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2018.09.16

OSN126梅田ビル

Umedap1220052 (画像は『太陽』1986年2月特集「甦るアール・デコ」より)

岡田信一郎が設計した梅田ビルは、1928年(昭和3年)12月竣工、RC造4階建の小規模なオフィスビル。
東京駅近くの八重洲二丁目にあり、オーギュスト・ペレのフランクリン街のアパート(画像)を思わせる出窓や、アールデコ風の細部装飾が特徴的であった。
ブログ「ぼくの近代建築コレクション」によると、1985年4月時点で1階のレストラン「シャンティー」が営業していたそうだが、上記『太陽』の記事には「現在は都会の廃墟と化した」とあり、この後まもなく建て替えられたのであろう。

梅田商会主の梅田潔(1873-1953年)は日露戦争後、ロシアとの貿易で財産を築いた人物である。
今や忘れられた作家、梅田晴夫は梅田潔の子に当たる(Wikipediaに父親の経歴も簡単に記載されている)。

日露戦争終結の翌年(1906年)、梅田は浦汐(ウラジオストク)におり、無一文状態であった。ここで浦汐、敦賀、長崎、上海間に定期航路が開設されることを聞き込むと、関係先を奔走して浦汐-敦賀間の代理店となることに成功。3年間で50万円の利益を上げたという(『実業の世界』13-8、1916年)。当時の1円は現在の2万円に相当するという説に従えば、100億円にもなる。本当かなという感じだが、定期航路の仕事で大儲けしたのは事実であろう。

ここで急に話は変わるが、岡田信一郎の夫人となる静(元赤坂芸妓、萬龍)が、結婚前(大正6年頃)に「梅田花嫁学校」へ通ったというエピソードがある。

静との結婚話には、気丈夫な[岡田の]母親もびっくりし、驚きのあまり三日程寝込んでしまったという。母親も一旦決心した以上、岡田の嫁としてふさわしい教育をと考え、知人の母親が開いている梅田花嫁学校に通わせ、家事全般と教養を修めさせた上で迎えた。(前野まさる『様式美の挽歌』)

この「梅田花嫁学校」を調べても情報が出てこないが、もしや梅田ビルと関係があるのではないか、というのが私(筆者)の長年の疑問である。ロシア貿易と花嫁修業ではかけ離れているのだが…。

梅田潔の義母(妻、きよの母親)は小具貞子(1861-1926年)という。小具は20歳にして四谷区愛住町に愛住女学校を開き、女子教育に生涯を捧げた人物である。女学校は明治末年に閉校したと思われるが、その後もしばらく愛住幼稚園が残っていた。梅田潔一家は愛住町(暗闇坂)の同じ敷地に住んでいたようだ。

愛住女学校出身者に後の舞踊家、林きむ子がいる。きむ子は1884年(明治17年)生まれだから、明治30年代の話だろう。
森まゆみ『大正美人伝 林きむ子の生涯』には、「[愛住女学校では]本科がすむと、そのあとは花嫁修業のように炊事や洗濯、家計簿記などを教えた」という記述がある。こうしてみると、梅田家、小具女史と花嫁修業の結び付きも不思議ではないと思う。

もしかすると小具貞子女史と岡田の母親が知り合いで、嫁の静の教育を託したのかもしれない、というのが今のところの推測である。
小具貞子や梅田花嫁学校(?)について心当たりのある方は、ぜひご教示を願いたい。 

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