« 滋賀武徳殿の行方 | トップページ | 都市研究会の始まり »

2014.10.09

OSN093藤原俊雄

藤原俊雄と言えば、都市計画史などでちらっと名前が出てくるが、どういう人物だったのかほとんど知られていない。
岡田信一郎ファンとしては、岡田の追悼文(建築雑誌557)を書いていることや、岡田作品(三柏ビル、藤原邸)の施主であることから、逸することのできない人物であるが、「貿易商、市会議員」という程度で詳しく調べてはいなかった(反省)。都市計画法制定運動の中で少なからぬ役割を果たしたことがわかってきたので、ここで人物像や経歴をまとめておく。

藤原は1867年(慶応3年)岡山生れ、岡田の16年上である。
当時の人物評に「顔面漆黒にして体幹偉大、宛(さな)がら古壮士を見るが如し、精力極めて旺盛にして癇癪癖に富み、常に人と相争ふ」とある(桑村常之助「財界の実力」1911年、やまと新聞に初出)。

実家は酒屋だったが、後に衰えた。16歳で大阪に出て苦労して2年ほど働き、東京に出て泰東法律学校(不明)、明治法律学校(明治大学の前身)に学んだ。その後、アメリカに渡るが、働き過ぎて体を壊し、人生の無常を感じたという。宣教師メリマン・ハリスの推薦でサンフランシスコにある日本人学校の校長となり、多くの日本人の世話をした。やがて教員生活に飽き足らず帰国、三井銀行に入った(同)。

アメリカの友人から建築材料のマルソイド・ルーフティング(屋根瓦代用品)の話を聞いて4年間研究し、有望であることを確信した。三井銀行神戸支店の庶務課長兼地所係長の職を辞して、神戸で開業したのは1903年、37歳のときであった。始めての注文は辰野金吾からで、住友家の仕事だった。やがて東京に移転し、横河工務所の注文を受けた。翌年、日露戦争が始まると、多くの注文が入り、事業の基礎が固まった(「実業之日本」16-21)。

事業は建築材料のほか、自動車(パッカード)を扱った。度々海外に出かけ、様々な社会問題にも詳しく、「蛮殻(バンカラ)にして西洋通なり」と評された(同19-3)。著作には「日本社会改造論」(1920年、極東書院)、「日米は戦争?」(1924年、極東書院)、「金再禁止から財界復活の途へ」(1932年、経世社)、「明日の経済と資本」(1934年、実業之日本社)などがあり、雑誌「都市公論」には創刊号以来、多くの論文を寄せている。

東京市会に1912年(明治45年)6月の補欠選挙(赤坂区選出)で当選。1914年(大正3年)の選挙で再選。1918年6月の選挙では落選するが、1926年(大正15年)6月の選挙で市会議員に返り咲いた。

1915年9月の「実業之日本」(18-19)によれば、藤原は「市政道楽の雑誌」を出していたという。誌名が確認できないのが残念だが、時期からみて、おそらく「都市協会」と関係がありそうだ。(「都市研究会」の項の末尾参照)
Mkp1030828
冒頭でもふれた追悼文(1932年)に、岡田とは「30年に近き交際」だったと記している。岡田が大学を卒業するのは26年前(1906年)だから、かなり早くから知り合っていたらしい。また、「君は実に喜怒哀楽を自由に表はす人であつた」、「まことに純真にして交りよい人であつた」と記しており、岡田との親交は深かったようだ。
藤原の三柏商会が入る有楽町一丁目の三柏ビルは岡田の設計作品である。1927年11月竣工。後に東光ビルとなった。

藤原が病気で亡くなったのは1938年11月。他にもエピソードの多い人物だがこの辺にしておく。
(画像は一木努コレクション、2009年「建物のカケラ」展より。)

|

« 滋賀武徳殿の行方 | トップページ | 都市研究会の始まり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 滋賀武徳殿の行方 | トップページ | 都市研究会の始まり »