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2015年6月の5件の記事

2015.06.24

OSN112近代建築史

四天王寺の復興などで知られる建築史家・藤島亥治郎は、岡田信一郎の建築史研究を高く評価していた。

藤島は1923年(大正12年)に東大建築学科を卒業後、京城高等工業学校の助教授に就任した。同校の講師に美術学校出身の土井軍治(1921年卒)がおり、岡田が講義した近代建築史のノートを持っていた。当時、近代建築史のまとまった著作はほとんどなく、藤島は土井からノートを借りて勉強した。その内容は「やっぱり十九世紀が主であって、それに新しいワグナーの動きなどに次の重点を置き、セセッションの運動からだいたい第一次大戦ぐらいのところまで」だったという。(佐々木宏『近代建築の目撃者』)
Wagner
藤島は「岡田さんの『近代建築史』のノート(略)の影響は大きく、私の『近代建築史』は、それが元になっています」とも言っている。藤島は1926-1928年に欧州に外遊し、実際に見てきた近代建築運動の状況をまとめ、(東大で)講義を行いたいと熱望したが、かなわなかったという。(『田中一対談集 建築縦走』)

(藤島の言う「近代建築史」は『建築と文化』(1941)所収の「建築の意匠」のことだろうか。西洋建築史の流れを簡潔に記し、折衷主義やワグナー、ベーレンス、コルビュジエなどにふれている。)

土井と同年に美術学校を卒業した水谷武彦は、やはり岡田の講義で「新建築運動」の話を聞いたようだが(建築雑誌1932.5)、詳しいことはわからない。早稲田大学では1922年に「近代建築及評論」を担当した記録があるが(『早稲田大学百年史』別巻2)、具体的な内容は不明である。

1918年(大正7年)に行われた建築学会第1回講習会(10月14日-11月2日、会場文科大学)の中で、岡田は「最近建築史」を担当している。要旨が「建築雑誌」383号に紹介されているので引用する。

岡田講師は「最近建築史」に就て述べられ、第一講十九世紀の建築史に於て之をクラシッシズム、ロマンテシズム、レネサンシズム、ラヨシナリズム[ママ]の四期に区分し各期建築の特質を明かにし、代表的作物の作者及年代表を頒ち、第二講最近建築の素因及影響に於て、科学、時代思潮経済状態、交通、建築目的、材料構造、生活状態、他美術及美術工芸等の発達、変化、改良影響の七因を掲げて其の果を説き、第三講白耳義仏蘭西の新建築に於て、ヴァン・デ・ベルト氏の新建築及ヌーボー建築の起因性質及その影響を説き、第四講墺地利のセセッションに於て、オットー・ワグナー氏の建築及其の感化よりセセッショニストの建築に言及し、第五講独逸の新建築に入り講師寒冒に犯され、第六講英米の新建築と共に遂に開期中聴くを得ず、頒けられたる図集二十六葉百四図は述上各期各様式の代表作物を網羅し、得難き最近建築図集なり。[※下線は引用者]
この中に岡田の近代建築史の構想がある程度はうかがえる(内容の説明は長くなるので、別ページに記す)。

岡田の講義は4回(6時間)行われ、聴講者は279名だったという。かなりの人数が講義を聴いていたのである。(「寒冒」というのは当時流行していたスペイン風邪ではなかったか、と気になる)

講義のあった1918年は、後の分離派建築会メンバー(石本、山田守、堀口捨巳ら)が建築学科2年の頃である。伊東忠太の建築史講義で近代の建築運動はセセッションに始まると聞いたことが、分離派建築会の名の由来になったと言われるが(長谷川尭「日本の表現派」1968年)、もしかすると岡田からの影響も少しはあったのでは…と想像してしまう。
(画像は Lux"Otto Wagner"より)

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2015.06.20

OSN111アルス建築大講座

ワグナー十年祭」(前項)と前後して、岡田は論文の締切に追われていた。
当時、叢書『アルス建築大講座』(アルス社、1926-1929年)が刊行中であった。当初は月1回の刊行、全12巻で完結の予定だったが、刊行は遅れて4年越しとなり、全17巻に追補巻を加えて完結となった。
この中で岡田は「近代建築」を、石本喜久治は「最近建築様式論」を担当することになっていた。

岡田の病気のため「近代建築」の執筆は遅れており、アルス社の編集担当も苦慮したことだろう。『大講座』の第12巻(1927.12)、第13巻(1928.2)巻末の編集後記には、第15巻までに「近代建築」を完結させる旨の記述がある。論文の材料はかなり集まっていたはずで、岡田も何とか完成させるつもりだったと思われる。
石本が朝日新聞にワグナーの記事(1928.3.16)を寄せたのは、ちょうどこの頃である。
岡田にとって、ワグナーの話題は大いに気になったのではないか。

岡田の「近代建築」は、結局公表されず、幻の論文に終わってしまった。岡田ファンとしては、「十年祭」で講演ができなかったこと(前項)、「近代建築」が刊行されなかったことは、何とも残念である。

ところで、「近代建築」と「最近建築様式論」は、どういう内容を予定していたのだろうか。

石本は1926年10月、京都市公会堂で「最新建築の様式の話」という講演を行っている。ルネサンス以降、コルビュジエまでを概観しているが、そこでは次のように説明している。

近代建築を普通に古典主義の建築、浪漫主義の建築、折衷主義の建築と斯う三つに分けて居ります。(…)
最近建築様式としましては機能主義的建築、構成主義的建築、表現主義的建築、さうして今後どう云ふ建築様式が産れて来るかと云ふ事になるのであります。[※下線は引用者]
「近代建築」の例に挙げられているのはマドレーヌ寺院(1842年)やオペラ座(1875年)等である。
石本の定義では、「近代建築」はほぼ19世紀建築にあたり、20世紀建築が「最近建築様式」になるのであろう。

もっとも、石本も「最新建築の様式の話」とうたいながら、19世紀建築からの流れで話を進めている。「近代建築」と「最近建築様式」の区分は自明なものではない。
前項で記したように、岡田、石本ともに、ワグナーには強い思い入れがあったから、両者ともワグナーを軸に論じる予定だったのではないかと想像している。

「近代建築」は未刊に終わったが、「最近建築様式論」の方は、石本と岡田孝男(京大建築学科在学)の共著として、『大講座』第16巻(1928.12)・第17巻(1929.5)に掲載された。
内容は19世紀建築からアーツ・アンド・クラフツ、セセッションを経て、構造主義、表現主義等の20世紀建築を論じ、F.L.ライトで締めくくっている。(ル・コルビュジエやミースには少しだけ言及している。)

岡田信一郎が論じるはずだった「近代建築」に代わって、19世紀建築やワグナー等に大きくページを割いているかのようでもある。

続きを読む "OSN111アルス建築大講座"

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2015.06.16

OSN110ワグナー十年祭

「ワグナー十年祭」については、勝原基貴氏・大川三雄氏の論文「岸田日出刀著『オットー・ワグナー』の出版経緯とその意義について」(2013年)に記述がある。PDFリンク
以下の一文は同論文に負うところが大きい。
Kokumin014
1928年(昭和3年)、オットー・ワグナーの没後10周年を機に「ワグナー十年祭」として記念講演会が開催された(画像は会場になった国民新聞社)。分離派建築会の石本喜久治が司会を務め、滝沢真弓、岸田日出刀、伊東忠太が講演を行った。
岡田信一郎も当日は講演の予定だったが、病気のため登壇はできなかった。

この催しは岡田と石本の関わりから始まったもので、岸田日出刀の評伝『オットー・ワグナー』(1927年)の刊行をきっかけに、岡田が石本に懇談会の開催を持ちかけたという。
ここで岡田、石本、岸田とワグナーの関わりを振り返っておく。

明治末年から大正初めにかけて装飾の分野で「セセッション」が流行していた。岡田はワグナーに注目し、1914年(大正3年)秋に「セセッション建築の泰斗オットー・ワグネル」を公表している(学生1914.9)。岡田のワグナー論は、菊池重郎氏(博物館明治村)が評価しているように、先駆的な研究であった(「岡田信一郎とゼシェッシオンとオットー・ワグナー」)。

その後、1918年4月11日に、ワグナーが亡くなったが、岡田がそのことに言及した様子はない。

1918年4月といえば、ちょうど都市計画・建築法規の制定問題であわただしい動きがあった時期である。建築学会などの運動が功を奏し、内務省に都市計画調査会が設置されることになった(都市計画法等の制定まで参照)。
また、4月27日・28日に開催された建築学会大会は、「都市計画」がテーマだった。岡田は27日に「都市における住居問題」の講演を行ったが、「病躯を運んで壇上の人となられ候」(「関西建築協会雑誌」)という記事もあり、病気をおしての講演だったらしい。
建築学会の活動や病気のため、ワグナーについて書く機会を逸したのではないか、と筆者(私)は想像する。
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岡田はもっぱら文献からのアプローチだったが、石本喜久治は実際にワグナーの作品にふれている。
1920年、東大建築学科を卒業した石本は竹中工務店に入社。1922年から翌年にかけて、自費で欧州に出かけ、ドイツを中心に建築作品を見て回った。帰国後に刊行した『建築譜』(1924年)の中で、シュタインホフ教会について「郊外steinhofの丘 遥かに金のドームを望んだときのわが胸のとゞろきは今なほ忘れることが出来ない」と記している。
ワグナー作品に感銘を受けた石本は、ワグナーの伝記を書くことを考えたが、まとめることはできなかった。実際の設計活動に忙しくなったためでもあろう。
竹中工務店設計・施工による有楽町の朝日新聞社は1925年3月に地鎮祭を行い、1927年3月に竣工した。設計を担当したのは石本で、船舶を思わせる表現主義的な造形と、最新式の設備で注目された。

岸田日出刀(東大助教授)は石本の2学年下にあたる。岸田は約1年の外遊(1925-1926年)を経て、1927年12月に『オットー・ワグナー』を刊行した。石本は同書のために、シュタインホフ教会の写真を提供している。
翌年3月、石本は朝日新聞に書評を寄せている(「今更にワグナーを憶ふ」1928.3.16)。この中で、4月12日(?)がワグナーの十周忌にあたる、と強調している。
岡田信一郎は、おそらくこの書評を読んで、石本に声をかけたのであろう。

岡田は石本に、「若い者がお茶でものみながら談話会でも催してはどうか」と提案したという。石本は分離派建築会に諮ったが、規模が広がり講演会を開催することになった(建築新潮1928.6)。
講演会は4月28日、国民新聞社講堂で行われた。国民新聞社は岡田の設計により1926年に竣工している。講演会場は岡田が手配したのかもしれない。「国民新聞」は、講演会の前後に関連記事を大きく取り上げている(4.26、4.28、4.29)。
東大、早稲田、美術学校、高等工業の学生が運営を手伝い、講演会は盛況であった。

ところで、前年に竣工したばかりの朝日新聞社の講堂でなく、国民新聞社を会場にしたのはなぜだろうか。会場が空いていなかったのか、使用料金の関係か、収容人数の関係か…。
岡田の国民新聞社は古典主義系、石本の朝日新聞社は表現主義的と、対照的な様式であり、新旧世代対決の趣きもあるだけに、余計なことが気にかかる。

(以前の関連記事:オットー・ワーグナー

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2015.06.15

アンギアーリの戦い展

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東京富士美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展を見てきました(8月9日まで)。
公式サイト

展示の中心になる「アンギアーリの戦い」はレオナルドの真作(壁画の下絵)では、とも言われてましたが、同時代に描かれた模写という説が有力なようです。
レオナルドの壁画自体は失われていますが、周辺の作品を集めて、レオナルドの絵画表現が後の画家に影響を与えた様子がわかりやすく展示されてました。芸大の先生が制作した「アンギアーリの戦い」の立体模型もよかったです。
レオナルドの戦闘画に対抗してミケランジェロが描いた「カッシナの戦い」の模写も出展されています。裸の男性群像というのが妙なところです。

美術館がこの絵をいくらで買ったのかわかりませんが、「貴族のドーリア家が所蔵していたが、ムソリーニの時代に破産すると、競売などを経て1941年にスイス人投資家に売却。ドイツ、米国、ドイツと渡り」、1992年に美術館が購入。2012年、イタリア政府に寄贈する代わりに、重要作品数点を2040年までに4回、無償で借りる協定を結んだ、ということです(2014.3.30朝日)。

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2015.06.08

東方学会(旧東京中学校)

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堀越三郎が設計したという東方学会(西神田2-4-1)を見に、神田へ行ってきました。

もとは東京中学校の校舎で、関東大震災後の1924年(大正13年)9月に本建築の許可を受け、1926年5月にほぼ完成。
生徒数が増えて手狭となり、1934年、中学校は大森区調布嶺町(大田区鵜の木)に移転し、併設されていた東京実業学校も1936年に蒲田駅近くへ移転。
建物は日華学会(中国からの留学生を支援する財団法人)に売却され、戦後、東方学会の所有になりました。

Tohop1160828
装飾はほとんどありませんが、正面入口のアーチが特徴的で、千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。内部は東方学会本部のほか、出版社等が入居しており、ちょっとレトロな雰囲気です。

このほか、堀越建築事務所の作品として、横浜の旧大宝堂時計店(今野アートサロン、中区太田町5丁目)、徳永ビル(港町4丁目)がありましたが、いずれも取壊しのようです。

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