« OSN115一高画学会 | トップページ | 中村春二像 »

2016.05.24

OSN116第一高等学校の寮(続)

以前の記事で、一高時代の岡田が「自治寮に入ったかどうかが謎」と書いたが、関連史料が見つかった。

当時の寮役員が記した「寄宿寮記録」(1900年3月-1901年5月)である(駒場博物館所蔵)。ここに岡田の名が2回登場する。

(明治三十四年一月)二十二日 通学委員会を開く(…)
西寮六番岡田信一郎通学願の件 理由不完全なりし為許可せざると決す

(同年)二月十二日 委員会(…)
西寮六番 岡田信一郎 今学期間の下宿を許すこと

岡田が入学するのは1900年(明治33年)9月だから、入学から4、5か月経った頃の記事である。
これにより、岡田が西寮六番に入っていたこと、通学願を2回出してようやく許されたことが判明した。
岡田が通学願を出した理由は記されていない。「下宿」(?)が許されたのは「今学期間」(3月末まで)だが、その後は順当に寮へ戻ったのだろうか。記録の残る時期は限られており、なお疑問が残る。今後の課題である。

ここで当時の寄宿寮について補足しておく。(第一高等学校ホームページが参考になる)

一高には1890年(明治23年)に寄宿寮が設けられ、当初から学生による自治制をとっていた。全寮制が確立するのは10年後の1900年である。9月に新らしい中寮・南寮・北寮が竣工し、東寮・西寮と合わせて5つの寮が揃った。まもなく寮規程も改正され、従来は「新入学生は(…)一学年間入寮すべきものとす」とされていたのが、「本校学生は在学中寄宿寮に入寮すべきものとす」と明記された。原則として全学生が寮に入ることになったのである。(『第一高等学校自治寮六十年史』)

1899年(明治32年)5月(狩野校長が赴任した翌年)の「寄宿寮記録」には次の記事がある。

若し新入生の入寮を自由にせば自治寮は合宿所と変じ去らんのみ 以て我寮生の目的たる校風の受取願ふべからざるなり 且つ本年新入生に向ては校長より入寮を入学の条件として入寮を迫る演説を乞はざるべからず、然るに校長の意見然らず、(…)此に委員四氏校長を問ひ(…)新入生を悉く入寮せしめざるべからざる所以を陳し将来に於て改善の方針をとる事を答へ以て嘆願し終に許可せらる
校長の狩野亨吉は、入寮を強制することに疑問を持っていたようであるが、寮の役員らは「自由に任せては寮は合宿所と変わらなくなってしまう」、「寮に入らなければ校風が伝わらない」ということで、全寮制の徹底を校長に迫ったのである。
なお、「校風」なるものについてはかねて議論が繰り返されていたが、おおむね「尚武ー元気ー運動ー団結」といった理解がされていた。(『六十年史』)

岡田や鳩山一郎が一高に入学したのは、まさに全寮制が確立するこの時期であった。
鳩山の回想(前出)によれば、「全寮制は感性によくない」ということで入寮を断ったところ、先輩たちが騒ぎ出し、結局1、2か月寮に入ることで妥協したという。
「寄宿寮記録」にはこの件の直接の記事はない。ただし、翌1901年4月に次のような記事がある。

狩野校長は「新入生の通学を許すや否や」は舎監の判断によるべき、という意見であった。これは「昨年九月鳩山事件」の際に校長が約束した内容と矛盾していたため、寮の役員3名が校長を訪ねた。その結果、従来の慣例どおり、通学許可は舎監と委員が協議して決すること、校長は干渉しないことを確認した。

やはり「鳩山事件」は全寮制の根幹に関わるものであり、大きな波紋を呼んだことがうかがえる。
また、親友の鳩山が入寮を拒否し、先輩たちに責められていたとき、岡田はどうしていたのだろうか、といった疑問も浮かんでくるのである。
(狩野の日記が駒場図書館にあるらしいので、機会があれば見ておきたい。残念ながら1900年の分は欠けているようだが。)

|

« OSN115一高画学会 | トップページ | 中村春二像 »

コメント

「校友会雑誌」104号によると、校則の寄宿寮規則が1901年(明治34年)1月に改正されたが、新たな規則が適用されるのは「明治三十四年以後の入学者」で、在学生には従来の規則が適用されるとのこと。

つまり、岡田・鳩山の学年までは従来通り「一学年間入寮すべきものとす」という扱いになり、2年生以降の通学は随意となったようです。

そうなると、岡田もおそらく2年生以降は通学を選択したのでは…、と想像されます。

記事では「濫りに新令の圏外に立つを以て通学の特権を得たりと称」してはいけない、と戒めています。

投稿: 岡田ファン | 2016.05.29 01:01

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« OSN115一高画学会 | トップページ | 中村春二像 »