« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月の14件の記事

2014.12.31

OSN100東京美術学校

岡田信一郎が長年勤めたのが東京美術学校である。
はじめの頃は専門学校の教員になるつもりはなく、アルバイト気分だったが、正木校長の厚い信頼を受け、多くの芸術家とも交流し、岡田にとって居心地のよい職場になったようだ。

岡田が美術学校嘱託になったのは1907年(明治40年)5月。建築科は未だ独立しておらず、図案科の一部であった。
建築担当の教授に大澤三之助と古宇田実がいたが、大澤はこの年の1月から英国留学中で、代わりに関野貞(東京帝国大学助教授)が嘱託で教えていた。また、古宇田はこの年末から兵役のため入営することが決まっており、その代わりとして、岡田が嘱託になったのである(前項)。

関野が建築学を担当し、岡田は日本建築、製図実習などを担当した。

1914年(大正3年)1月-2月の「時事新報」に連載された東京美術学校の裏話の中から、図案科(建築)の部分を抜き出してみよう(記者は「土耳古帽」とある)。

本科[図案科]は工芸図案と建築装飾の二つに分れ本科二年生は共通した技術を学び三年から何れか一方を選び専門的に研究する制度をとつて居る、(…)
工芸図案部は主任は教授嶋田佳矣氏で其下に助教授千頭庸哉(ちかみようさい)氏があり、建築装飾部は主任に教授工学士大澤三之助を戴き教授工学士古宇田實氏助教授小場恒吉氏、嘱託工学士岡田信一郎氏あり、教授岡田三郎助氏は各級の西洋画を受持ち、教授竹内久一氏は一年に塑造を、嘱託工学博士関野貞氏は二年生全部に日本建築史西洋建築装飾史を講義せられてゐる、(…)
殊に建築の方は博士に学士が三人も居るが此れで建築専門の生徒が何人居るかと思ふと驚く勿れ三年に二人四年に二人で僅四人、先生の方が人数が多いといふ奇観を呈してゐる (2月9日)
大澤、古宇田が復帰したこともあり、学生より教員の方が多かったというのが面白い。
(後に大林組で松竹座などを設計した木村得三郎が当時、5年生(卒業期)にいたと思うが、ふれていないのはなぜだろうか。)
岡田信一郎氏は(…)性格は恬淡無邪気、何所へ行つても書生流儀の悪口をポンポン云ふので就任当時は一寸烟つたがられたが性格が了解さるゝと共に実力のある善い先生である事が知れ「信ちやん信ちやん」と厚遇(もて)てゐるが近来健康を害して滅切り弱くなられたやうだ。切に自重を望む (2月11日)
「実力のある」というのは、1年ほど前(1912年12月)に大阪市公会堂の設計競技で1等となり、実力が認められたことを指すのであろう。「信ちゃん」と呼ばれたのは、他に岡田三郎助がいたせいか。
「健康を害して」という点は気になるところである。 この記事の前後、1909年9月から翌年3月頃まで(日英博覧会委員を辞退したとき)と、1914年9月から翌年3月頃まで長期療養をしているが、病名など具体的なことはよくわからない。後者について、本人は食べ過ぎが原因のように書いているが、食べ過ぎでそれほど長引くものだろうか。

美術学校の内情に詳しい「土耳古帽」氏が一体誰なのか気になるが、当時の岡田の様子を書き残してくれたのはありがたい。



「岡田信一郎の謎」を気が向くまま続けてきたが、ようやく100回目を迎えた。
第1回の謎(鳩山邸の施工者)をはじめ、3年経っても未だに不明な点が多いのは遺憾である。

夫人(元萬龍)の話、大隈講堂の話、お墓の話など、書き残した点も多いので、今後も気ままに書いてゆくつもりである。

| | コメント (1)

2014.12.30

OSN099徴兵制度

岡田信一郎は兵役に就いていないので、特にふれるまでもないのだが、当時の徴兵制度はどのようになっていたのかが気になっている。(以下、日露戦争前後の制度を中心に述べるが、不十分な点もあると思うので、ご教示いただきたい。)

岡田のように、大学を出て教職にあれば兵役は免除になるのかと思っていたが、そうではなかった。

もとは官公立の師範学校・中学校以上の卒業生は、平時には免役されるという規定があったが、1889年(明治22年)の改正によりなくなった。
高等教育を受ける者の特典として、就学期間中の徴集猶予(徴兵検査の延期)や一年志願兵(兵役3年のところを1年に短縮)の制度があった。

東京美術学校教授だった古宇田実は、1906年7月まで大学院に籍を置き、猶予を受けていた。猶予が切れ、一年志願兵に申し込もうとしたが間に合わなかった。古宇田は1907年末に召集されて、3年の兵役に就くことになった(ただし、途中で病気除隊)。
岡田は古宇田の代わりに美術学校に呼ばれたのである。

徴兵検査は前年12月1日から11月30日までに満20歳となる男子を対象として、6月に行われる。
岡田は1903年11月に満20歳となるから、原則通りならこの年6月に検査を受けるところである。ただし、この年7月が高校卒業で、大学受験を控えていたから、おそらく徴兵検査を猶予する手続きを取ったと思われる。
その翌年が日露戦争で、大学講師の大澤三之助も召集された。大澤は国内勤務だったが、同世代で戦地に赴く者も多く、岡田も思うところがあったに違いない。

岡田は1911年(明治44年)7月まで大学院に籍を置いていた。この間に徴兵検査を受けたと思われるが、時期は不明である。1909年秋頃には決まっていた英国出張を断念するほどの大病をしており、結果はおそらく不合格(丙種以下)だったのでは、と推測している。

なお、だいぶ後の話だが、弟の捷五郎は一年志願兵として赤羽の工兵隊に入隊している。また、明治生命館建設中、満州事変後の1932年2月、満37歳にして召集を受けているのだが、この話は別の機会にしたい。

続きを読む "OSN099徴兵制度"

| | コメント (1)

2014.12.29

ミクロネシアの奉安殿

ミクロネシア連邦ポンペイ州コロニアにある海外物件について情報をいただきました。
012_jpgfb
第1次世界大戦後、ミクロネシアは日本の統治下となり、日本人も多く住んでいました。
画像は国民学校の跡地に残る旧奉安殿だということです。

木造で棟持柱がある社殿形式の建物です。
ミクロネシア通信を作っている仲様より情報を頂きました。ありがとうございます。)

| | コメント (0)

OSN098木葉会

岡田が大学2年の1905年4月、第1回の工科大学建築学科展覧会が開催される。建築史の資料や学生たちの製図・設計作品などを展示し、一般向けに公開したものである。
展示内容は「用具の標本 本邦古瓦を時代別にしたる標本 有名なる寺院の雛形 天守閣の雛形 日本建築沿革一覧 建築式変遷略系 泰西模様の変遷等」、「彫像 建築の装飾」、「木葉会員の水彩画 絵ハガキ」などだったという(読売1905.4.6)。
Capital2
当時の大学公開としては早い事例ではないかと思うが、この展覧会は岡田の提案がきっかけで始まったのではないか、というのが今回のテーマである。

東大建築学科の同窓会を木葉会(もくようかい)という。歴代の会員には辰野金吾から丹下健三、磯崎新、菊川怜などが名を連ねている。もちろん岡田も会員であった。

木葉会の創立は1897年(明治30年)である。
建築史家、稲垣栄三の「木葉会小史」(「近代建築史研究」所収)によると、創立大会が同年2月11日で、その前年の秋頃から絵の批評を中心とする例会が始まった、とのこと。
はじめのうちは建築学科以外でも絵が好きな者が加入していたが、後に会員は建築学科教職員、卒業生、学生に限ることにした。

岡田が大学に入学した当時(1903年9月)も、毎月の絵の品評会が続いていた。
入学翌年の1904年6月に発行された機関誌「木葉会会誌」第1号に例会の様子が描かれている。例えば岡田が1903年10月の例会に「神社」の絵を出品したことや、本野精吾の作品が「素人の者とは受け取れず」と評されるほどレベルが高かったことなどがわかる。

また、同誌には「SO生」なる人物の「思考感録」が掲載されている。
SO生は、今の木葉会の状況は「危篤の病人」で「殆んど人事不省に陥つて居る」としている。どうもこの頃の木葉会は活気を失い、マンネリに陥っていたようだ。

彼処の隅にヒソヒソ此方の隅にヒソヒソ、スパスパ(煙草吸ふ音)、ガブガブ(茶を啜る音)パクパク(煎餅を噛る音)、先生の御批評を願います、一座粛然、これで閉会致します、ゾロゾロ会員解散、此外に余り変わッた音を聞かぬ、丸でとむらひを出した家の奥座敷を見る様である
この状況から会を救うには、まず「劇薬を用ゐて少なくも昏睡の状態から薬を受け付ける丈の程度までにして置かねばならぬ」として、その方法の一つとして「展覧会」の開催を主張している。

この文を書いた「SO生」は誰であろうか。
SOがイニシャルだとすれば、会誌に載っている出席者の中で当てはまるのは、1年生の岡田か3年の大江新太郎である。あるいは講師の大澤三之助か?
だが、卒業を控えた大江は実習や卒業制作に忙しく、展覧会どころではなかったと推測される。
入会して間もない1年生の岡田は、批判ばかり繰り返す生意気な学生だったのだろうか。だが、遠慮のない批評や「ヒソヒソ、スパスパ」などのユーモラスな表現は、口八丁手八丁、毒舌で知られた岡田らしいとも言える。
筆者はSO生=岡田説を唱えるものだが、いかがだろうか。

冒頭に戻って、この翌年の工科大学建築学科展覧会は、SO生の主張する展覧会の延長上にあるのではないだろうか。もっともSO生の提案は、木葉会会員の絵の展覧会だったが、規模がより大きくなっている。
おそらく、SO生の提案をきっかけに、賛同する教員や学生が結束して、公開するなら見ごたえのある展覧会にしようと、努力した結果なのだろう。
(画像は1909年、木葉会発行の図集より。近代デジタルライブラリー所収)

| | コメント (0)

2014.12.28

OSN097第一高等学校の寮

岡田の第一高等学校時代(1900年9月~1903年7月)についての話はあまり伝わっていない。

弟の捷五郎によれば、高等学校での実験中に事故があったという。

兄貴が高等学校に行っているころ、人力車で、着物がボロボロになって帰ってきたことがあるんです。というのは化学の実験でフレスコが破裂してそれが硫酸かなんかだったらしいんですよ。それで顔にちょっとやけどをしたぐらいで、身体にけがはなかったようですが、車に乗せられて帰ってきた。それで兄貴ははじめ応用化学をやるつもりでいたのが建築に転向した…それはおふくろが転向させたか、兄貴自身がそうしたのかわかりませんが、なにかそういうことが小耳に残っています。
当時、捷五郎は小学校低学年ぐらいで詳しい事情まではわからなかったはずである。志望先の変更については、母親あたりから後日聞かされた話だろう。

岡田が幼少の頃から「信坊」と呼んでかわいがっていた大澤三之助は、この頃東京帝国大学建築学科の講師をしていた(東京美術学校教授と兼任)。従って建築を志望したのは大澤の感化かと想像されるが、大澤自身は岡田が建築学科に進んだことを意外に思ったという(追悼文より)。ということは、大澤には特に相談しないで進路を決めたようだ。

高校時代のもう1つのエピソードは笠原敏郎の回想である。

高等学校時代には同君と1ケ年間同じ教室に居つたと記憶するが、(…)授業時間の合間にも皆が中庭に出て遊んで居るのに、君はいつも文芸書などを耽読して居つた事などを思ひ出す。
余計な話だが、笠原は2年・3年で岡田と同じクラスだったが留年し、大学では岡田の1年下(内田祥三と同期)になった。

どうも高校時代のエピソードは精彩を欠く感じがする。成績は1909年(明治36年)に卒業した工科志望61人中、11番目であった。
さすがの岡田も、全国から秀才が集まりしのぎを削る一高にあって、それほど目立つ存在ではなかったのかもしれない(?)。

高校時代について謎なのは、岡田が自治寮に入ったかどうか、である。
当時の一高は全寮制の建前を取っていた。旧制高校の回想といえば、まず自治寮であり、「ああ玉杯」などの寮歌が感激を持って語られるものである。しかし通学も認められ、1割程の通学生がいたようだ。
岡田の場合、母子家庭であり、弟や妹の面倒も見なければいけない、という事情を説明すれば、おそらく自宅通学が認められたはずである。前記の化学実験中の事故の話でも、自宅まで人力車で送られてきたということだから、自宅通学だったのでは、と想像しているが、断定はできない。

地方出身者は寮に入らざるを得ないとしても、自宅から通える東京在住者にとって全寮制というのはありがた迷惑な場合もあるだろう。一方、通学生の存在は寮生には面白くなかったようだ。

岡田の友人・鳩山一郎の例であるが、「全寮制は感性によくない」という母親の教育方針により、寮に入らないことにした。すると「寮に入るのがいやなら一高に入るのをやめたらいい」「鉄拳制裁を加えた方がいい」と先輩たちが騒ぎ出し、結局、「一ヶ月とか二ヶ月とか、期間を切って入寮することで妥協ができた」ということである(「私の履歴書」)。
弟の鳩山秀夫は寮に入り、内田祥三と同室になった。内田も自宅から通えないことはなかったが、1年間の寮生活をした(「内田祥三先生作品集」)。

文学者の例では、1889年入学(岡田の1学年上)の小山内薫(当時の自宅は麹町区三番町)が寮に入っている。谷崎潤一郎は1905年に一高へ入学した。住込みの家庭教師をしていた北村家(上野精養軒経営者)から高校に通ったが、北村家の小間使との恋愛が発覚し、同家を出て一高の寮に入ったという。

| | コメント (1)

2014.12.27

Microsoftの罠

さて、データのバックアップを取り、パソコンのリカバリを行いました。
ブログの更新はできるようになりましたが、色々と困ったことが発生。

これは自分が悪いのですが、購入時に付属していたはずのOffice(Word、Excel)のCDが見つかりません(泣)
Officeを改めて購入するくらいなら、新しいパソコンを買った方がいいかも…
(オークションで出回っている安物は、認証を通らないのではないかと)

また、閲覧できないサイトが多く、どうやらリカバリでブラウザが古いバージョン(IE7)に戻ったことが原因のようです。
そこでIE8、IE9をダウンロードしました。インストールするにはVistaのSP2が必要ですが、リカバリでSP1の状態に戻ってしまっています。どうすればいいのかとMicrosoftのサポートページを見ても、IE7のサポートが終了しているため、「ブラウザーをアップグレードしましょう」とダウンロードを促す画面になってしまい、その先に進めません…
Google Cromeもなぜかダウンロードできないし…
マンガ喫茶でダウンロードするしかないでしょうか?

泣き言ばかりですいません。

| | コメント (0)

2014.12.20

Microsoft Partnerの罠

ある日、パソコンでネットを見ていたら、「PCのパフォーマンスが低下しています 今すぐ修復 」なんていうメッセージが出て、microsoft partnerとあったので、うっかり信用してしまったのが間違いの元でした。

それからブラウザの動作がおかしくなり、アンインストールしたのですが、ますます状態が悪くなってきました。radio canyonという、やたらうっとうしい広告(画面の半分ほどを占める)が出てくるし、勝手にページを開くし、落ち着いてインターネットを使える状態ではなくなってきました。
システムの復元もうまくいかないので、いよいよリカバリ(初期化)するしかないのか…。

皆様もお気を付けください。
BurauzaBurauza2


| | コメント (0)

2014.12.12

OSN096夏目漱石

岡田信一郎と夏目漱石の関わりについて、以前から疑問に思っていることがある。

英国留学から帰ったばかりの夏目金之助が第一高等学校英語嘱託の辞令を受けたのは1903年(明治36年)の4月。友人であった校長狩野亨吉の世話によるものである。「漱石研究年表」を見ると、水曜日が授業のようで、5月13日が初の講義だった。
このとき岡田は二部(工科理科)の3年生である。7月1日には一高を卒業しているが、この間に、英語の授業を受けたことはあったのかどうか。
ちなみに岡田の1学年下の内田祥三は、3年生のとき漱石の授業を聞いた、と語っている。(「内田祥三先生作品集」)

東北大学漱石文庫の中に「二部3年 1903.6.10.」という資料がある。これは二部3年生に対する試験問題のようである。(漱石文庫データベース
ただし二部は工科理科、工科農科の2クラスあり、夏目先生以外にも英語教員はいたので、まだ断定はできない。
もっとも、授業を受けていたとしても、わずか2か月ほどの間、ということになるが…。

夏目先生の一高赴任早々、5月22日に一部1年(英法科文科)の学生、藤村操が日光華厳の滝から投身自殺をするという事件があった。授業中、夏目先生に叱責されたことが自殺の一因とも言われるが、この事件を岡田はどのように受け止めたことだろうか。

一高卒業後、岡田は東京帝国大学に進む。夏目先生は大学(文科)でも教えているが、岡田は工科の方だから、講義を聴くことはなかったと思う。

漱石のペンネームで有名になってゆくのは、岡田が大学在学中(1903~1906年)の時期にあたる(1905年1月~8月に「猫」の連載、1906年4月「坊ちゃん」、同年9月「草枕」など)。

岡田の数年後輩である内藤多仲や森井健介は、後年、高校時代の漱石の英語講義の想い出を記している。森井はサインをもらったことを自慢している。(「建築と人生」「師と友」)

また、岡田の弟・岡田復三郎は早稲田大学文学部を出た後、出版社の春陽堂に勤めた。同社は「鶉籠」「三四郎」「彼岸過迄」など、漱石の著作を多く出した出版社である。
漱石の日記(1910年7月3日)には、復三郎が病床の漱石を見舞った記述がある。

春陽堂の岡田復三郎来。栗野の話をする。御母さんが酒飲でどぶろく杯を作る時背中の子が泣くと乳を飲ませるのが面倒なので こうじを嘗めさせた由
(栗野については不詳)
このとき、漱石は「門」の新聞連載を終え、内幸町の長与胃腸病院に入院して療養中であった。修善寺の大患(8月24日)の前月のことである。
日記の記述から推測すると、復三郎は漱石のもとをしばしば訪れていたのであろう。

以上、岡田自身が漱石と関わりを持ったかどうか、はっきりしたことはわからないものの、意外に近い距離にいたと言えるだろう。(漱石も岡田もともに50歳(数え)で亡くなっているのは、まあ偶然である。)

| | コメント (0)

2014.12.11

ツリーハウス

Treep1150725
ドラマ「ディア・シスター」に登場するツリーハウスカフェ。
都立図書館の帰りに毎度前を通りますが、入ったことはありません。

夜景では何だかわからない写真になってしまいました。

| | コメント (0)

2014.12.10

横浜の煉瓦壁

Rengap1150344
先月、横浜に行ったときに戦前もの(関東大震災前)と思われる煉瓦壁を見かけました。開口部がアーチになっています。

以前は看板建築風の店舗が建ってましたが、火災にあい、解体中に煉瓦壁が発見されたそうです。(仁木さんより情報を頂きました)
検索してみると、火災発生は2月14日午後5時50分頃、1階がそば屋、2階がダイニングバーの建物だったとのこと。(YouTube

Renga03
震災で焼け残った煉瓦壁を再利用した、ハイブリッド構造の建物だったわけです。
画像はGoogle mapより借用したもの(今年4月撮影)で、ブルーシートがかかった火災後の様子です。

| | コメント (0)

2014.12.09

東京都美術館(ダンス)

Tobip1150708
美術館の玄関を入ってロビー右手の方に、レリーフ「舞踏(ダンス)」が掲げられています。ベルナールの作で、岡田信一郎の設計による東京府美術館が開館する際に、日仏芸術社(デルスニス、黒田鵬心)から寄贈されたものです。

Tobip1150705
また、ロビーの左手に現在の美術館(前川國男設計)の建築模型が展示してあります。
階段を下がって地下の玄関から入り、展示室を上がったり下がったりするので、自分がどう移動していたのか、中々わかりにくいものです。

*過去の記事(

| | コメント (0)

2014.12.06

ウフィツィ美術館展

Ufp1150712
東京都美術館のウフィツィ美術館展を見てきました(12月14日まで)。
公式サイト
ボッティチェリ作品が9点出ており、イタリア美術好きは必見です。混雑を予想してましたが意外に空いており、ゆっくり見られました。フィレンツェはだいぶ前に半日滞在し、ここも見ているのですが、作品はほとんど覚えてませんでした(..)ゞ

ポスターにもなっている「パラスとケンタウロス」は「春」と同じ頃、メディチ家のために書かれた作品で、ケンタウロスの情けない顔と、パラス(ミネルヴァ)のスケスケ衣装が面白いです。

他にはポントルモ(模写)、ブロンズィーノなどの作品が結構でした。

| | コメント (0)

2014.12.03

堀川沿いの歴史的建造物

Nayap1150531
鳥久近くの納屋橋の脇にある旧加藤商会(1931年竣工)。
一時期、全体を看板で覆われていたそうですが、リノベーションを受けて、現在はレストランが入居しています。

Matup1150557
中川運河との分岐点に造られた松重閘門。現在、閘門の機能はありませんが、土木遺産として保存されています。シンボリックな塔が2対4本並んでいます。


| | コメント (0)

2014.12.02

鳥久の火災

Torip1150515
名古屋に寄り、鳥久(とりきゅう)を見てきました。
堀川に面した立地で、元は得月楼という有名な料亭だったそうです。

名古屋市長は保存を要望していましたが、所有者が取壊し作業を始めた直後の11月22日に出火し、焼失しました。

付近では川沿いに散策路の整備などが行われており、貴重な歴史的建造物が失われたことは残念でした。
Torip1150522

| | コメント (0)

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »