1人、竹之内静雄は次のようなエピソードを伝えている。(『竹内勝太郎全集』第2巻)
竹内は午前中、自宅で「お仕事」(執筆と勉強)をし、法然院の12時の鐘がなると役所に行く、といった調子だった。1週間の出張を命じられると4日くらいで済ませ、さっさと帰って「お仕事」である。
竹内をクビにしようという話が出たが、その噂を聞いた友人の日本画家・榊原紫峰は京都の美術家たちの署名を集め、竹内は美術館になくてはならない人物であると京都市長(土岐嘉平)あてに嘆願書を出した。美術館ができてから、竹内は書画の収集、展覧会の仕事などに尽力し、市長から「あのとき辞めさせなくてよかった」と言われたそうだ。

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