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2015.04.16

OSN107曽禰達蔵の事務所

大学卒業後の岡田は、三菱社から独立したばかりの曽禰達蔵の事務所を手伝ったことがある。これは曽禰が追悼文で回想しているところである(建築雑誌1932.5、卒業後の状況の項でもふれた)。

余(注:曽禰)は同年(注:明治39年)の末、三菱を退社した。是より建築設計監督事務所を開設することゝして、先づ仮事務所を(略)九段中坂辺にて、或る家の二階の一室を借入れて之に充てた。(略)新設計の依頼を受け、手廻りかねて其或る部分を一二度岡田君に御手伝を煩はしたることもこともあつた。
1906年(明治39年)は岡田が大学を卒業した年である。曽禰は同年10月独立し、九段に曽禰建築事務所を開設。約1年後の1908年1月には、中條精一郎と共同で丸の内に設計事務所を開設するが、岡田が手伝ったのは、その間のことらしい。仕事もあまりなく、事務所員も少なかった。
1907年に秋田の工業学校を卒業した松淵清助が事務所に入所している。これは岡田の紹介によるものだという。(松淵は後に聖徳記念絵画館の設計コンペで4等2席に入選)
Osakaimg013
この時期に着工した曽禰作品に三菱合資会社大阪支店(1910年)がある。曽禰建築事務所で設計されたものだろうか(そうだとすれば、岡田が関与した可能性もありそうだが…)、ということで少し調べてみた。

この建物は煉瓦造2階建で今橋4丁目にあったが、1970年代に取り壊されたようだ。(画像は「近代大阪の建築」より)
「明治建築座談会」(建築雑誌1933.10)で示された資料によると、1907年5月21日起工、1910年12月20日竣工で、設計者は曽禰と保岡勝也(三菱社)の連名になっている。

同座談会での曽禰の発言によれば、三菱を退社する前に計画されたもので、曽禰と保岡がそれぞれ設計を行ったという。

会社ではプランは私(注:曽禰)の案を採用しエレヴェーションは保岡さんの案を採用したのであります。其の建築着手前に私は退社しましたから関係したと云ふも至つて薄い関係です。
この話しぶりでは、退社後の曽禰が積極的に関わったわけではなさそうである。従って岡田が関与した可能性は低いであろう。

このほか座談会では三菱十二号館、十三号館にもふれている。同じ1907年の起工で、曽禰が顧問を務めたとされるが、曽禰自身は「関係はない。全く保岡君の作であります。」と発言している。
「曽禰達蔵年譜」(「日本の建築 明治大正昭和」7所収)を見ると、やはり1907年9月に東京府から日本大博覧会工事計画調査委員を嘱託されているが、設計まで行ったのかどうか不明である。
この博覧会は1912年に開催予定であったが延期となり、結局中止になった。(外務省のサイト「博覧会の実施と明治の万博計画(2)」)

結局、曽禰建築事務所で岡田が手伝ったという「新設計の依頼」については、謎のままである。

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