« レオナルド×ミケランジェロ展 | トップページ | OSN120小池駸一(続) »

2017.07.24

OSN119小池駸一

岡田信一郎と高校3年のとき同級だった小池駸一(しんいち)というひとがいる。

1882年(明治15年)、東京生まれ。第一高等学校を経て東京帝国大学土木学科に進み、鉄道技師になった。中学時代の1896年(明治29年)から1966年(昭和41年)まで、70年にも及ぶ日記を遺しており、神奈川県立公文書館に所蔵されている。

もしかすると岡田のことが書いてあるのでは…と思い、高校入学から就職が決まるまでの7年分を中心に日記を読んでみた。
結果として、高校時代の岡田に関しては、特に記述は見あたらなかった(高校を卒業した後に若干記事がある)。
その代わり、建築学科に進んだ倉田謙(九州大学の校舎群が代表作)や井手薫(台湾にいくつか作品が残る)がしばしば日記に登場する。倉田はテニス仲間であり、井手とは学生寮で同じ部屋だったようだ。
岡田と同時代に身近なところで学生生活を送っていた人物ということになる。

以下、小池日記の一端を紹介するが、岡田ファンという偏った視点での記述になることはご容赦願いたい。
(なお、当時は高校・大学とも、9月入学、7月卒業である)

小池は岡田より1年早く第一高等学校に入学したが、3年の測量の成績が悪く卒業が1年遅れた。そのため、1902年(明治35年)9月、岡田と同じクラス(2部3年1組)になった。
クラスは43人で、井手や笠原敏郎、橋本勉もいた。当時を回想した笠原の文章については以前の記事で紹介した(「授業時間の合間にも皆が中庭に出て遊んで居るのに、君[=岡田]はいつも文芸書などを耽読して居つた」)。

小池は用器画や測量の課題をこなしながら、時間があればテニスをし、ときには仲間たちと牛鍋屋で飲んで騒ぐ、という日々を送った。
学年末の試験(1903年6月)では物理の出来が悪く悲観していたが、落第を免れ、天に昇る心地となった。

一方、井手薫は2回目の落第となった。当時の規則では、2回落第すると除名処分である。
心配した小池は飯島先生(理学科主任の飯島正之助)に相談した。すると、いったん自己都合ということで退学し、3年の試験に合格すれば、大学に進む途があるのだという。どうも妙な抜け道である。
小池や倉田たちは井手を励まし、試験を受けるよう勧めた。井手は9月に試験を受け、少し遅れて大学の建築学科に進むことができた。

『第一高等学校一覧』を見ると、この年の卒業生で工科志望は61名。1番の成績は大鷹市蔵(機械工学科に進んだが、大学卒業後、間もなく亡くなったという)、岡田は11番、倉田は17番、小池は30番であった。なお、井手は退学したため、卒業生名簿に名前がない。

大学1年の冬に、悲痛な出来事があった。倉田の弟、見定二郎(一高文科2年生)が腸チフスで急逝したのである(1904年2月18日)。見定は小池と同じ開成中学出身で、学生寮では隣りの部屋になったこともあった。
当時の『校友会雑誌』を見ると、見定の逝去を悼む投稿が多く寄せられている。見定は剣道、水泳を得意とする一方、読書や水彩画を好み、文武両道を地で行っていた。画学会に入り、展覧会のポスターも描いていたという。
小池も少し前の画学会(展覧会?)で見定と会ったばかりだったので、急な知らせに茫然となった。
日記には登場しないのだが、ここで岡田信一郎のことを想像してみたくなる。岡田にとって見定は、同級生(倉田)の弟であり、画学会で直接知っていた可能性もある。その早すぎる死を心から悼んだことであろう。
なお、美少年の見定は、ドイツ語の岩元禎教授(建築家・岩本禄の兄)から寵愛を受けていたとも言われている(高橋英夫『偉大なる暗闇』P71)。

小池日記に岡田の名前が出てくるのは、大学1学年の成績発表のときである(1904年7月5日)。各学科の首席をほとんど一高出身者が占めていることを記し、土木の手塚(善)、機械の山下(興家)、舶用の松田(勉三)、電気の藤沢(茂樹)、造船の浅井(虎之助)、建築の岡田信一郎、採鉱の岡田陽一、と名前を挙げている。小池自身も、土木学科で10番という好成績であった(43名中、合格者は23名)。

建築学科の学生は、1学年の夏休みに日光東照宮へスケッチ旅行、2学年の夏に近畿の社寺建築調査、というのが慣例になっていたが、土木学科ではどうだったのだろうか。
1年の夏休みには、グループに分かれて茨城、埼玉、仙台、三重、兵庫の各県へ出張している。小池ら4人は7月から9月まで兵庫県土木技手の辞令を受けており、小池と中村(博)の2人は網干と生島で測量を行った。
2年の夏休みには鉄道会社のパス(無料乗車券)を受けて、北海道、近畿、九州と各地の土木施設(水道、港湾、鉱山、製鉄所)を同級生らと見学して回っている。コースは各自で自由に設定していたようだ。こうした実習は正規の学科課程で行われていたのだろうか、今ひとつわからない点である(ご存じの方はご教示いただきたい)。

小池は、京都帝国大学とのテニス試合(1905年4月)を実施するために奔走し、学業を放棄していたので2学年では最低の成績だったが、3学年で挽回し、卒業時の成績は土木学科25名中15番だった

|

« レオナルド×ミケランジェロ展 | トップページ | OSN120小池駸一(続) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« レオナルド×ミケランジェロ展 | トップページ | OSN120小池駸一(続) »