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2018.08.26

見定二郎 余滴

以前の記事(小池駸一)で見定二郎について書いた。ロシアとの開戦後間もない明治37年(1904年)2月、病気で急逝した一高生で、倉田謙の弟である。岡田信一郎の2学年下になる。
だいたいのことは以前の記事に記してあるが、いくつか補足しておく。

〇画学会
見定が画学会に入っていたことも以前書いた。
東京大学の駒場博物館には、画学会の作品集が6冊遺されている。年代がはっきりしないものもあるが、明治27年から36年頃に作られたものである。
ここから、お題(テーマ)を決め、それに沿って各人が作品を描き、相互に点数を付ける、という方式で活動していたことがうかがえる。お題の例として「冬籠」「一刻千金」「くるしみ」などがある。

私(筆者)は、岡田信一郎の絵があるかもしれないと思って博物館を訪れ、資料を見せていただいた。
『題画集 卅六年四月廿八日 卅五年九月十二日 画学会』と表紙に記された冊子は、ちょうど岡田が在校していた当時のもの(明治33年9月-36年7月に一高在校)であるが、作品の大半には署名がなく、何とも判断ができなかった。

ただ、その中に「ジロウ」と記された絵が4点あった(「喜悦」「アベコベ」「呑気」「画学会」)。見定二郎による作品かもしれない。
見定の在校期間は明治35年9月-37年2月なので、年代的には重なっている。ただし、ジロウという名の学生は何人かいるし、断定はできない。確認する方法はないものだろうか。
201606gagakkaip1190554



〇藤村操
1903年(明治36年)、華厳の滝で投身自殺した藤村操は見定と同じクラスの友人であった。見定は『校友会雑誌』128号に藤村を悼む文を寄せている。

藤村の死にショックを受けた一人に、岩波茂雄がいる。岩波は藤村の1学年上であったが、当時失恋などで人生に悩んでおり、離島に籠ったり、学校も休みがちとなり、2回落第して退学となったという。後の岩波書店社長の若気の至りと言える。

〇野上弥生子
作家野上弥生子の日記に見定のことが書いてある(1930年10月17日、『『野上弥生子全集』)。1930年ということは、見定が亡くなって26年後のことである。
この日、岩波茂雄と和辻哲郎野上豊一郎邸を訪れていた。

藤井さんのことをきいて見たところ、彼女が父さん[=夫]の一高時代の親友の故見定二郎氏の実妹だといふことが分かる。おどろく。
おそらく、夫(豊一郎)も、「藤井さん」が見定の妹だということに気づかずにいて、岩波(あるいは和辻)の話で初めて知った、ということであろう。野上豊一郎と見定も一高の文科で同じクラスだった。

『大衆人事録』(第12版)で倉田謙(=見定の兄)の項を見ると、「妹 瑞枝(明二〇)は石川県士族藤井久太郎二男 悌に嫁す」とある。「藤井さん」は、藤井悌(協調会調査課長)夫人の瑞枝さんであろう。

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