« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月の7件の記事

2016.05.31

成蹊大学

Seikeip1190400成蹊大学本館は、成蹊高等学校(旧制)の本館として建てられたもので、設計は三菱地所(桜井小太郎)です。
三菱財閥の岩崎小弥太が、学園創立者・中村春二の学校経営を支援していました。
竣工は1924年(大正13年)10月で、中村は竣工を待たずに亡くなっています。

Seikeip1190397
同時期に建てられた体育館は、アメリカ・オハイオ州のトラスコン社から輸入した鉄骨材で造られており、学生から「トラスコン」の愛称で親しまれてきたそうです。
現在では改修されて、カフェテリア「トラスコンガーデン」になっています。

| | コメント (0)

2016.05.29

中村春二像

Seikeip1190391
成蹊大学構内に創立者・中村春二の銅像(北村西望)があります。

中村は1924年2月(関東大震災の翌年)に急逝しますが、十三回忌の1936年に建てられました。

(ふと思い付きましたが、東京芸術大学構内にある久米桂一郎像の台座に似ている気がします。同じ1936年建立で、北村西望作です。)

| | コメント (0)

2016.05.24

OSN116第一高等学校の寮(続)

以前の記事で、一高時代の岡田が「自治寮に入ったかどうかが謎」と書いたが、関連史料が見つかった。

当時の寮役員が記した「寄宿寮記録」(1900年3月-1901年5月)である(駒場博物館所蔵)。ここに岡田の名が2回登場する。

(明治三十四年一月)二十二日 通学委員会を開く(…)
西寮六番岡田信一郎通学願の件 理由不完全なりし為許可せざると決す

(同年)二月十二日 委員会(…)
西寮六番 岡田信一郎 今学期間の下宿を許すこと

岡田が入学するのは1900年(明治33年)9月だから、入学から4、5か月経った頃の記事である。
これにより、岡田が西寮六番に入っていたこと、通学願を2回出してようやく許されたことが判明した。
岡田が通学願を出した理由は記されていない。「下宿」(?)が許されたのは「今学期間」(3月末まで)だが、その後は順当に寮へ戻ったのだろうか。記録の残る時期は限られており、なお疑問が残る。今後の課題である。

ここで当時の寄宿寮について補足しておく。(第一高等学校ホームページが参考になる)

一高には1890年(明治23年)に寄宿寮が設けられ、当初から学生による自治制をとっていた。全寮制が確立するのは10年後の1900年である。9月に新らしい中寮・南寮・北寮が竣工し、東寮・西寮と合わせて5つの寮が揃った。まもなく寮規程も改正され、従来は「新入学生は(…)一学年間入寮すべきものとす」とされていたのが、「本校学生は在学中寄宿寮に入寮すべきものとす」と明記された。原則として全学生が寮に入ることになったのである。(『第一高等学校自治寮六十年史』)

1899年(明治32年)5月(狩野校長が赴任した翌年)の「寄宿寮記録」には次の記事がある。

若し新入生の入寮を自由にせば自治寮は合宿所と変じ去らんのみ 以て我寮生の目的たる校風の受取願ふべからざるなり 且つ本年新入生に向ては校長より入寮を入学の条件として入寮を迫る演説を乞はざるべからず、然るに校長の意見然らず、(…)此に委員四氏校長を問ひ(…)新入生を悉く入寮せしめざるべからざる所以を陳し将来に於て改善の方針をとる事を答へ以て嘆願し終に許可せらる
校長の狩野亨吉は、入寮を強制することに疑問を持っていたようであるが、寮の役員らは「自由に任せては寮は合宿所と変わらなくなってしまう」、「寮に入らなければ校風が伝わらない」ということで、全寮制の徹底を校長に迫ったのである。
なお、「校風」なるものについてはかねて議論が繰り返されていたが、おおむね「尚武ー元気ー運動ー団結」といった理解がされていた。(『六十年史』)

岡田や鳩山一郎が一高に入学したのは、まさに全寮制が確立するこの時期であった。
鳩山の回想(前出)によれば、「全寮制は感性によくない」ということで入寮を断ったところ、先輩たちが騒ぎ出し、結局1、2か月寮に入ることで妥協したという。
「寄宿寮記録」にはこの件の直接の記事はない。ただし、翌1901年4月に次のような記事がある。

狩野校長は「新入生の通学を許すや否や」は舎監の判断によるべき、という意見であった。これは「昨年九月鳩山事件」の際に校長が約束した内容と矛盾していたため、寮の役員3名が校長を訪ねた。その結果、従来の慣例どおり、通学許可は舎監と委員が協議して決すること、校長は干渉しないことを確認した。

やはり「鳩山事件」は全寮制の根幹に関わるものであり、大きな波紋を呼んだことがうかがえる。
また、親友の鳩山が入寮を拒否し、先輩たちに責められていたとき、岡田はどうしていたのだろうか、といった疑問も浮かんでくるのである。
(狩野の日記が駒場図書館にあるらしいので、機会があれば見ておきたい。残念ながら1900年の分は欠けているようだが。)

| | コメント (1)

2016.05.22

OSN115一高画学会

洋画家・三宅克己の回想によれば、第一高等学校時代の岡田信一郎が絵画サークルに入っていたという。以前の記事にも記したが、高校時代の岡田についてはエピソードが少なく、貴重な証言である。内容を検証してみたい。

三宅の『思ひ出つるまゝ』(1938年)に、明治30年代に一高画学会を指導していたことが書いてある。
発端は当時、大学生だった中村春二(成蹊学園の創立者)である。学生時代の中村は、雑誌などに投稿し、原稿料を稼いでは、よく旅行をしていた。絵が趣味で、三宅とは親しくしていた(三宅の方が3年上)。

中村先生は、休日などに水彩画の写生道具を携帯され、私と好く郊外に写生に行かれた。某日高等学校の学生を大勢引率して来られたが、それが動機となり私が高等学校の画学会に関係するやうになつた。私の以前に藤島武二先生が指導されて居られたさうだ(…)。日曜日や大祭日毎に弁当持参で、郊外に写生に行くのだが、田端辺の田圃中で終日茶一杯飲む所無く、湯茶の代りに一同農家の井戸の水を飲んで済して置くことも珍らしくなかつた。その頃の出席者は、今日では殆ど皆何々博士級の人ばかりである。上野の東京府美術館や歌舞伎座を設計した故岡田信一郎さんもその仲間の一人であつた。

中村春二は高等師範附属中学出身で、岡田の先輩にあたる。卒業後、長く同窓会幹事を務めており、後輩の間にも顔が広かった。
ここで少々脱線。岡田と同じ中学の1年下だった後藤慶二(建築家)が、中村と登山をした記録がある。中学5年の年(1900年)、後藤は、同級生の石黒忠篤、穂積重遠、加藤鉄之助、波多野義男、大学1年の中村とともに日光などを旅した。日程は7月26日から8月3日であった。中村の紀行文を復刻した『尾瀬、檜枝岐への山旅』(1973年)に同行者6人の写真が掲載されている。

画学会の話に戻る。一高の歴史を記した『向陵誌』(1913年版)に「一高画会のこと」という記事があるが、会の創立についてはあやふやである。

この会の始まりは(…)多分明治三十二三年のころからであらう(…)写生会に出かけたり、内々に品評会のやうなことをしてゐたのがこの会の起源である。そしてその時分には当時水彩画の普及に熱心であつた三宅克己氏やまたは今の文部省展覧会審査員の中澤弘光氏などを指導者と仰いでゐたのである。
活動が中断した時期もあったということで、記事の執筆者・久保正夫(当時3年生、高等師範附属中学出身)も、過去の経緯はよく知らなかったのである。

「明治三十二三年」と言えば、中村が一高を卒業したのが1899年(明治32年)7月、岡田が入学するのは翌1900年9月だが、この頃の三宅は信州の小諸に住んでいた。東京に戻るのは1900年12月である。
中村が高校生を三宅に引き合わせた、というのはそれ以降のことであろう。

その頃の会員の1人に藤懸静也(美術史家)がいる。もともと絵が好きで、川端玉章に学んでいた。高校時代のことを自伝の中で少しだけ言及している(『藤懸静也 作画著述目録 自叙伝』1951年)。

当時一高に画学会といふのがあつて、フランスから帰られた若い三宅克己先生や、中澤弘光先生に水彩画や油絵をならつた。
藤懸は岡田と同時期の入学だが、自分以外の会員について全くふれていないのは残念である。

岡田が卒業した後では、太田正雄(作家木下杢太郎)、児島喜久雄(美術史家)、金森徳次郎(法制局長官等を歴任)らが、画学会に参加している。
ただし、画学会と岡田の関係にふれた史料は、今のところ三宅の回想以外には見当たらない。引続き調べてみたい。

続きを読む "OSN115一高画学会"

| | コメント (2)

2016.05.21

弓町本郷教会

Hongop1190130
本郷2丁目にある教会です。早稲田出身の建築家・中村鎮の設計で、竣工は1927年。
鎮ブロックの構造で、シンプルながら味のある外観。ステンドグラスも美しく、今後も長く残してほしい建物です。
Hongop1190133
以前から気になっているのは、礼拝堂を2階にして、1階に事務室等を置くプランです。建替え前の信濃町教会(1930年、岡田信一郎)もこのタイプですが、もしかすると、大阪教会(1922年、ヴォーリズ)あたりを参考にしているのでしょうか。気になりつつも、未だ調べていません。

| | コメント (0)

2016.05.15

朝陽館

Choyop1190119
本郷の旅館・朝陽館が取り壊されるというので、見てきました。訪問したとき(5月1日)はまだ荷物を搬出しているようでした。

跡地には高層マンションが建つそうです。

| | コメント (0)

2016.05.14

旧加藤薬局

Katoup1190109
本郷二丁目の旧加藤薬局は、テレビドラマのロケ地として一部で知られている建物です。
久々に見に行くと、改修されて一般住宅になっていました。
レトロ感はなくなりましたが、大事に使われていることと感じ入りました。

確か福山雅治と常盤貴子が住むアパートという設定でしたが、ストーリーもタイトルも記憶にありません。
検索したところ1998年のドラマ「めぐり逢い」でした。ずいぶん時間が経ってしまったものです…。

リンク:全国ロケ地ガイド

| | コメント (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »