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2014.12.28

OSN097第一高等学校の寮

岡田の第一高等学校時代(1900年9月~1903年7月)についての話はあまり伝わっていない。

弟の捷五郎によれば、高等学校での実験中に事故があったという。

兄貴が高等学校に行っているころ、人力車で、着物がボロボロになって帰ってきたことがあるんです。というのは化学の実験でフレスコが破裂してそれが硫酸かなんかだったらしいんですよ。それで顔にちょっとやけどをしたぐらいで、身体にけがはなかったようですが、車に乗せられて帰ってきた。それで兄貴ははじめ応用化学をやるつもりでいたのが建築に転向した…それはおふくろが転向させたか、兄貴自身がそうしたのかわかりませんが、なにかそういうことが小耳に残っています。
当時、捷五郎は小学校低学年ぐらいで詳しい事情まではわからなかったはずである。志望先の変更については、母親あたりから後日聞かされた話だろう。

岡田が幼少の頃から「信坊」と呼んでかわいがっていた大澤三之助は、この頃東京帝国大学建築学科の講師をしていた(東京美術学校教授と兼任)。従って建築を志望したのは大澤の感化かと想像されるが、大澤自身は岡田が建築学科に進んだことを意外に思ったという(追悼文より)。ということは、大澤には特に相談しないで進路を決めたようだ。

高校時代のもう1つのエピソードは笠原敏郎の回想である。

高等学校時代には同君と1ケ年間同じ教室に居つたと記憶するが、(…)授業時間の合間にも皆が中庭に出て遊んで居るのに、君はいつも文芸書などを耽読して居つた事などを思ひ出す。
余計な話だが、笠原は2年・3年で岡田と同じクラスだったが留年し、大学では岡田の1年下(内田祥三と同期)になった。

どうも高校時代のエピソードは精彩を欠く感じがする。成績は1909年(明治36年)に卒業した工科志望61人中、11番目であった。
さすがの岡田も、全国から秀才が集まりしのぎを削る一高にあって、それほど目立つ存在ではなかったのかもしれない(?)。

高校時代について謎なのは、岡田が自治寮に入ったかどうか、である。
当時の一高は全寮制の建前を取っていた。旧制高校の回想といえば、まず自治寮であり、「ああ玉杯」などの寮歌が感激を持って語られるものである。しかし通学も認められ、1割程の通学生がいたようだ。
岡田の場合、母子家庭であり、弟や妹の面倒も見なければいけない、という事情を説明すれば、おそらく自宅通学が認められたはずである。前記の化学実験中の事故の話でも、自宅まで人力車で送られてきたということだから、自宅通学だったのでは、と想像しているが、断定はできない。

地方出身者は寮に入らざるを得ないとしても、自宅から通える東京在住者にとって全寮制というのはありがた迷惑な場合もあるだろう。一方、通学生の存在は寮生には面白くなかったようだ。

岡田の友人・鳩山一郎の例であるが、「全寮制は感性によくない」という母親の教育方針により、寮に入らないことにした。すると「寮に入るのがいやなら一高に入るのをやめたらいい」「鉄拳制裁を加えた方がいい」と先輩たちが騒ぎ出し、結局、「一ヶ月とか二ヶ月とか、期間を切って入寮することで妥協ができた」ということである(「私の履歴書」)。
弟の鳩山秀夫は寮に入り、内田祥三と同室になった。内田も自宅から通えないことはなかったが、1年間の寮生活をした(「内田祥三先生作品集」)。

文学者の例では、1889年入学(岡田の1学年上)の小山内薫(当時の自宅は麹町区三番町)が寮に入っている。谷崎潤一郎は1905年に一高へ入学した。住込みの家庭教師をしていた北村家(上野精養軒経営者)から高校に通ったが、北村家の小間使との恋愛が発覚し、同家を出て一高の寮に入ったという。

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コメント

後半の一高寮の話は、書き方が不十分でした。
続きを次の記事に書きました。

http://chuta.cocolog-nifty.com/arch/2016/05/osn115-460f.html

http://chuta.cocolog-nifty.com/arch/2016/05/osn116-aff3.html

投稿: 岡田ファン | 2016.05.24 01:54

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