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2015.03.07

OSN103中條百合子

中條百合子(ユリ)は建築家・中條精一郎の長女である。18歳(数え)で小説「貧しき人々の群れ」(1916年)を書き、天才少女と評された。後に日本共産党の宮本顕治と結婚し、宮本百合子となった。作品の多くは青空文庫で読むことができる。

岡田ファンとして、以前から宮本百合子のことは気になっていた。
百合子の弟、中條国男は東京美術学校建築科の出身(1922年入学、1927年卒業)で、一時期、岡田建築事務所に勤めていた。
また、1935年に百合子の評論集「冬を越す蕾」を刊行した現代文化社は、岡田の弟、復三郎が経営する出版社である。
百合子の日記を見ると、岡田自身も何度か登場してくる。中々面白いので、紹介してみたい。

日記に岡田の名前が出てくるのは、1914年(大正3年)1月6日の項に「[発信](…)岡田信一郎」とあるのが最初のようである。新年のあいさつでも送ったのだろうか。
当時、百合子は女学校3年生で16歳、岡田は32歳の大学教師である。
これ以前から岡田は中條家に出入りしていたと思われる。建築学会や国民美術協会などで中條と岡田が関わる場面も多かったのだろう。

同年2月25日の項には「美音会、母上、岡田信一郎に会う」とある。
美音会というのは、物理学者の田中正平らが始めた邦楽の音楽会である。この日は、6時から有楽座で新内、琴、大薩摩等の演奏があった。百合子は(母親とともに?)岡田と食堂へ行き、お茶を飲んでいる。
岡田がどんな話をしたのかはわからないが、得意の毒舌で、ませて生意気な百合子をからかい気味だったのではないか、などと想像される。

1916年1月30日にも、美音会で岡田に会っている。
5月15日、電車の中で岡田に会ったときは、「相変らず鋭い調子をして居なすったが疲れたらしい様子であった」、また9月22日、三越の彩壺会で会った際には、「大変具合が悪そうだった」ということである。
この年も、岡田は建築学会の役員を務め、「建築雑誌」の編集など熱心に活動していたが、かなり無理をしていたのかもしれない。

翌1917年1月7日の記事を引用する。

朝起きると先(す)ぐ、岡田信一郎氏来訪、久し振りで御目にかかって見ると、いままでよりは、やせたように見える。割に落ち着いた話になって、今までより彼(あ)の方をよく理解できることが出来た。
岡田は夜まで中條家にいたようである。佐藤(功一?)氏らが来て、中條精一郎と陶器談議になると、話に付いていけなくなったのか、「岡田さんは、酒をのんでは、メランコリーな表情をして居た」という。
岡田は酒が強くなかったと言われており、「酒をのんでは、メランコリー」というのは珍しいエピソードだと思う。

同年2月11日の記事では、佐藤功一(当時40歳)と百合子(19歳)のやり取りの様子が記されている。

佐藤功一氏来訪、父母が留守なので、私が御目にかかってお話をする。自由恋愛のことや、子孫ということについて、又基督教の、キリストと、マリアの居ること、それ等について種々御話をした。
佐藤と百合子が自由恋愛や宗教について語り合っていたというのも意外な話である。
この日の会話はかなり印象深かったようで、翌日にも、「昨夜佐藤氏の話されたこと - 人間の結局は他力に依らなければならないと云うことは、彼の方にとっては、たしかにそういうことなのかもしれないが、自分にはまだ必要を認めない。」と書いている。

3月3日に久米正雄、芥川龍之介が来訪する。中條家と久米家は祖父の代からの付き合いがあり、以前から親しくしていた。百合子が久米にあてたラブレターも残っている。芥川とは初対面か。
久米と芥川は第一高等学校以来の同級生で、前年に東京帝国大学を卒業し、第4次「新思潮」を創刊していた。
百合子は2人の違いを、佐藤・岡田と比較している。

芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なところは少しすくない。岡信氏と佐藤功一氏の違いがあると云っていい位である。
ということは、岡田の方が「頭のきく」感じで、佐藤の方が「正直」「純」、ということなのだろう。

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