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2014.12.29

OSN098木葉会

岡田が大学2年の1905年4月、第1回の工科大学建築学科展覧会が開催される。建築史の資料や学生たちの製図・設計作品などを展示し、一般向けに公開したものである。
展示内容は「用具の標本 本邦古瓦を時代別にしたる標本 有名なる寺院の雛形 天守閣の雛形 日本建築沿革一覧 建築式変遷略系 泰西模様の変遷等」、「彫像 建築の装飾」、「木葉会員の水彩画 絵ハガキ」などだったという(読売1905.4.6)。
Capital2
当時の大学公開としては早い事例ではないかと思うが、この展覧会は岡田の提案がきっかけで始まったのではないか、というのが今回のテーマである。

東大建築学科の同窓会を木葉会(もくようかい)という。歴代の会員には辰野金吾から丹下健三、磯崎新、菊川怜などが名を連ねている。もちろん岡田も会員であった。

木葉会の創立は1897年(明治30年)である。
建築史家、稲垣栄三の「木葉会小史」(「近代建築史研究」所収)によると、創立大会が同年2月11日で、その前年の秋頃から絵の批評を中心とする例会が始まった、とのこと。
はじめのうちは建築学科以外でも絵が好きな者が加入していたが、後に会員は建築学科教職員、卒業生、学生に限ることにした。

岡田が大学に入学した当時(1903年9月)も、毎月の絵の品評会が続いていた。
入学翌年の1904年6月に発行された機関誌「木葉会会誌」第1号に例会の様子が描かれている。例えば岡田が1903年10月の例会に「神社」の絵を出品したことや、本野精吾の作品が「素人の者とは受け取れず」と評されるほどレベルが高かったことなどがわかる。

また、同誌には「SO生」なる人物の「思考感録」が掲載されている。
SO生は、今の木葉会の状況は「危篤の病人」で「殆んど人事不省に陥つて居る」としている。どうもこの頃の木葉会は活気を失い、マンネリに陥っていたようだ。

彼処の隅にヒソヒソ此方の隅にヒソヒソ、スパスパ(煙草吸ふ音)、ガブガブ(茶を啜る音)パクパク(煎餅を噛る音)、先生の御批評を願います、一座粛然、これで閉会致します、ゾロゾロ会員解散、此外に余り変わッた音を聞かぬ、丸でとむらひを出した家の奥座敷を見る様である
この状況から会を救うには、まず「劇薬を用ゐて少なくも昏睡の状態から薬を受け付ける丈の程度までにして置かねばならぬ」として、その方法の一つとして「展覧会」の開催を主張している。

この文を書いた「SO生」は誰であろうか。
SOがイニシャルだとすれば、会誌に載っている出席者の中で当てはまるのは、1年生の岡田か3年の大江新太郎である。あるいは講師の大澤三之助か?
だが、卒業を控えた大江は実習や卒業制作に忙しく、展覧会どころではなかったと推測される。
入会して間もない1年生の岡田は、批判ばかり繰り返す生意気な学生だったのだろうか。だが、遠慮のない批評や「ヒソヒソ、スパスパ」などのユーモラスな表現は、口八丁手八丁、毒舌で知られた岡田らしいとも言える。
筆者はSO生=岡田説を唱えるものだが、いかがだろうか。

冒頭に戻って、この翌年の工科大学建築学科展覧会は、SO生の主張する展覧会の延長上にあるのではないだろうか。もっともSO生の提案は、木葉会会員の絵の展覧会だったが、規模がより大きくなっている。
おそらく、SO生の提案をきっかけに、賛同する教員や学生が結束して、公開するなら見ごたえのある展覧会にしようと、努力した結果なのだろう。
(画像は1909年、木葉会発行の図集より。近代デジタルライブラリー所収)

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