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2015年3月の5件の記事

2015.03.26

OSN106中條國男

宮本百合子の弟、国男について補足しておきたい。

国男が東京美術学校建築科に入ったのは1922年(大正11年)4月。
同年6月、百合子の日記には「国男さんがデコレーションのことにつき書くのに、自分で勉強して居られないから、私に内容をまとめて呉れと云う。」という下りがある(6月24日)。
美術学校の課題(岡田が出したものかもしれない?)の代作を姉に頼んだのだろう。百合子は「自分も面白いから」と言って引き受け、2日後、まとめたものを国男に手渡している。

卒業後の進路をめぐる母娘の口論は前々回に紹介した。
国男は1927年(昭和2年)7月に美術学校を卒業する(「東京美術学校一覧」)。
百合子はこの年の12月、モスクワへ旅立つ。そして翌1928年の2月25日、「この頃国男さん、どんなに暮して居りますか。岡田さんのところへはもう通い始めましたか。ずっと家ですか。」と、故国の弟を案じる手紙を母親あてに送っている。5月24日の日記には、「国男は岡田さんのところへ通うようになったと皆がよろこんで居る」とある。
これらからすると、国男は卒業後、すぐには勤めに出なかったらしい。百合子が出国する時点でも同様で、翌年の5月頃から岡田建築事務所に勤め始めたことになる。

百合子にはもう一人、高校生の弟がいた。この英男が8月に自ら命を絶つ。英男は大学受験を控えて悩みが深かったようで、この前にも自殺未遂を起こしていた。弟の死を電報で知った百合子は、ショックのあまり失神したという。

1929年1月から4月まで、百合子は胆嚢炎のためモスクワ大学附属第一病院に入院。この間、3月14日に国男は倉知咲枝と結婚する。
父、精一郎は家族の再生を期して、一家でヨーロッパ旅行に出かけることにする。

5月20日 一家を挙げて渡欧す。妻葭江予て病の為め年々視力減衰の状態にあり、加ふるに前年三男英男を喪ひしより怏々として愉しまず、偶々長女百合子露都留学中病を獲て病後をパリに養はんとの報あり、精一郎葭江を伴ひて之を見舞ひ旁々葭江が失明せざらん内にパリ、ロンドンを見物せしめ英男の死に由る彼女の悲歎を慰め併せて子女の教育の為め此機を以て長男國男夫妻、四女壽江子を加へ一行5名にて海路渡欧に決せり。(「曽禰達蔵・中條精一郎建築事務所作品集」)
7月1日、百合子は中條家の一行とマルセイユで再会する。

この旅行は国男夫妻の新婚旅行を兼ねるものでもあったが、父母や妹同伴の旅行では気をつかうことも多かった。やがて国男夫妻は別行動となった。(このあたりのことは、小説『道標』に描かれている。)
精一郎夫妻と妹はシベリア鉄道経由で11月に帰国。
国男たちはしばらくロンドンのロングフォード夫人の家に滞在した。イタリア旅行を経て、翌年1月、賀茂丸に乗り、2月11日、神戸に到着した。(帰国時のエピソードも『道標』にある。)

帰国後の国男については詳細が不明だが、「曽禰中條建築事務所年譜」(石田潤一郎氏執筆の「日本の建築 明治大正昭和 ブルジョワジーの装飾」に所収)の1932年(昭和7年)の項に、「中條国男(…)入所」とあるので、それまでは岡田の事務所に通っていたのだろうか。

曽禰中條建築事務所は、第一次世界大戦期の好景気に乗って業績を伸ばし、震災復興期にも多くの作品を手がけていたが、国男が入所した頃は下り坂に差しかかっていたようだ。

事務所の最盛期に、設計実務の中心となっていたのは徳大寺彬麿、高松政雄の2人である。だが、徳大寺は既に1928年頃、病気のため退所しており、高松は1934年に胃潰瘍で逝去した。さらに1936年、中條精一郎が急逝、1937年、曽禰達蔵が逝去、と不幸が続いた。
父が逝去したとき、百合子は市谷刑務所におり、葬儀のため仮出獄を許された。
国男も、跡取りとしての自覚を深めたようである。百合子は「私は国男さんが皆から見ちがえるようだと褒められるということをきき涙が浮かんだ」と書いている(1936年2月19日、獄中から国男あて書簡)。
しかし、事務所を引き継いだものの、日中戦争が激しくなったこともあり、ほとんど仕事がなくなっていった。
(戦後?)国男は肝臓を悪くし、40人ほどいた事務所を解散することにした。開成山(郡山市)にあった中條家の土地を処分して所員の退職金に充てたという(中村智子「百合子めぐり」)。

さて、国男が一時期、岡田建築事務所に勤めていたことについて、小説『道標』では全くふれられていない。美術学校を「卒業して、父の事務所につとめはじめた」ことになっている。これはなぜだろうか。

説明しようとすると長くなってしまうので省略したのか、あるいは前作『二つの庭』で「稲田信一」を悪く書いてしまったため今さら「稲田」を登場させることができなくなったのか、いずれかではないかと推測している。

「宮本百合子全集」にはコルビュジエやライトに言及した箇所もあり、建築の観点から見ても中々興味あるものだと思う。

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2015.03.16

OSN105『二つの庭』の稲田信一

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終戦後の1947年、宮本百合子の自伝的小説『二つの庭』が「中央公論」に連載された(翌年、単行本化)。
この中に「稲田信一」という建築家が登場する。「有名な赤坂の芸者であったひとを細君にした」というから、明らかに岡田信一郎がモデルである。

小説は1927年(昭和2年)、百合子(数え29歳)と湯浅芳子との同居生活と、実家である中條家の人々の様子に、芥川龍之介の自殺などのエピソードをはさみながら、百合子と湯浅が革命後のモスクワに旅立つまでを描いている。材料の多くは実際にあったことらしい。
表題は中條家の庭と百合子・湯浅の家の庭の意味である。運転手付きの自家用車に象徴される中條家のブルジョワ的な生活が批判的に描かれており、特に母親に対する目は厳しい。母は、家庭教師の若い男と「結婚しようかと思っている」と告白して、主人公を驚ろかせる。
弟の中條国男は「母は小説に書かれているあのとおりの人でしたよ」と語ったという(中村智子「宮本百合子」)。

さて、「稲田真一」は主人公・伸子の回想シーンで登場するのだが、その少し前から紹介する。
伸子(作家、百合子)は、中国から留学した女学生を招いた新聞社主催の茶話会に出席する。演壇に立った早川閑次郎(長谷川如是閑)は、論語の「女子と小人は養いがたし」を引用し、女は男に養ってもらうのが幸福だ、などと女性蔑視の発言をする。女学生たちは不満そうで、会場は重苦しい空気になる。
その会合の帰り道である。

伸子は何年もの昔、まだ十六七だった自分が(…)牛込のある町を女中と一緒に歩いていたときのことを思い出した。それはまだあかるい夏の夕方であった。(…)
伸子の父の年下の友人で、稲田信一という建築家があった。その人は、江戸ッ子ということを誇りにしていた。角ばって苦みばしり、眼のきつい顔に、いくらかそっ歯で、せまい額の上に髪を粋な角刈めいた形にしている人であった。牛込に住んでいた。そこへ使いにやらされた。(…)
百合子は「稲田」の風貌をかなり細かく書いているが、褒めているのか、けなしているのかよくわからない。「牛込」とあるとおり、当時の岡田は牛込区薬王寺町に住んでいた。 「十六七」と言うと、1915年(大正4年)夏の出来事かもしれない。この年の日記は欠けている。
稲田の客室に通された。切下げの老母が出ての、そつのない応待に、伸子は、いいえとか、そうでございます、とか短く答えた。
泰造(注:主人公の父)への返事の手紙を書き終ると、稲田は伸子に珍しい写真画集を見せた。世界名画の中から、婦人画家の作品ばかりを集めたものであった。伸子はよろこんで、
「あら、ロザ・ボンヌール!」
「馬市」を見出して顔をかがやかした。父のもっている色刷りの名画集で、伸子は「馬市」を見て覚えていたのであった。その本には、ボンヌールのほかにマリ・バシキルツェフとかイギリスの婦人肖像画家とか伸子の知らないたくさんの婦人画家の傑作が集められていた。
ローザ・ボヌールは19世紀フランスの画家で、「馬の市」(1855年)が代表作である。(Wikipedia
「面白いですか」
「面白いわ、こんなに大勢女のひとの絵かきがいたのね」
稲田はぴたっとした坐りかたで、煙草をふかしながら、一枚一枚と頁をくっている伸子を眺めていた。やがて、
「伸子さん、その本あげましょうか」
といった。
「ほんと?」
「あげますよ。僕にはどうせいらないもんだから……。たかが女の絵かきなんて、どうせたいしたことはないんだからハハハハ」
伸子は、涙ぐむほど、傷つけられた。熱心に見ていたよろこびが嘲弄されたように感じられ、ぎごちない娘である自分がそれをよろこんでいることが恥しめられたように感じた。そんなに思っている本なんか、ちっとも貰いたくない。むきにそう思った。けれども、そのままを言葉に出してことわることも出来なくて、その分厚い本を女中にもってもらって帰って来た。そして、もう二度と稲田のとこへなんか行かないと心にきめた。
小説であり、実際にこの通りのやりとりだったのか、わからないが、これに近いことがあったと想像される。「たかが女の絵かき」と言われて主人公が怒るのも無理はない。もう少し言い方がありそうなものである。(岡田の毒舌については、以前にも書いた。)
今になって大人の女となった伸子として思えば、それは、稲田の毒舌と知人の間になりひびいていたその人のいいそうなことであったし、稲田の都会人らしいてらいや弱気のあらわれとも考えられた。しかし、一人前の男が、十六七の小娘にどうしてそんな態度をとらなければならなかっただろう。(…)
稲田信一や早川閑次郎の女に対しての毒舌と辛辣さは、結局裏がえされたフェミニズムの一種だということは、ちかごろは伸子にも理解される。けれども、男のそういう態度ポーズはやっぱり伸子に若い女としての反撥をおこさせた。
主人公の言い分もあるが、早川の暴言(公的な場での発言)と、稲田の悪気のない毒舌を同列に扱うのはちょっと違うのではないか。元芸者と結婚したことをわざわざ書き添えている点も悪意が感じられる。

作者がこの小説に岡田らしき人物を登場させた意図は何だろうか。故人をことさら貶めるつもりではなく、30年以上も前のことへのちょっとした仕返しだったのかもしれない、などと自分は想像しているが、どうだろうか。
(画像は、千駄木5-20に残る中條家の門。)

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2015.03.12

OSN104中條百合子(続)

同年(1917年)6月26日、百合子は日記に岡田の結婚問題を記している。

岡信氏が結婚の問題で大分周囲の圧迫をうけて居るのだそうだ。それが、大抵あの人が銀時計を貰ったと云うことに起因して居ると云うのをきいては、友達面をして彼の内心を或程度まで索(さぐ)って居た者達に浅ましい心持を味わされる。
岡田と元赤坂芸妓・萬龍の結婚問題が朝日新聞で報じられるのはこの2日後(6月28日)である。報道の前から関係者の間では噂になっていたわけだが、百合子は父(中條精一郎)からこの話を聞いたのだろうか。
「銀時計」というのは、岡田が大学卒業時、明治天皇から贈られた成績優秀者の証しである。それが問題になるというのは、大学関係者あたりからの圧力であろうか。「友達面をして」いたというのも誰のことなのか。気にかかるところである。

1918年9月、建築用務のため父(中條精一郎)がアメリカに行くことになり、百合子も同行して出発する。父は翌年2月に帰国。コロンビア大学聴講生になった百合子は、15歳年上の古代東洋語研究家、荒木茂と結婚する。12月に百合子が先に帰国。翌1920年4月に荒木が帰国するが、結婚生活はうまくゆかず、1924年に離婚する。

1922年10月28日の項に、「帝展に行く。(…)岡田氏母堂並夫妻に会い、夫人の衰えきたなくなったのにおどろいた」とあるのは、岡田信一郎夫妻のことだろうか。
母親が同行している点は、親孝行の岡田らしい感じもする。ただ、29歳の妻(百合子の5歳年上)が急に衰えてしまったのだろうか。不審なことである。

1926年9月9日の項には次の記述がある。

母上と、国男をいかに今後するかということで心持が衝突した。母上は岡田君に世話されたりしてはいや応なく job でも分け一生頭が上らない、それよりは、大沢の子と一緒に事務所に入れ、人に何といわれようと図々しく引立てて一人前にしてやるべきだという意見。自分は先の通り。O君に世話して貰い、一人前になって事務所に入った方が父も彼も心易いと思い、
弟の中條国男は美術学校建築科の5年生で、翌年に卒業を控えていた。「大沢の子」というのは、国男の同級生、大澤三之助の長男・健吉である。
国男の卒業後の進路として、父親が共同経営者の曽禰中條事務所に入るか、岡田信一郎に就職の世話をしてもらうか(具体的には岡田のもとでしばらく修業するということだろう)、2つの選択肢をめぐって母親と百合子が口論になったのである(家族が干渉しすぎな気もするが…)。
第一、父の事務所だから、子が入れば、入れてどうにかものにするのが(威光で)当然という公私混同した威圧的の態度がいやで殆ど腹立たしくなった。いかにも、中流の一代でよくなった家の者らしく、現在は、百姓や友人や親戚やと決してゆずり合わず守って資産など殖やし、次の代になる息子を、「図々しくかまえ」てまで push up しようとする根性、我親ながらたまらず。
百合子は、母親のことを公私混同と非難しているが、父親もやはり外で勉強した方がいいと考えたようだ。国男は一時期、岡田の事務所に籍を置いている。

1927年12月、百合子は友人の湯浅芳子とともにソビエトのモスクワへ出発。1930年までモスクワに滞在を続けた。帰国後、百合子はプロレタリア文学運動に加わり、1932年2月に宮本顕治と結婚する。

同じ年4月4日、岡田が50歳で亡くなる。この年の百合子の日記は欠けており、他にも特に書き記していないようだ。
この前後、運動への弾圧が続き、4月7日には百合子も駒込署に検挙され、80日間拘束されている。
夫の宮本は検挙を逃れ、地下活動に入る。1933年2月、作家の小林多喜二が築地署で拷問の末、殺される。12月に宮本が検挙され、以後12年を獄中で過ごす。この間に百合子も度々検挙されている。

1935年1月、百合子は評論集「冬を越す蕾」を岡田復三郎(岡田の弟)の現代文化社から刊行(前記)。復三郎自身は共産主義や社会主義を奉じていた訳ではないが、運動には一定の理解があったようである。

(付記)
1936年1月、父の中條精一郎が亡くなった際、百合子は追悼文「わが父」、「父の手帳」で、娘から見た建築家の姿を書いている。
5年後の1941年6月、佐藤功一(前項参照)が亡くなる。中條家と佐藤家は家族ぐるみの付き合いで、国府津に隣り合って別荘を持っていたほどである。通夜に出席した百合子は、夫あての獄中への手紙(6月23日付)で佐藤のことにふれている。
(これらは青空文庫で閲覧可)

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2015.03.07

OSN103中條百合子

中條百合子(ユリ)は建築家・中條精一郎の長女である。18歳(数え)で小説「貧しき人々の群れ」(1916年)を書き、天才少女と評された。後に日本共産党の宮本顕治と結婚し、宮本百合子となった。作品の多くは青空文庫で読むことができる。

岡田ファンとして、以前から宮本百合子のことは気になっていた。
百合子の弟、中條国男は東京美術学校建築科の出身(1922年入学、1927年卒業)で、一時期、岡田建築事務所に勤めていた。
また、1935年に百合子の評論集「冬を越す蕾」を刊行した現代文化社は、岡田の弟、復三郎が経営する出版社である。
百合子の日記を見ると、岡田自身も何度か登場してくる。中々面白いので、紹介してみたい。

日記に岡田の名前が出てくるのは、1914年(大正3年)1月6日の項に「[発信](…)岡田信一郎」とあるのが最初のようである。新年のあいさつでも送ったのだろうか。
当時、百合子は女学校3年生で16歳、岡田は32歳の大学教師である。
これ以前から岡田は中條家に出入りしていたと思われる。建築学会や国民美術協会などで中條と岡田が関わる場面も多かったのだろう。

同年2月25日の項には「美音会、母上、岡田信一郎に会う」とある。
美音会というのは、物理学者の田中正平らが始めた邦楽の音楽会である。この日は、6時から有楽座で新内、琴、大薩摩等の演奏があった。百合子は(母親とともに?)岡田と食堂へ行き、お茶を飲んでいる。
岡田がどんな話をしたのかはわからないが、得意の毒舌で、ませて生意気な百合子をからかい気味だったのではないか、などと想像される。

1916年1月30日にも、美音会で岡田に会っている。
5月15日、電車の中で岡田に会ったときは、「相変らず鋭い調子をして居なすったが疲れたらしい様子であった」、また9月22日、三越の彩壺会で会った際には、「大変具合が悪そうだった」ということである。
この年も、岡田は建築学会の役員を務め、「建築雑誌」の編集など熱心に活動していたが、かなり無理をしていたのかもしれない。

翌1917年1月7日の記事を引用する。

朝起きると先(す)ぐ、岡田信一郎氏来訪、久し振りで御目にかかって見ると、いままでよりは、やせたように見える。割に落ち着いた話になって、今までより彼(あ)の方をよく理解できることが出来た。
岡田は夜まで中條家にいたようである。佐藤(功一?)氏らが来て、中條精一郎と陶器談議になると、話に付いていけなくなったのか、「岡田さんは、酒をのんでは、メランコリーな表情をして居た」という。
岡田は酒が強くなかったと言われており、「酒をのんでは、メランコリー」というのは珍しいエピソードだと思う。

同年2月11日の記事では、佐藤功一(当時40歳)と百合子(19歳)のやり取りの様子が記されている。

佐藤功一氏来訪、父母が留守なので、私が御目にかかってお話をする。自由恋愛のことや、子孫ということについて、又基督教の、キリストと、マリアの居ること、それ等について種々御話をした。
佐藤と百合子が自由恋愛や宗教について語り合っていたというのも意外な話である。
この日の会話はかなり印象深かったようで、翌日にも、「昨夜佐藤氏の話されたこと - 人間の結局は他力に依らなければならないと云うことは、彼の方にとっては、たしかにそういうことなのかもしれないが、自分にはまだ必要を認めない。」と書いている。

3月3日に久米正雄、芥川龍之介が来訪する。中條家と久米家は祖父の代からの付き合いがあり、以前から親しくしていた。百合子が久米にあてたラブレターも残っている。芥川とは初対面か。
久米と芥川は第一高等学校以来の同級生で、前年に東京帝国大学を卒業し、第4次「新思潮」を創刊していた。
百合子は2人の違いを、佐藤・岡田と比較している。

芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なところは少しすくない。岡信氏と佐藤功一氏の違いがあると云っていい位である。
ということは、岡田の方が「頭のきく」感じで、佐藤の方が「正直」「純」、ということなのだろう。

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2015.03.05

OSN102もう一つの岡田別邸

前回、鎌倉の岡田別邸について書いたが、岡田信一郎はこの他、熱海(塩見場)にも別荘を建てている。
当時を知る人の話によれば、母親のために建てた別荘で、温泉を引いた浴室から海を一眺できたという。
設計図面は残っているが、住宅はだいぶ前に建て替えられたようである。

岡田はなぜ2つも別邸(荘)を建てたのだろうか、というのが1つの疑問である。
もちろん、経済的に余裕があったから建てられたのではあるが。

鎌倉の土地は関東大震災前の1923年(大正12年)1月に購入している。住宅は2階建で、外観は和風のように見えるが、主要な部屋は洋室になっており、奥の方に和室があった。岡田の弟妹には子どもが多く、鎌倉の別邸によく遊びに来たという。
静子夫人や親戚の子ども達とくつろいで過ごすことが、鎌倉の別邸の主な目的だったようである。

熱海の土地は1928年(昭和3年)に購入している。住宅を建てたのは岡田の晩年らしく、岡田自身はほとんど行けなかったということである。
岡田は1931年春頃から病床に就くようになり、翌年4月に亡くなった。別荘の完成は1930年か31年頃と推測される。設計図面を見ると、熱海の別荘は純和風、平屋建の住宅である。(注*)

岡田が亡くなった後の1934年、鎌倉の別邸は人手に渡った。処分の直接の理由は、おそらく、母親(姑)と静子夫人の家(六義園近くの大和村にあった)を新たに建てるためであろう。
一方、熱海の別荘は1943年まで静子夫人が維持していた。

ここで2つ目の疑問は、遺族はなぜ先に鎌倉の別邸を処分したのだろうか、ということである。鎌倉の方が東京から近いし、静子夫人にとって岡田との思い出も多かったはず、と思うのだが…。

ただ、岡田の母親の立場で考えてみると、洋風の造り(鎌倉)より純和風の造り(熱海)の方が過ごしやすかったのかもしれない。自分のために建ててくれた家、という思い入れもあったであろう。
静子夫人は母親(姑)の意向を考え、熱海の別荘を残すことにしたのではないか、というのが自分の想像である。

(注*)実は、「岡田邸(熱海別荘)」のものとされている設計図面が、本当に岡田の別荘なのか、という謎が残されている。設計図面には「熱海別荘」と書かれているだけで、施主の名が記されていない。この点も機会があれば別に書きたい。

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