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2014.11.14

OSN095岡田と正教会

Bulgaria_alexandernevsky_chacedral
ブルガリアの首都ソフィアにある正教会のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂は、ネオビザンチン様式の代表作の一つとされ、竣工は1912年(大正元年)である。
岡田信一郎と同時代の作品になるが、鐘楼やドームのデザインがニコライ堂に似ていると思う。
岡田は関東大震災で大きな被害を受けたニコライ堂の修復を担当し、オリジナル(コンドル設計)のデザインを一部変更しているが、その際、参考にした可能性もあるのでは…(個人的見解)。
(画像はGoogleマップより拝借)

正教会と言えば、岡田は正教会の信者だという説が最近一部で唱えられている。岡田のお墓は護国寺(真言宗)にあるし、全く意外な話で驚いた。
確かにニコライ堂の修復には岡田もかなり思い入れを持っており、信仰に共感して洗礼を受けることもありえない話ではない。もしかすると日本正教会本部には、岡田の洗礼記録か何かが残っているのだろうか…。
ただ、その場合は本人の意に反して仏式で弔われていることになり、ちょっと困ったことになるのである。

1990年から1998年にかけてニコライ堂の修理工事が行われており、詳しい文献調査が行われている。その成果を含む『重要文化財日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)保存修理工事報告書』(1998年)を見ても、岡田が信者であるといった話は出てこない。
しかし『東京復活大聖堂 修復成聖記念誌』(同年)には、「復興設計者は信者であった建築家のイリヤ岡田信一郎」という一文があり、これが信者説の(唯一の?)出典のようである。
特に典拠は挙げられていないが、『記念誌』執筆者は何を見てこれを書いたのであろうか。

以下は自分の推測である。
『工事報告書』には正教会の昭和2年度公会の会議録が収められている。岡田は出席していないが、復興委員会から再建工事の説明が行われており、会議録中に次の発言が記されている。

「イザヤ岡田技術士に得たる工事見積書につき一々説明せん」
口語に直せば、「さあ、岡田技術士にもらった工事見積書について一つ一つ説明しよう」ということだが、『記念誌』執筆者は「イザヤ」を洗礼名(?)と思い込み、岡田を信者と誤解したのではないだろうか。そして「イザヤ」の書き間違いか校正ミスで「イリヤ」になったのではないか。
岡田の洗礼記録等についてご存知の方はご一報いただきたい。

ニコライ堂の復興にかける岡田の思いについては次のような資料がある。

○私は稚い時此処 [駿河台] の対岸のお茶の水高等師範学校の附属中学に通学した。其故に此の鐘塔からの七つの鐘の美しい響を絶えず聞いた。其の神秘な、奇妙な諧調は小供の好奇心を誘うに充分であつた。(…)
ニコライ聖堂は故コンドル博士の設計で、明治廿四年二月に出来上つた。(…)高い方塔(キャンパニール)と大きい円蓋(ドーム)とで対照の妙を窮め、地勢を利用して厳然たる威容を現出した博士の手腕には全く敬服する。青緑に錆びた円蓋と、美しい鐘の音の方塔とは永く市民の記憶を去るまい。(1923.11中央公論「死児の齢を算えて」)

○早大教授岡田信一郎氏は(…)先生の又先生がこの聖堂を設計したといふ因縁から無報酬でやらせてくれと、乗気になつて此の [復興の] 設計に当つて居ると。(1924,10.14都新聞) ※実際に無報酬だったかどうかは未確認、

○予て震災復興工事中の駿河台ニコライ会堂漸く外部だけ成就致候(…)信仰の力の強さに中古巴里其他ゴシックの本寺が数百年がかりにて出来し様子会得致され候(1929.8.26私信)

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