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2018.08.25

OSN125倉田謙のこと

前回の記事(岡田の同級生)を書いたのは、『工業大辞書』の執筆者の中に倉田謙がいるのに気づいたことがきっかけである。書いているうちに倉田の卒業後の進路がはっきりしてきた。
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倉田は九州帝国大学の校舎群を数多く設計している。近年、九州大学のキャンパス跡の整備方針が決まり、校舎の一部が保存されることになった。設計者として倉田の名前も、以前よりは知られてきたように思う。
しかし、倉田の具体的なことはほとんど不明のままである。

倉田の弟、見定二郎が早世した話は以前別の記事(小池駸一)で書いたが、兄弟で姓が異なる点がまず気になる。

倉田の父は倉田伋作という。『改正初学算術教科書』(1888年)、『幾何学』(1891年)などの編著があり、数学者だったと思われる。
倉田家は本郷区元町に500坪の土地を持っていた(地籍台帳による)。昭和初期の火災保険地図を見ると、木造長屋の家屋が建ち並んでおり、不動産からの収入もあったようである。
父がいつまで存命だったのか不明だが、『日本紳士録』を見ると29版(1925年)まで掲載があり、30版(1926年)では見当たらなくなる。

倉田は1911年、九州帝国大学技師に就任して以来、大学でキャンパスの整備に当たっていた。

工学部本館設計のために海外視察もしているが、建設中の1929年12月に突然辞任している。
これについては「工学部本館建築中に、同建築等に関係した不正事件が起こり、建築課員3名が起訴され、課長倉田謙はそのため責任をとって、[昭和]4年12月に依願免官となっている」という事情があった(『九州大学五十年史 通史』)。
倉田は辞任と同時に昇格の扱いになっている。倉田自身は不正に関与していないものの、監督責任を負って辞表を出したのであろう。

大学では工学部本館など多くの建物がまだ建設の途中であった。福岡に倉田建築事務所を設けて対応(残務処理)を行ったが、倉田自身は東京へ戻ったようである。
(なお、後任の建築課長には、東京帝国大学技師の渡部善一が就いた。渡部は工学部本館竣工後の1931年4月に病気で亡くなっている。西山雄大他「九州帝国大学の営繕組織に関する基礎的研究」による)

東京で設計活動をしたかどうかは不明で、倉田設計とされる物件は知られていない。

何となく漠然とした話ばかりなので、もう少しはっきりするといいのだが。

(画像は九州帝国大学工学部本館の立面図、九州大学のサイトより)

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