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2014年9月の6件の記事

2014.09.27

三菱倉庫

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日本橋ダイヤビルディングが竣工したというので見てきました。1930年竣工のビル(三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)の一部を取壊して超高層ビルを建てるという計画です。

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かなり悲惨な状況になるのでは、と案じてましたが、予想よりもよかったです。
水辺に浮かぶ豪華客船をイメージした、と言われているそうで、特徴的な塔屋の部分が隣りのビルに近すぎる点は気になりますが。

Mitup1140819
玄関部分はゴテゴテした中に連続水平窓を付けています。ちょっとメンデルゾーンが入っている?

Mitup1140822
近代化産業遺産(経済産業省)に認定されています。

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2014.09.18

OSN092都市計画と都市美

前項で記した建築学会等による建築法令の制定運動について(続き)

岡田信一郎は制定運動の「画策の中心となつて働いた」(前出)ということだが、具体的にはどのような動きだったのだろうか。学会内部や他団体(関西建築協会など)との調整、政府や議会への働きかけ、報道機関への対応など様々なことがあったはずだが、詳しいことはよくわかっていない。
(長くなるので、経過を別のところへ)
Pari
都市計画法と市街地建築物法が成立したのは1919年で、関東大震災(1923年)の数年前という時期であった。当時は東京をはじめ都市が発展し、交通も増え、高層ビルも建てられるようになった時期であり、規制する法律の制定は当然であったとも言える。だが、後藤新平や池田宏、佐野利器などの人物が揃っていなければ、制定の時期はもっと遅れていた可能性もある。そうすると、震災後の復興(復旧?)の様相はかなり違ったものになっていたのかもしれない。

さて、制定運動の中で岡田が書いた「都市計画と建築條例」(大阪朝日1916.1.1、東京朝日1916.1.5)には「都市美」という言葉が出てくる。

都市美の根底をなすものは矢張建築の美である。
然れど美なる建築の雑然たる聚合は必ずしも美なる都市を現出する物でもない。都市の建築に一つ一つが如何に美的であっても、其間に綜合的な統一がない時には十分なる都市美を発揮する事は出来ない。(…)
大阪にも東京にも一つ一つ取離して見たら立派な建築は数多くあるかも知れない。然し綜合的に都市美に寄与する建築が果して幾何(いくばく)あるであろうか。
岡田は東京で行われている市区改正(実質は、ほぼ道路拡幅)や警察が行っている建築取締規則では不十分だとして、都市計画、建築法令の必要性を述べている。
美なる而して健全なる文明の都市を現出せんとせば数多の美なる建築が出来るよりも、先ず根本的な都市計画が確立されねばならない。権威ある建築條例が施行されねばならない。而して其効果を収めんが為には建築家は連絡ある綜合的な都市建築の意匠に努めねばならない。
中島直人氏は「都市美という用語を意識して積極的に用いた人物は、建築家の岡田信一郎であろう」(「都市美運動」2009年、P26)としている(また、「綜合美術協会」についてもふれている)。

関東大震災から2年後の1925年(大正14年)、「都市美研究会」が設立された。建築・土木関係者のみでなく、発会式に内田魯庵、石井柏亭、杉浦非水といった顔ぶれも集まっているのは面白いと思う。
翌年には「都市美協会」になり、元東京市長の阪谷芳郎を会長に迎え、建築界からは塚本靖(副会長)、佐藤功一、笠原敏郎、大熊喜邦、片岡安(以上、理事)、中村鎮(常務理事)らが参加した。
警視庁の建設工事中に、望楼が周辺の美観を乱すとして反対運動を起こし、結局、望楼を撤去させてしまうほど、影響力を持つ団体になった。

かねて「都市の美観」を論じていた岡田としては、この会に参加していてもよさそうな感じがするのだが、中島氏の研究等を見ても、特に関わりはなかったようだ。
学校や設計の仕事に忙しかったためか、それとも体調があまり良くなかったためだろうか。

(画像のパリ風景はgoogleより借用)

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2014.09.12

OSN091清水仁三郎

以前、「岡田と都市計画」の項で、1918年(大正7年)2月、建築学会など4団体が連名で、建築法令の制定に関する意見書を寺内首相、後藤内相らに提出したことを記した。

(注)当時はまだ建築を規制する法令がなく、建築学会等が制定運動を行っていた。正確に言うと、このとき(2月6日)首相は病気で、官邸の秘書官に面会した。
当日、首相官邸等を回ったメンバーの中に岡田の名前があり(朝日新聞1918.2.7ほか)、再度調べてみたのだが、記事に少々混乱があり、岡田は同行していなかったようだ。
実際に回ったのは、4団体代表の塚本靖(建築学会副会長)、長野宇平治(日本建築士会会長)、片岡安(関西建築協会理事長)、藤原俊雄(都市協会幹事)と、清水仁三郎であった。(建築雑誌、関西建築協会雑誌)

清水について知る人はごく少ないと思う。筆者も全く知らなかったが、今回、少々資料を集めたので、書いておきたい。

清水仁三郎は1878年(明治11年)2月19日、京都の建築家、清水清兵衛の次男として生れた。岡田より5年上ということになる。(次男なのになぜ、ニサブロウなのか)
同志社を経て、後に建築工学を学び、1902年に岩崎家の建築技師になった。「同四十四年(=1911年)、岩崎家建築事務閉鎖と共に(…)清水工務所を開設す」、と「人事興信録」(4版、1915年)にある。
ただし、1908年(明治41年)5月6日の朝日新聞には「多年コンゲル氏(コンドルの誤植)に学べる田中正蔵 清水仁太郎両氏は内幸町に … 建築工務所を開設せり」とあり、独立の時期は1908年が正しいかもしれない。
田中正蔵は河合浩蔵に学んだ後、コンドルの事務所に入った人物。後に横田組を興し、ガーディナー設計の内田定槌邸(1910年、現在の「外交官の家」)を請負ったという(「ジョサイア・コンドル展」図録所収の堀勇良氏の論考)。
また、清水は岩崎家の縁で、コンドルと身近に接する機会が多かったはずである。

清水は独立の前後から、設計の分野だけでなく、様々な事業に活動を広げている。
1907年(明治40年)、一時廃刊していた「日刊工業新聞」(現在の同名紙とは別)を復刊させ、社長に就任。また、箱根の強羅に旅館、後楽館を開いた。強羅で初めての旅館である(「大筥根山」1909年)。
他にも伊賀耐火煉瓦社長、播美鉄道常務など、多くの事業を手掛けた(「人事興信録」)。
1912年、京都府から立候補し、衆議院議員(11期)に当選している。立憲国民党に属した。折しも藩閥の桂内閣に対する批判から護憲運動が起こり、首相が辞任した(大正政変)。運動の中心だった国民党の犬養毅が「憲政の神様」と呼ばれることになるが、清水も政界再編の動きの中で奔走していたようである。

冒頭の話に戻って、首相官邸等を回る際、各団体代表に清水が加わったのは、元議員として仲介役的な立場を期待されたためだろうか。

清水の遺した作品はあまり知られていない。湯本の吉池旅館別荘(登録文化財)のほか、茶室が残っている程度のようだ。
吉池旅館別荘は岩崎建築事務所時代の「岩崎彌之助箱根湯本別邸」の和館部分(1904年)である。かつては隣接してコンドル設計の洋館(1909年)が建っていた。

後半生もよくわからないが、亡くなったのは1951年11月である(「歴代国会議員名鑑」)。

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2014.09.03

博報堂その後

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博報堂(旧本社)の跡地で超高層ビル(18階建)の建設が進んでいます。
建物の完成は2015年3月、店舗等のオープンは5月予定とのことです。

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神田錦町三丁目共同建替計画(住友商事のサイト)

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2014.09.02

服部金太郎邸

Hattori
白金にある旧服部邸(1933年、高橋貞太郎設計)が売却、というニュースがありました。(FRIDAY 2014.9.12号)

三光起業という服部家の資産管理会社が持っていたのですが、数年前にセイコーHDに所有が移り、今回売却となったそうです。
Googleマップで見てもあっと驚く豪邸ですが、このまま取壊されてしまうのでしょうか…?

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2014.09.01

岩崎久弥邸

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住宅つながりで、湯島の岩崎邸(J.コンドル、1896年)を見てきました。確か公園になった直後に行ったはずなので、10年ぶりぐらい…?

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庭園のある南側はコンドルの邸宅によく見られる、ベランダに列柱を並べるデザイン。
背後のビルが少々目障りですが。

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1階ベランダの床はタイル張りですが、2階はただの板張りです。(何故?)

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明治後期に増築されたというサンルームが気になります(これもコンドル?)。
そう言えば古河邸(1917年)にもサンルームがあったはず。

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この塀も重要文化財です。

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