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2016.07.30

OSN117夏目漱石(続)

高校時代の岡田信一郎は夏目金之助の英語の講義を聞いたのか、という疑問を以前の記事で書いたが、その後、史料が見つかり、岡田のクラスを担当していたことが確認できた。

1902年(明治35年)9月から翌年7月の時間割が残っており(駒場博物館蔵)、それによると夏目講師が担当したのは、1年の6クラスと、3年の2クラスであった。3年では2部3年1組(工科理科)と2組(工科農科)で、当時の名簿を見ると大学の建築学科に進んだ人物として、1組に岡田、笠原敏郎、井手薫、橋本勉、2組に倉田謙、本野精吾の名がある。
もっとも、(以前も書いたが)夏目が講師の辞令を受けたのは4月で、授業を始めたのは5月(?)、6月には試験で7月1日が卒業式である。講義は週2回(1組は水・金、2組は月・木)だったが、岡田たちが聞いたのは10回程度であろうか。
(笠原敏郎は卒業が遅れたので、内田祥三と同じクラスで1年間、夏目先生の講義を聞いたはず。)

この頃の夏目先生の様子は次のように記されている(江藤淳『漱石とその時代』第二部)。

一高生たちにも、高いダブル・カラーをつけて尖の細いキッドの靴をはき、小柄な身体をそらせて「爪先ですっすっと廊下を気取って歩いていた」金之助は、洋行帰りの正札をぶら下げたようなハイカラ教師に見えた。

夏目先生が来る前は誰が英語を教えていたか、という点も気になっていたが、前任は山川信次郎だったようだ。山川は夏目の友人である。狩野亨吉と夏目、山川が同じ熊本の第五高等学校に勤めていた時期もある(山川と同行した小天温泉の旅は、後に『草枕』の元になった)。
狩野は1898年11月、一高校長に就任。山川は1889年9月から一高教授になり、夏目は1900年、ロンドンへ2年間の留学に出る。夏目が帰国する少し前の1902年10月、山川は女性をめぐるスキャンダル攻撃にあって、高校を辞任している(『漱石周辺人物事典』)。しばらく狩野校長が英語の代講をしていたらしい。

また話は飛ぶが、作家となった漱石と、岡田の弟・復三郎に注目した人物がいた。井上ひさし氏である。
戯曲『吾輩は漱石である』(1982年上演、集英社より刊行)は、漱石が危篤に陥った「修善寺の大患」がテーマだが、ここに岡田復三郎が登場する。

復三郎の出番はエピローグの場面である。大患から1年後の1911年(明治44年)8月10日、春陽堂の社員として新刊書『切抜帖より』を漱石山房に届ける役回りである。
漱石はぼんやりしており会話はないが、妻の鏡子と復三郎の間にやり取りがあり、新刊書に収められた「思ひ出す事など」を2人で朗読する、ということになっている。

井上氏は漱石日記1910年7月3日の記述(前出)から、春陽堂社員としての岡田復三郎を知ったのであろう。
『昭和新聞名家録』(1930年)によると、復三郎は1907年に早稲田大学卒業後、春陽堂に入社し、1909年秋に時事新報社、1911年5月に国民新聞社と移ったというが、1911年時点で春陽堂の『新小説』編集部にも籍があったらしく(『新小説』1911.12)、新聞社と雑誌社の掛け持ち生活だったかと思われる。

芝居好きだった復三郎も、思わぬところで井上作品に登場して、喜んでいることと思う。

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