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2014.10.25

OSN094建築条例実行委員会

Sinohp1140923
建築学会の建築条例実行委員の1人に田島穧造という人がいた。読みは「せいぞう」であろう。(「穧」は環境依存文字なので文字化けが心配である)

田島は1870年(明治3年)生れ。1892年(明治25年)、伊東忠太と同年に帝国大学造家学科を卒業。本館建設工事中の日本銀行に勤めたが、なぜかすぐに辞めている。その後、陸軍技師を経て台湾総督府建築技師。セントルイス万国博覧会(1904年)を機に、1903年から1905年まで欧米に出張。1906年に官職を辞し、その後、1910年から東京市に勤めた。
1916年(大正5年)に建築条例実行委員となったが、1917年1月30日、48歳(数え)で逝去した。
四谷見附橋や新大橋(明治村に復元)、鍛冶橋・呉服橋(堀の埋立てにより撤去)の装飾は、田島によるものだという(建築雑誌362、伊東忠太の追悼文による)。これらの橋は、明治末から大正初めの市区改正事業で架け替えられたものである(橋梁自体の設計は土木技師)。

(画像は新大橋の江東区側にあるモニュメント:田島デザインか?)

さて、岡田及び建築条例実行委員会は、市街地建築物法の制定過程においてどのような役割を果たしたのか。改めて考えているうちに長大な文章(都市計画法等の制定まで)になってしまったが、何人かキーパーソンがいたことがわかる。
中でも内田祥三は、条文の作成を一貫して地道に続けており、実務面での功績は大きい。

その内田が十数年後の「回顧座談会」で、都市計画法・市街地建築物法の制定運動に尽くした人物として挙げたのは、片岡安、清水仁三郎であった(建築雑誌617)。
岡田に一言ふれてもよかっただろうに(言い忘れたのか、言うまでもないと思ったのか、もしかすると何かひっかかるものがあったのか…)、と岡田ファンとしては気になるのである。

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