« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月の2件の記事

2014.07.31

萬翠荘設計の経緯

bansuisou
旧松山藩主、久松家の邸宅「萬翠荘」(松山市一番町)は木子七郎が設計したルネサンス風の西洋館である。竣工は1922年(大正11年)11月と見られる。
木子は、萬翠荘の着工に先立ち、海外視察に出かけている(1921年2月から11月まで)。
なお、1921年3月の日付のある萬翠荘の図面が残っており、出発前にはおおよその平面や外観デザインは出来上っていたことになる。(参考:「萬翠荘調査報告書」2010年)

この間の経緯をうかがう史料が加藤恒忠(元外交官、松山市長)の遺稿集「拓川集」に掲載されている。加藤は木子の義父にあたる新田長次郎と同郷で、親交があった。木子との関わりは新田の紹介によるものと思う。

(史料1)1920年(大正9年)8月1日付、東京の加藤から、大阪の木子宛書簡
 「来春は御遠遊のよし」という一節があり、加藤がこの時点で木子の海外視察計画を知っていたことがわかる。
(史料2)1921年1月6日付、木子宛書簡
 「此度久松家にて松山別荘新築の事に内定に付 是非御相談を要する件出来」とある。萬翠荘の建設につき、加藤が木子に相談を持ちかけている。
(史料3)同年1月8日付、日記
 加藤が大阪の木子と新田を訪ねている(「下阪 訪木子新田」)。
(史料4)同年2月24日付、木子宛書簡
 石井菊次郎(当時は在フランス大使館、特命全権大使)への添書(紹介状)を、加藤が外務省経由で木子に郵送する、という内容。(木子の出発直前の時期であろう)

史料2から、(加藤を通して)木子に萬翠荘の設計が依頼されたのは1921年1月上旬ということだろうか?、としばし考え込んでしまった。

しかし、1月上旬に初めて依頼を受けたのだとすると、2月(下旬?)の出発までに基本設計をまとめるのはちょっと無理ではないか…。「別荘新築」が内定する前段で、規模や予算など、おおよその検討はしていたのではないか…。

結局、書簡の文面だけではちょっと判断がつかないので、詳しい方からご教示いただければありがたい。

| | コメント (0)

2014.07.15

戦後日本住宅伝説展

埼玉県立近代美術館で住宅の展覧会を行っています。(8月31日まで、公式サイト

取り上げられているのは次の16件
住居(丹下健三)、コアのあるH氏の住まい(増沢洵)
私の家(清家清)、新宿ホワイトハウス(磯崎新)
スカイハウス(菊竹清訓)、塔の家(東孝光)
白の家(篠原一男)、水無瀬の町家(坂本一成)
虚白庵(白井晟一)、マツカワ・ボックス(宮脇檀)
反住器(毛綱毅曠)、中銀カプセルタワービル(黒川紀章)
原邸(原広司)、幻庵(石山修武)
中野本町の家(伊東豊雄)、住吉の長屋(安藤忠雄)

(外から)見たことがあるのは5件ですね。 中野本町の家は見ておきたかったです。

| | コメント (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »