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2014.12.12

OSN096夏目漱石

岡田信一郎と夏目漱石の関わりについて、以前から疑問に思っていることがある。

英国留学から帰ったばかりの夏目金之助が第一高等学校英語嘱託の辞令を受けたのは1903年(明治36年)の4月。友人であった校長狩野亨吉の世話によるものである。「漱石研究年表」を見ると、水曜日が授業のようで、5月13日が初の講義だった。
このとき岡田は二部(工科理科)の3年生である。7月1日には一高を卒業しているが、この間に、英語の授業を受けたことはあったのかどうか。
ちなみに岡田の1学年下の内田祥三は、3年生のとき漱石の授業を聞いた、と語っている。(「内田祥三先生作品集」)

東北大学漱石文庫の中に「二部3年 1903.6.10.」という資料がある。これは二部3年生に対する試験問題のようである。(漱石文庫データベース
ただし二部は工科理科、工科農科の2クラスあり、夏目先生以外にも英語教員はいたので、まだ断定はできない。
もっとも、授業を受けていたとしても、わずか2か月ほどの間、ということになるが…。

夏目先生の一高赴任早々、5月22日に一部1年(英法科文科)の学生、藤村操が日光華厳の滝から投身自殺をするという事件があった。授業中、夏目先生に叱責されたことが自殺の一因とも言われるが、この事件を岡田はどのように受け止めたことだろうか。

一高卒業後、岡田は東京帝国大学に進む。夏目先生は大学(文科)でも教えているが、岡田は工科の方だから、講義を聴くことはなかったと思う。

漱石のペンネームで有名になってゆくのは、岡田が大学在学中(1903~1906年)の時期にあたる(1905年1月~8月に「猫」の連載、1906年4月「坊ちゃん」、同年9月「草枕」など)。

岡田の数年後輩である内藤多仲や森井健介は、後年、高校時代の漱石の英語講義の想い出を記している。森井はサインをもらったことを自慢している。(「建築と人生」「師と友」)

また、岡田の弟・岡田復三郎は早稲田大学文学部を出た後、出版社の春陽堂に勤めた。同社は「鶉籠」「三四郎」「彼岸過迄」など、漱石の著作を多く出した出版社である。
漱石の日記(1910年7月3日)には、復三郎が病床の漱石を見舞った記述がある。

春陽堂の岡田復三郎来。栗野の話をする。御母さんが酒飲でどぶろく杯を作る時背中の子が泣くと乳を飲ませるのが面倒なので こうじを嘗めさせた由
(栗野については不詳)
このとき、漱石は「門」の新聞連載を終え、内幸町の長与胃腸病院に入院して療養中であった。修善寺の大患(8月24日)の前月のことである。
日記の記述から推測すると、復三郎は漱石のもとをしばしば訪れていたのであろう。

以上、岡田自身が漱石と関わりを持ったかどうか、はっきりしたことはわからないものの、意外に近い距離にいたと言えるだろう。(漱石も岡田もともに50歳(数え)で亡くなっているのは、まあ偶然である。)

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