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2015.07.12

OSN113島村抱月

1910年(明治43年)2月、評論家の島村抱月が療養のため小田原に転地した。そのとき岡田も同地で療養していた。岡田が日英博覧会で外遊する機会を逃した後のことである(岡田と洋行参照)。

島村は早稲田大学(当時は東京専門学校)の派遣で、1902-1905年にロンドン、ベルリンに留学し、英文学、美学などを学んだ。帰国後、早稲田大学文学科講師となる。1906年1月から「早稲田文学」(第2次)を主宰し、東西の文芸を論じた。「早稲田文学」は当時の自然主義文学の拠点となった。
1909年暮れ、島村は「早稲田文学」新年号のためにイブセン作「人形の家」を翻訳し、徹夜を重ねた。この無理がたたって肋膜炎となり、病後を小田原で過ごすことにした。
転地をしたのは1910年2月とみられる(「早稲田文学」1910.3)。

教え子で、「早稲田文学」の編集を担当していた相馬御風の回想を引用する。

小田原への転地療養は先生[=島村]にとりては、久しぶりでの孤独閑寂な生活で、一時はひどく心淋しく感じられたらしかつたが、丁度その頃建築学者の岡田信一郎氏がやはり転地療養をして居られたり、画家の正宗得三郎君も先生が行かれてから間もなく写生旅行に出かけたり、東京の誰彼もつぎつぎ先生を見舞かたがた遊びに行つたりすると云ふ風で、先生もいつと云ふことなしにその土地に慣れられたらしく見えた。(「早稲田文学」1918.12)
島村は留学先で手に入れたカメラでひまつぶしに撮影をしていた、という話もあり、のんびりした日々だったようだ。正宗得三郎は早稲田出身の作家、正宗白鳥の弟である。得三郎も「早稲田文学」に展覧会評を書いているから、島村とは親しくしていたのだろう。この年、5月の個展に「小田原海岸」という作品を出展している。

数年後に、岡田が同じ小田原で執筆した「湘南より」(建築画報1915.2)には、「小田原は五年前やはり静養に数ヶ月を送つた故地である」という一文がある。5年前といえば、ちょうど島村が療養した時期(1910年)に符合する。
(島村は岡田の12年上になる。早稲田に建築学科が置かれるのはこれより後であり、岡田はまだ早稲田の教員になっていない)

相馬の書き方では、岡田の方が先に小田原にいたようにとれる。留学帰りの島村と、外遊の機会を逃して失意の岡田が、どのような話をしていたのか、いろいろと想像してしまう。

東京に戻った時期は明確でないが、岡田は4月4日の建築学会役員会に出席しており、島村は4月22日に坪内逍遥邸を訪れ、5月2日に東京座で上演された劇(「牧師の家」)を見ている。ひとまず、岡田は3月下旬、島村は4月中旬、東京に戻ったと推測しておく。
Teigeki
復帰した島村は早稲田大学の講義や執筆など多忙な中、文芸協会の演劇研究所の育成に努めた。
翌1911年の11月、帝国劇場でイプセンの「人形の家」を上演した。主人公ノラを演じ、一躍有名になったのが、研究所1期生の松井須磨子である。
「人形の家」の舞台装置は岡田信一郎と和田英作、北蓮蔵が担当したという(「坪内逍遥事典」)。和田は美術学校教授。帝劇の天井画と壁画を担当しており、帝劇の顧問だったようである。当時の北は、帝劇の背景主任。
岡田が舞台装置を担当したのは、島村、あるいは和田の依頼によるものだろう。

その後、島村と須磨子の恋愛スキャンダルが起こる。島村は文芸協会を辞めることになり、須磨子とともに芸術座を旗揚げした。
今和次郎は、芸術座の舞台装置の手伝いをした。作品は「メーテルリンクのもので、イタリーの宮殿」が舞台だったという(建築雑誌1932.5)。第1回公演(1913年9月、有楽座)で上演された「モンナ・ヷンナ」であろう。
今は岡田の教え子(美術学校卒)で、当時は早稲田大学建築学科の助手。
岡田の紹介で手伝うことになった可能性も考えたのだが、建築学科主任の佐藤功一が、芸術座劇場の計画に関わっていたことによるらしい。

島村は1918年11月、スペイン風邪により急逝した。もともと須磨子が風邪をひき、島村にうつしてしまったらしい。須磨子は翌年、島村の後を追って自殺した。
女性スキャンダル(?)や勤務先(早稲田大学)、病弱だったことなど、岡田と島村には共通する点がある。

(画像は「帝国劇場写真帖」より)

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