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2015年7月の10件の記事

2015.07.30

明治生命館の記録

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久々に明治生命館を見学しました。
2階の資料展示室では、以前から工事中(昭和初期)の記録映像を紹介していましたが、映像が長編化(30分)されていました。

以前あった三菱二号館の取壊し(1930年)から、地鎮祭、基礎工事、鉄骨の組立、石材の据付、定礎式を経て、完成(1934年)までを記録しています。
まだ人力でやっている作業も多いのですが、機械の導入も進んでおり、当時の建設工事の実態を伝える貴重な資料ではないかと思いました。
岡田信一郎や曽禰達蔵らしき人物も写ってますが、よくわからない点も多いので、できれば解説が付いて、映像も見やすくなることを(気長に)期待しています。

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2015.07.29

河鍋暁斎展

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三菱一号館美術館の「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」を見てきました(9月6日まで)。
公式サイト

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コンドルとの関係を示す絵日記や、暁斎の描いた春画もあり、興味深く見ました。

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2015.07.19

OSN114堀切善次郎

以前の記事で、神奈川県庁舎の設計に岡田信一郎が関わっていたことを書いた。
当初の案では塔がなく、岡田の提案により中央に高い塔を置くようになったというが、不明な点も多い。これに関わる資料を見つけたので紹介したい。

県庁舎の計画から完成までの間に、県知事は2回替わった。1925年、清野長太郎知事のときに設計が始まるが、同年9月、清野は復興局長官に転じ、堀切善次郎が知事になった。翌年3月、設計コンペが実施され、6月に当選案が決定。9月に清野長官が病気で亡くなり、堀切がその後任になったため、池田宏が知事に就任。12月に地鎮祭が行われた。2年近くの工事を経て、1928年11月、開庁式が行われた。
堀切知事の時代は約1年と短いが、設計コンペの開催、設計案の決定という重要な時期にあたる。

40年近く後の1963年、堀切の談話を内政史研究会が記録した(「現代史を語る」7所収)。ちなみに堀切は岡田の1歳下である。談話当時は80歳(数え)になる。

[内務省]土木局長から神奈川の知事に行きましたが、(…)いまの神奈川県庁を建てたのがこのときの私の案なのです。(…)前の知事の清野(長太郎)さんから引継ぎをうけたのでは、(…)岡田信一郎 この技師にすっかりまかせて、その人に頼んであるからということでした。(…)どんな建物を建てるかその図面を書いてもってきてくれと、そういったら書いてきてくれたのですが、みな普通のコンクリートのマッチ箱式の何の趣味もない建物なのですね。これじゃ県庁の建物にあまり面白くないから、もう少し何か工夫して書いてくれといったら、また他に二枚か三枚もってきましたが、いずれもみなマッチ箱式のもので、どうも私は甚だ感心しない。
「マッチ箱式」の設計案に不満だった堀切は、佐野利器、内田祥三、大熊喜邦を知事官邸に招いた。そして、岡田の案には感心できないので懸賞募集にしたらどうか、と提案すると、皆が賛成したという。

懸賞募集に際して堀切は、「海のほうから外国船が入ってきたような場合でも、一見して直ちに県庁の建物だとわかるふうな設計にしてほしいという素人の条件をつけた」という。
高い塔を持つ庁舎ができたのは自分の指示によるものだという自慢話である。

堀切の記憶違いや誇張が含まれているかもしれないが、細部も具体的であり、岡田信一郎による当初の案が「マッチ箱式」のものであったこと、佐野・内田・大熊らを審査員に迎えて設計コンペを実施したことなど、おおむね事実に沿っている。

以前の記事にあった、「海港の玄関らしく」「(開港)記念会館を凌ぐ高塔」を設けるという構想は、やはり岡田の発案というよりも、堀切から出たものなのだろうか。
岡田ファンとしては、設計変更をめぐる堀切と岡田のやり取りについて、さらに詳しく知りたいところである。
当時の日記等が残っていればいいのだが、堀切の自宅は戦災にあっており、文書は残っていないという。

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2015.07.18

鎌倉栄光教会

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古我邸の近くに鎌倉栄光教会があります。
既に他のブログでも指摘されていますが、玄関付近などは教会というより、洋風住宅の造りのように見えます。小さなステンドグラスがあって、目を引きます。
もともとは住宅として建てられ、後から礼拝堂部分が増築されたのかもしれません。
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2015.07.15

御成小学校

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鎌倉の御成小学校旧講堂について、撤去の話が出ているそうです。
報道によれば、「老朽化に加え、屋根材にアスベストが含まれていることが市の調査で判明。市は撤去か保存かの方向性を、夏休みが始まる7月下旬までに決めることにしている」とのことです。
(6月23日産経ニュース

敷地内の旧鎌倉図書館の行方と会わせて、心配なところです。

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2015.07.14

旧安保小児科医院

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とんがり屋根が特徴的な旧安保小児科医院。
鎌倉風致保存会の事務所として使われていましたが、昨年暮れに移転しており、現在は空き家のようです。
今後の活用計画があるのか、気になります。

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2015.07.13

古我邸

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4月にオープンした鎌倉の邸宅レストラン「古我邸」を見てきました。鎌倉駅に近く、山が迫っている小高い場所に建つ木造の西洋館です。
公式サイト

1916年(大正5年)、桜井小太郎の設計により、荘清次郎の別邸として建てられました。外観は変化に富んでいますが、内部は装飾もほとんどなく、意外に簡素な感じです。

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奥の庭でコーヒー(300円)をいただきました(結婚式で貸切の場合もあり?)。
散策の途中で立ち寄ってみたい場所です。

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2015.07.12

OSN113島村抱月

1910年(明治43年)2月、評論家の島村抱月が療養のため小田原に転地した。そのとき岡田も同地で療養していた。岡田が日英博覧会で外遊する機会を逃した後のことである(岡田と洋行参照)。

島村は早稲田大学(当時は東京専門学校)の派遣で、1902-1905年にロンドン、ベルリンに留学し、英文学、美学などを学んだ。帰国後、早稲田大学文学科講師となる。1906年1月から「早稲田文学」(第2次)を主宰し、東西の文芸を論じた。「早稲田文学」は当時の自然主義文学の拠点となった。
1909年暮れ、島村は「早稲田文学」新年号のためにイブセン作「人形の家」を翻訳し、徹夜を重ねた。この無理がたたって肋膜炎となり、病後を小田原で過ごすことにした。
転地をしたのは1910年2月とみられる(「早稲田文学」1910.3)。

教え子で、「早稲田文学」の編集を担当していた相馬御風の回想を引用する。

小田原への転地療養は先生[=島村]にとりては、久しぶりでの孤独閑寂な生活で、一時はひどく心淋しく感じられたらしかつたが、丁度その頃建築学者の岡田信一郎氏がやはり転地療養をして居られたり、画家の正宗得三郎君も先生が行かれてから間もなく写生旅行に出かけたり、東京の誰彼もつぎつぎ先生を見舞かたがた遊びに行つたりすると云ふ風で、先生もいつと云ふことなしにその土地に慣れられたらしく見えた。(「早稲田文学」1918.12)
島村は留学先で手に入れたカメラでひまつぶしに撮影をしていた、という話もあり、のんびりした日々だったようだ。正宗得三郎は早稲田出身の作家、正宗白鳥の弟である。得三郎も「早稲田文学」に展覧会評を書いているから、島村とは親しくしていたのだろう。この年、5月の個展に「小田原海岸」という作品を出展している。

数年後に、岡田が同じ小田原で執筆した「湘南より」(建築画報1915.2)には、「小田原は五年前やはり静養に数ヶ月を送つた故地である」という一文がある。5年前といえば、ちょうど島村が療養した時期(1910年)に符合する。
(島村は岡田の12年上になる。早稲田に建築学科が置かれるのはこれより後であり、岡田はまだ早稲田の教員になっていない)

相馬の書き方では、岡田の方が先に小田原にいたようにとれる。留学帰りの島村と、外遊の機会を逃して失意の岡田が、どのような話をしていたのか、いろいろと想像してしまう。

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2015.07.07

久保邸跡(南烏山)

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世田谷文学館の隣りに由緒のありそうな門、塀が残っています。
現在は高齢者の施設(芦花翠風邸)になっていますが、もとは大邸宅が建っていたらしく、ツタに覆われた煉瓦造の蔵もありました。

検索してみると、6年ほど前まで、ウテナの創業者・久保政吉氏の邸宅があったそうです。
(画像は2015年5月撮影)
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2015.07.05

佐藤武夫自邸

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電車の窓から見える洋館が以前から気になっていました。

雑誌「新建築」(1931.5)掲載の佐藤武夫邸に似ているな、と思って調べてみると、所有者は変わっていますが、地番が一致しており、やはりそうかも…。

佐藤武夫は早稲田大学教授。建築音響学で知られ、戦前の仕事として大隈講堂や岩国徴古館などが知られています。戦後は設計事務所を開設し、各地に多くの作品を残しました。

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自邸は1930年2月竣工。箱根土地が分譲した近郊の住宅地にありました。
佐藤の生涯を描いた「ロマンティストたちの家」によると、空襲で屋根を破損し、戦後の改修工事で屋根裏部屋を設計事務所にしたそうです。
(画像は2014年6月撮影)

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