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2018.10.16

OSN129大道弘雄への便り

岡田信一郎が大阪朝日新聞の名物記者と言われた大道(おおみち)弘雄に宛てた書簡を紹介したい。
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大道弘雄(1888-1961)は大阪天満天神の社家(世襲の神職)の生まれで、國學院大学の出身。同窓の折口信夫(民俗学者)とは友人だった。
(天満宮の画像はWikipediaより拝借)
里見弴の小説「新聞記者にして殿上人」(小説新潮1964.12)に出てくる「O君」は大道がモデルである。「O君」は賽銭その他の上がりで十分暮らせる身分で、新聞記者としての仕事は一切せず、ただ東京などから京都へやってくる芸術家、実業家などの接待役をするのが仕事だった、ということになっている(ただし、大道は後に朝日の出版編集部長に昇進しており、接待ばかりやっていたとも思えないのだが…)。
大道は美術関係などの著作を残しており、古代裂の収集家でもあった。

日本近代文学館では、大道の遺族から寄贈された書簡類を「大道弘雄コレクション」として所蔵している。小山内薫、谷崎潤一郎、木下杢太郎といった作家や石井柏亭ら美術家の書簡のほか、岡田信一郎の絵はがき等も含まれている。
岡田のものは1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)までに出された9通で、ふざけた内容も多く、気のおけない間柄だったことがうかがわれた。

大道は岡田の5年下に当たる。大阪で勤務していた大道がどうやって岡田と知り合ったのかは不明である。大阪市公会堂の設計コンペで1等を取った岡田を取材したのかも、と想像してみたが、大道も顔が広い人物だから共通の知り合いを通しての付合いだったかもしれない。
以下に9通の内容を記しておく。

■大正3年7月2日の絵はがき(写真:お染久松の舞台)
大道が(大阪朝日の)「日曜附録」を送ってくれたことへの礼を書いた後、博覧会(東京大正博覧会)で麻布、小石川、四ッ谷の芸妓の舞台を見たこと、学校が休みになり蝿、蚊を追って日を過ごしていることが記されている。

■大正3年12月1日の絵はがき(写真:新橋芸妓)
病気で4か月も(=8月から)寝ていること、大阪朝日のために「新日本の建築」のテーマで原稿を書くつもりであること、「大阪の別嬪さん」(の絵はがき)を見せてほしいことを書いている。

■大正3年12月28日の絵はがき(写真:芸妓)
(岡田から送った)原稿が長くなりお気の毒、などとある。
※岡田が執筆した「新日本の建築」は翌年1月の大阪朝日新聞に掲載された。
また、先に出したはがきに対して、大道から大阪芸妓の絵はがきが送られてきたらしく、その返信で東京にもこんな芸妓がいる、と書いている。
どうも岡田と大道の間では芸妓の話題がよく出ていたようだ。

■大正5年10月19日の絵はがき(写真:10月歌舞伎座、与話情浮名横櫛の舞台)
正倉院を拝観に行くつもりで準備していたが、「不眠と神経衰弱で」当日になってやめた、とある。

「不眠と神経衰弱」という文言をどこまで真に受けていいのかわからないが、楽しみにしていた拝観をあきらめるほど、体調が悪かったのであろう。なお、この年の正倉院拝観は10月1日から21日までであった。
※岡田が初めて正倉院を拝観したのがいつかは不明だが、この文面から推測すると、大正5年より前にも見たことがあるのではないか(もし初めて見るのであれば、そのことにふれてもいいように思われるので)。

■大正6年2月17日の絵はがき(写真:1月明治座の舞台)
今度、(岡田)三郎助君と出かけましょう、などとあり、その後に「今夜東京で国民美術の講演会があります、いつぞやの夜を思い出します」などと意味ありげなことが書いてある。「いつぞやの夜」というのは大正2年10月のことかもしれない。大阪で開催された国民美術協会の展覧会を、岡田が見に行ったときのことである。
※間違っていたら申し訳ないが、「いつぞやの夜」に岡田と大道がお座敷遊びに行ったのではないか、と私(筆者)は推測している。ただし、大正6年と言えば、6月に岡田と恒川静(もと萬龍)の結婚報道が出た年で、2月頃は縁談が進行していた時期かと思う。わざわざこうしたことを書いているのは少々妙である。

■大正7年12月24日の絵はがき(写真:芸妓2人)
(京都の旅館)梅垣から、4人(または5人)の寄せ書きで大道宛に送ったもの。
※梅垣については、以前の記事に書いたが、1924年(大正13年)11月12日に妻の静とともに宿泊している。

■大正13年3月30日の絵はがき(写真:手ぬぐいを被り、かごを背負った美人)
ベルリン滞在中の大道に送ったもの。
※大道は大正11年10月から14年5月までドイツに留学している(朝日1935.1.26)。
「西洋の女は日本の女のやうに勝手を言はないから君でも相手になって呉れる奴があるだらう」などとふざけて書いている。
妻の静も寄せ書きをしている。  

■大正14年6月10日の絵はがき(絵:円覚寺大鐘)
鎌倉の岡田別邸から、帰国した大道あてに送ったもの。
「久米、里見等が居る」とある。作家の久米正雄と里見弴であろう(鎌倉の里見邸は現存、久米邸は郡山市に移築されているという)。

■昭和4年10月27日の書状
大阪の金森旅館から送ったもの。
岡田は京都美術館の計画に関わっており、この日は京都で委員会に出席した後、大阪に泊った。日曜日で大道に会えなかったことが残念だと記している。
大道に子どもができたようで、「大道第二世に初対面もしないのを甚だ遺憾とす、保険にでもはいって小供の将来でも考へろ」とある。
※岡田は金森旅館(増築)の仕事をしている(昭和6年6月竣工)。
※昭和4年当時、岡田は明治生命館の設計を進めていた。保険に入るよう大道に勧めているのは、もしやそのせいか…?

大道あての書簡は、岡田の素顔が垣間見える珍しい資料である。

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