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2015.06.16

OSN110ワグナー十年祭

「ワグナー十年祭」については、勝原基貴氏・大川三雄氏の論文「岸田日出刀著『オットー・ワグナー』の出版経緯とその意義について」(2013年)に記述がある。PDFリンク
以下の一文は同論文に負うところが大きい。
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1928年(昭和3年)、オットー・ワグナーの没後10周年を機に「ワグナー十年祭」として記念講演会が開催された(画像は会場になった国民新聞社)。分離派建築会の石本喜久治が司会を務め、滝沢真弓、岸田日出刀、伊東忠太が講演を行った。
岡田信一郎も当日は講演の予定だったが、病気のため登壇はできなかった。

この催しは岡田と石本の関わりから始まったもので、岸田日出刀の評伝『オットー・ワグナー』(1927年)の刊行をきっかけに、岡田が石本に懇談会の開催を持ちかけたという。
ここで岡田、石本、岸田とワグナーの関わりを振り返っておく。

明治末年から大正初めにかけて装飾の分野で「セセッション」が流行していた。岡田はワグナーに注目し、1914年(大正3年)秋に「セセッション建築の泰斗オットー・ワグネル」を公表している(学生1914.9)。岡田のワグナー論は、菊池重郎氏(博物館明治村)が評価しているように、先駆的な研究であった(「岡田信一郎とゼシェッシオンとオットー・ワグナー」)。

その後、1918年4月11日に、ワグナーが亡くなったが、岡田がそのことに言及した様子はない。

1918年4月といえば、ちょうど都市計画・建築法規の制定問題であわただしい動きがあった時期である。建築学会などの運動が功を奏し、内務省に都市計画調査会が設置されることになった(都市計画法等の制定まで参照)。
また、4月27日・28日に開催された建築学会大会は、「都市計画」がテーマだった。岡田は27日に「都市における住居問題」の講演を行ったが、「病躯を運んで壇上の人となられ候」(「関西建築協会雑誌」)という記事もあり、病気をおしての講演だったらしい。
建築学会の活動や病気のため、ワグナーについて書く機会を逸したのではないか、と筆者(私)は想像する。
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岡田はもっぱら文献からのアプローチだったが、石本喜久治は実際にワグナーの作品にふれている。
1920年、東大建築学科を卒業した石本は竹中工務店に入社。1922年から翌年にかけて、自費で欧州に出かけ、ドイツを中心に建築作品を見て回った。帰国後に刊行した『建築譜』(1924年)の中で、シュタインホフ教会について「郊外steinhofの丘 遥かに金のドームを望んだときのわが胸のとゞろきは今なほ忘れることが出来ない」と記している。
ワグナー作品に感銘を受けた石本は、ワグナーの伝記を書くことを考えたが、まとめることはできなかった。実際の設計活動に忙しくなったためでもあろう。
竹中工務店設計・施工による有楽町の朝日新聞社は1925年3月に地鎮祭を行い、1927年3月に竣工した。設計を担当したのは石本で、船舶を思わせる表現主義的な造形と、最新式の設備で注目された。

岸田日出刀(東大助教授)は石本の2学年下にあたる。岸田は約1年の外遊(1925-1926年)を経て、1927年12月に『オットー・ワグナー』を刊行した。石本は同書のために、シュタインホフ教会の写真を提供している。
翌年3月、石本は朝日新聞に書評を寄せている(「今更にワグナーを憶ふ」1928.3.16)。この中で、4月12日(?)がワグナーの十周忌にあたる、と強調している。
岡田信一郎は、おそらくこの書評を読んで、石本に声をかけたのであろう。

岡田は石本に、「若い者がお茶でものみながら談話会でも催してはどうか」と提案したという。石本は分離派建築会に諮ったが、規模が広がり講演会を開催することになった(建築新潮1928.6)。
講演会は4月28日、国民新聞社講堂で行われた。国民新聞社は岡田の設計により1926年に竣工している。講演会場は岡田が手配したのかもしれない。「国民新聞」は、講演会の前後に関連記事を大きく取り上げている(4.26、4.28、4.29)。
東大、早稲田、美術学校、高等工業の学生が運営を手伝い、講演会は盛況であった。

ところで、前年に竣工したばかりの朝日新聞社の講堂でなく、国民新聞社を会場にしたのはなぜだろうか。会場が空いていなかったのか、使用料金の関係か、収容人数の関係か…。
岡田の国民新聞社は古典主義系、石本の朝日新聞社は表現主義的と、対照的な様式であり、新旧世代対決の趣きもあるだけに、余計なことが気にかかる。

(以前の関連記事:オットー・ワーグナー

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コメント

1918年4月にワグナーが亡くなったときの件。
考えてみると第一次世界大戦の終盤ですので、ヨーロッパから日本への情報が遅れていた、という事情があったのかもしれません。調べてみます。

投稿: 岡田ファン | 2017.03.07 01:02

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