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2016.05.22

OSN115一高画学会

洋画家・三宅克己の回想によれば、第一高等学校時代の岡田信一郎が絵画サークルに入っていたという。以前の記事にも記したが、高校時代の岡田についてはエピソードが少なく、貴重な証言である。内容を検証してみたい。

三宅の『思ひ出つるまゝ』(1938年)に、明治30年代に一高画学会を指導していたことが書いてある。
発端は当時、大学生だった中村春二(成蹊学園の創立者)である。学生時代の中村は、雑誌などに投稿し、原稿料を稼いでは、よく旅行をしていた。絵が趣味で、三宅とは親しくしていた(三宅の方が3年上)。

中村先生は、休日などに水彩画の写生道具を携帯され、私と好く郊外に写生に行かれた。某日高等学校の学生を大勢引率して来られたが、それが動機となり私が高等学校の画学会に関係するやうになつた。私の以前に藤島武二先生が指導されて居られたさうだ(…)。日曜日や大祭日毎に弁当持参で、郊外に写生に行くのだが、田端辺の田圃中で終日茶一杯飲む所無く、湯茶の代りに一同農家の井戸の水を飲んで済して置くことも珍らしくなかつた。その頃の出席者は、今日では殆ど皆何々博士級の人ばかりである。上野の東京府美術館や歌舞伎座を設計した故岡田信一郎さんもその仲間の一人であつた。

中村春二は高等師範附属中学出身で、岡田の先輩にあたる。卒業後、長く同窓会幹事を務めており、後輩の間にも顔が広かった。
ここで少々脱線。岡田と同じ中学の1年下だった後藤慶二(建築家)が、中村と登山をした記録がある。中学5年の年(1900年)、後藤は、同級生の石黒忠篤、穂積重遠、加藤鉄之助、波多野義男、大学1年の中村とともに日光などを旅した。日程は7月26日から8月3日であった。中村の紀行文を復刻した『尾瀬、檜枝岐への山旅』(1973年)に同行者6人の写真が掲載されている。

画学会の話に戻る。一高の歴史を記した『向陵誌』(1913年版)に「一高画会のこと」という記事があるが、会の創立についてはあやふやである。

この会の始まりは(…)多分明治三十二三年のころからであらう(…)写生会に出かけたり、内々に品評会のやうなことをしてゐたのがこの会の起源である。そしてその時分には当時水彩画の普及に熱心であつた三宅克己氏やまたは今の文部省展覧会審査員の中澤弘光氏などを指導者と仰いでゐたのである。
活動が中断した時期もあったということで、記事の執筆者・久保正夫(当時3年生、高等師範附属中学出身)も、過去の経緯はよく知らなかったのである。

「明治三十二三年」と言えば、中村が一高を卒業したのが1899年(明治32年)7月、岡田が入学するのは翌1900年9月だが、この頃の三宅は信州の小諸に住んでいた。東京に戻るのは1900年12月である。
中村が高校生を三宅に引き合わせた、というのはそれ以降のことであろう。

その頃の会員の1人に藤懸静也(美術史家)がいる。もともと絵が好きで、川端玉章に学んでいた。高校時代のことを自伝の中で少しだけ言及している(『藤懸静也 作画著述目録 自叙伝』1951年)。

当時一高に画学会といふのがあつて、フランスから帰られた若い三宅克己先生や、中澤弘光先生に水彩画や油絵をならつた。
藤懸は岡田と同時期の入学だが、自分以外の会員について全くふれていないのは残念である。

岡田が卒業した後では、太田正雄(作家木下杢太郎)、児島喜久雄(美術史家)、金森徳次郎(法制局長官等を歴任)らが、画学会に参加している。
ただし、画学会と岡田の関係にふれた史料は、今のところ三宅の回想以外には見当たらない。引続き調べてみたい。

(年代の整理)

1898年10月 三宅、外遊から帰国。(前年6月に出発、主にアメリカの美術学校で学び、ロンドン、パリ、ブリュッセルを回る)
1899年7月 中村、一高を卒業。三宅とともに信州へ旅行。
1899年9月 三宅が結婚、小諸に転居。
1900年3月 岡田が中学を卒業。
1900年9月 岡田、藤懸が一高入学。
1900年12月 三宅、東京(淀橋町角筈)に転居。
1901年11月 三宅が2回目の外遊。主にロンドン、パリに滞在。1902年8月帰国。
1903年3月、『校友会雑誌』125号に画学会の紹介記事(T,A生)。本学期は月1回三宅とともに写生をしていると。
1903年7月 岡田、一高卒業。
1903年9月 太田正雄、一高入学。同級の内藤濯(仏文学者)は、太田が「当時水彩画で有名だった三宅克己を学校に引っぱってきて、一高絵画会というのをつくった」と回想している。(太田が会をつくったというのは不正確だが、当時は三宅が指導していたことになる。中澤が指導するようになるのはこの後か?)
1905年7月 藤懸、一高卒業。
1906年7月 太田、一高卒業。太田の卒業後は活動が停滞したようで、児島喜久雄の回想によると、写生会の参加者が児島、金森2人だけということも多かったという。
1910年1月 三宅、3回目の外遊。1911年3月帰国。
1911年7月、久保正夫、一高入学。
1912年2月、『校友会雑誌』212号に一高画会展覧会の紹介記事(山宮允)。その中で1年前に会の活動が復活したこと、大下藤次郎の指導を受けていたこと、大下が急逝し、(再び)三宅に指導を依頼したことが書かれている。

(『向陵誌』に、三宅の外遊中、「白馬会の高木誠一氏が来られたこともあつたといふ」とあるのは、3回目の外遊の時か?)

参考文献は前掲書のほかに、『人間中村春二』、『三宅克己回顧展』、『木下杢太郎』、『木下杢太郎全集』第7巻月報など。

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コメント

画学会の設立は明治32、3年頃、という向陵誌の記述をうのみにしてましたが、明治26年12月の校友会雑誌に画学会の記事が載っていました。
この辺りは訂正します。

投稿: 岡田ファン | 2016.08.07 23:44

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