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2015年4月の9件の記事

2015.04.27

神田の看板建築

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看板建築の佳品、沢書店(今は雑貨店?)。

唐破風のような曲線を描く軒先、ロマネスク風(?)のアーチ窓が特徴的です。

藤森さんの『建築探偵の冒険』や、最近復刊された『建築探偵術入門』(初版1986年)に、沢書店当時の写真が掲載されています。
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隣りが更地になってしまい、側面が見えていました。3階に物干し台があったとは。

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2015.04.22

博報堂の様子201504

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岡田作品(博報堂)の再現工事が進んでいます。外観はほぼ完成しており、来月竣工だそうです。

「テラススクエア」5/15オープン(SUUMO
(以前の関連記事:2015年1月

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2015.04.19

OSN109弟、捷五郎の外遊(続)

岡田捷五郎、小笹徳蔵にやや遅れて、権藤要吉と吉田五十八がヨーロッパに向かった。
権藤は宮内省内匠寮技手で、公務での出張である。
吉田は親友、捷五郎の外遊に刺激されたのか、父親から援助を受けての旅である。
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権藤は詳細な渡欧日記を残しており、その周辺に捷五郎、小笹、吉田の姿が垣間見える。
以下、権藤の日程については、主に牟田行秀氏の論文(文末に記載)を参照した。(別に牟田氏よりご教示いただいた内容(※)を含む)

1925年2月12日、権藤は横浜から賀茂丸で出発した。4月、ロンドンに到着し、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館、バッキンガム宮殿などを見て回った。
5月23日、権藤は思いがけず捷五郎と小笹に出会った。2人は前日、大陸からロンドンへ着いたところだった。この後も、捷五郎と小笹、権藤はよく顔を合わせた(※)。

吉田五十八は4月13日、横浜から箱根丸で出発した。やがてロンドンに到着し、捷五郎らと合流した。

7月8日、権藤は吉田、中原(機械関係?)の3人でグラスゴー方面に旅した(※)。
7月15日、権藤は拠点をロンドンからパリに移し、同月25日頃には捷五郎と吉田もパリに移った(※)。

8月3日、権藤と吉田はベルギー・オランダ旅行に出発した。捷五郎は別行動でドイツに向かったようである(※)。
権藤はドイツ、チェコ、オーストリアを回り、9月、パリに戻った。

10月1日、権藤、吉田、捷五郎の3人は万国博覧会(アールデコ博)を見学した。権藤は7月にも見学しているが、すっかり博覧会が気に入ったようで、少なくとも5回は会場へ足を運んでいる。

10月15日、権藤はスイス・イタリア旅行に出発した。吉田と捷五郎が同行した(※)。
吉田は後に、ドイツなどの新しい傾向の建築は期待はずれのものが多かったが、フィレンツェの初期ルネサンス建築や各地のゴシック建築に深い感銘を受けた、と回想している。

11月に権藤はパリに戻る。
11月13日、吉田がロンドンに旅立つのを、権藤が見送った(※)。(捷五郎の動静は不明)

その後、捷五郎と吉田はアメリカに渡ったようだ。2人は翌1926年1月23日に帰国した(「校友会月報」1926.2)。

権藤がアメリカに着いたのは1925年12月15日である。新年をニューヨークで迎えるが、年明け早々病気となり、生死の境をさまよった。回復するとコロンビア大学の図書館に通い、資料に読みふけった。シアトルから伊予丸に乗り、3月に帰国した。

一方、小笹の足取りはよくわからないが、回想によると、ロンドンに1か月、パリに1か月、ベルリンに1か月、といった具合に主要都市を回ったという。「ひとり旅は嬉しいもんで、スエーデンの市庁舎をわざわざ見にも行きました」と書いているから、身軽に行動していたようだ。
小笹はアメリカなどで流行中のスパニッシュ様式を目の当たりにし、これが帰国後の仕事に生かされた。
1924年8月に帰国し(「清水建設百七十年史」)、帰国後第1作となる京都ホテルは1925年2月に着工している。

建築家が外遊先で何を見てきたのかは興味あるテーマである。しかし、具体的にわかる事例は意外に少ないようだ。権藤が詳細な日記を残しているのは貴重である。
(画像は権藤設計の朝香宮邸、2008年10月撮影)

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2015.04.18

OSN108弟、捷五郎の外遊

岡田信一郎は以前にも記したように病弱なため、海外へ行くことができずじまいであった。
弟、捷五郎の回想によれば、岡田は(外国の町の)「どこにどんな家があるとか、行かないくせによく知って」いたということである(「岡田と洋行(続)」)。
海外の文献を調べ、地図で所在地を探していたのだろう。勉強家で負けず嫌いの岡田らしいエピソードである。

その兄に代わり、弟の捷五郎は1924年から1926年にかけて欧米へ建築視察の旅に出かけた。これは早稲田大学大隈記念講堂などの設計コンペで得た賞金を基にしたのである。
当時、捷五郎は兄の建築事務所を手伝っていた。関東大震災の翌年で、復興建築の依頼が相次ぎ、事務所は多忙な状況であった。しかし、それ以上に海外を見ておくことが必要と考えたのであろう。
岡田は喜んで弟を旅に出した。

この旅については、履歴書(1965年)に「大正十三年十一月より大正十五年一月迄欧米各地の建築視察のため外遊」と記されている程度で、具体的な訪問先などはほとんど不明であった。

同時期にヨーロッパを訪れた建築家の記録を参照し、捷五郎の旅のアウトラインを描いてみたい。

捷五郎は横浜から箱根丸に乗ってヨーロッパを目指した。見送りのときの様子は別の項でも紹介したが、清水組設計部の小笹徳蔵(後に清水建設副社長)が同船だったようである。(「関西への旅」)
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日本郵船のヨーロッパ行きの船は2週間に一度の出航で、横浜からロンドンまで約50日かかったという。(参照:時刻表歴史館

大正末から昭和初め(1924年-1936年)、12年かけて世界を一周した小山秀子という女性(元幼稚園長)がいる。
捷五郎と同じ年に出発しているので、手記「地球を廻りて」を参考に、当時の船旅の様子を見ておきたい。
小山秀子が神戸で箱根丸に乗船したのは1924年4月16日(捷五郎より半年ほど前)。
門司を出た後は、上海(4/20-22)、香港(4/24-25)、シンガポール(4/29-5/1)、マラッカ(5/2)、ペナン(5/3-4)、コロンボ(5/8)に寄港しており、小山はそれぞれの都市で名所めぐりを楽しんでいる。
エジプト(5/18-19)ではホテルに泊まり、ピラミッド見学などをしている。
5月20日、船はマルセイユに到着。小山はここで船を降り、鉄道で旅を続ける。

小山の場合、神戸からマルセイユまで35日かかっている(上海は1日遅れで出発)。
捷五郎が神戸を出発したのは11月9日であった。捷五郎がピラミッド前で撮影した記念写真が残っており、航路の途中で立ち寄ったのであろう。(予定通りなら12月11日前後か?)
エジプトを出てまもなく、マルセイユに着いたはずだが、どこの港で船を降りたかは不明である。
捷五郎と同船だった小笹は、大晦日にはロンドンにいたという。捷五郎もあるいはロンドンにいたのかもしれない。
(次項に続く)

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2015.04.16

OSN107曽禰達蔵の事務所

大学卒業後の岡田は、三菱社から独立したばかりの曽禰達蔵の事務所を手伝ったことがある。これは曽禰が追悼文で回想しているところである(建築雑誌1932.5、卒業後の状況の項でもふれた)。

余(注:曽禰)は同年(注:明治39年)の末、三菱を退社した。是より建築設計監督事務所を開設することゝして、先づ仮事務所を(略)九段中坂辺にて、或る家の二階の一室を借入れて之に充てた。(略)新設計の依頼を受け、手廻りかねて其或る部分を一二度岡田君に御手伝を煩はしたることもこともあつた。
1906年(明治39年)は岡田が大学を卒業した年である。曽禰は同年10月独立し、九段に曽禰建築事務所を開設。約1年後の1908年1月には、中條精一郎と共同で丸の内に設計事務所を開設するが、岡田が手伝ったのは、その間のことらしい。仕事もあまりなく、事務所員も少なかった。
1907年に秋田の工業学校を卒業した松淵清助が事務所に入所している。これは岡田の紹介によるものだという。(松淵は後に聖徳記念絵画館の設計コンペで4等2席に入選)
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この時期に着工した曽禰作品に三菱合資会社大阪支店(1910年)がある。曽禰建築事務所で設計されたものだろうか(そうだとすれば、岡田が関与した可能性もありそうだが…)、ということで少し調べてみた。

この建物は煉瓦造2階建で今橋4丁目にあったが、1970年代に取り壊されたようだ。(画像は「近代大阪の建築」より)
「明治建築座談会」(建築雑誌1933.10)で示された資料によると、1907年5月21日起工、1910年12月20日竣工で、設計者は曽禰と保岡勝也(三菱社)の連名になっている。

同座談会での曽禰の発言によれば、三菱を退社する前に計画されたもので、曽禰と保岡がそれぞれ設計を行ったという。

会社ではプランは私(注:曽禰)の案を採用しエレヴェーションは保岡さんの案を採用したのであります。其の建築着手前に私は退社しましたから関係したと云ふも至つて薄い関係です。
この話しぶりでは、退社後の曽禰が積極的に関わったわけではなさそうである。従って岡田が関与した可能性は低いであろう。

このほか座談会では三菱十二号館、十三号館にもふれている。同じ1907年の起工で、曽禰が顧問を務めたとされるが、曽禰自身は「関係はない。全く保岡君の作であります。」と発言している。
「曽禰達蔵年譜」(「日本の建築 明治大正昭和」7所収)を見ると、やはり1907年9月に東京府から日本大博覧会工事計画調査委員を嘱託されているが、設計まで行ったのかどうか不明である。
この博覧会は1912年に開催予定であったが延期となり、結局中止になった。(外務省のサイト「博覧会の実施と明治の万博計画(2)」)

結局、曽禰建築事務所で岡田が手伝ったという「新設計の依頼」については、謎のままである。

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2015.04.14

国立の洋館

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国立駅の近くに商店に囲まれて、木造の洋館が残っています。フランス料理店ル・ヴァン・ド・ヴェールで、昭和初期に建てられた野島新之丞邸だそうです。

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裏手からみたところ。

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2015.04.13

一橋大学2

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ロマネスク様式の建築群に交じって、木造平屋建の旧門衛所がいい味を出しています(国登録有形文化財)。
消防器具置場として使われていますが、屋根が傷んでいるのが気がかりです。

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東側の敷地にかつて木造の学生寮、中和寮があり、2002年まで使われていました。跡地の碑がありました。

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2015.04.12

一橋大学

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歴史的建造物の並ぶ一橋大学キャンパスへ行ってみました。
学園ドラマのロケに使われていた兼松講堂(1927年)。伊東忠太らしい怪物の彫刻が付いています。

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今回見て、意外に小さい感じがしましたが、当時は学生数も少なかったのでしょう。調べてみると1040席のようです(竣工時は1,359席)。

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図書館(時計台棟)は耐震改修工事中でした。

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旧幕臣で東京高等商業学校の初代校長、矢野二郎の銅像が立っています。

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2015.04.07

旧高田義一郎邸

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国立駅の近くにある昭和初期の住宅。
一橋大学の校医だった高田義一郎が建てた家とのこと。

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玄関付近がライト風です。
取壊し前の公開日があったそうですが、間に合わず…。

旧高田邸と国立大学町

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