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2014.04.01

伊勢の常夜燈

Isep1140354
伊勢神宮の内宮から古市を目指して坂を上ってゆくと、大きな常夜燈があり、「東京神田旭町 富樫文治」と寄進者が刻まれています。大正3年(1914年)2月の建立です。

神田の富樫と言えば、日本銀行小樽支店の施工者です。駒木定正氏の論文(後記)を見ると、以下のようです。

*明治42年(1909年)4月2日、本店から小樽支店に入札要領を送付。小樽支店では、地元の業者(加藤忠五郎)に入札参加の意思を確認したが、辞退された。
*4月27日、入札。
*6月11日、日本銀行と富樫が一式請負の契約。14日に本店から支店あて、「東京市神田区旭町拾参番地富樫文治ニ請負ハシムルコトニ相成候」と通知。
*7月1日、富樫が小樽へ出発、7月6日に着手届を提出。
(冬季の11月末から4月までは、工事は休業)
*明治45年7月27日、竣工。

辰野金吾は、「一式請負ニハ珍シキ上出来」と評価したそうです。

富樫は日本銀行本店工事(1890-1896年)では砂利、砂の納方を請負い、福島支店工事(1911-1912年)でも主要な工事を請負っています。

神田で棟梁の家に生れた竹田米吉のエッセイ『職人』に富樫の話が出てきます。(中公文庫版P41、57)

私の幼いころ(…)今川橋の黒崎、石井権三、長谷川金太郎、富樫文治らが新興の大きな棟梁であった。
竹田(明治22年生)の幼いころというと、明治20-30年代あたり、富樫が日本銀行の工事に関わった前後のことでしょうか。

伊勢に常夜灯を寄進したのは、日本銀行小樽支店、福島支店の工事を完成させた後のことで、富樫の最盛期だったのかもしれない、などと想像してしまいます。

(一部文献には「富樫文次」とあるようです)

参考文献
「日本銀行小樽支店の建築請負入札と請負契約(明治42年)」 (学術講演梗概集、2003年)
「日本銀行小樽支店の明治42年における建築請負契約について」(日本建築学会計画系論文集、2008年)

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コメント

>富樫の縁戚の者様
なるほど神田に棟梁が多いのは鎌倉河岸との関係ですか。

伊勢の油屋というと歌舞伎の「伊勢音頭」で有名だそうです。Wikipediaの「油屋騒動」と油屋近くにあった大林寺の公式サイトに書いてありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/油屋騒動
https://www.dairinji.com/contact.html

投稿: 岡田ファン | 2020.03.18 23:00

岡田ファン様
「神田の棟梁たち」拝見いたしました。
《■富樫文治
「建築請負業界の偉人富樫文次」と、1917年(大正6年)1月27日読売新聞の死亡記事にあります。心臓病で1月24日に死去。「年六十四」ということなので、1854年生れ(嘉永7年、ペリー来航の年)でしょう。
伊勢の常夜燈を寄進したのは数えで61歳のときです。
富樫登和(妻)が富樫組を継ぎ、養子の富樫厚博が内外エレベータの東京支店を兼ねることになった(?)ようです。(杣辺さん情報)》
貴重な情報ありがとうございます。m( _ _ )m
小生の父の生れも神田(現在の内神田3丁目)で、現在の「内神田旭町町会」の区域に位置しています。神田駅から見て西側の地域になります。富樫文治は、旧「神田旭町」ですから、現在の内神田2丁目か3丁目辺りの「内神田旭町町会」の範囲内と見られます。小生の父の実家と富樫の家は同じ旭町町内会に住んでいたものと推察されます。しかし、大正12年9月1日の関東大震災で焼け出され、父の家は関西に移住しましたが、今も我が家の本籍地は内神田のままです。
http://www.daisuki-kanda.com/guide/association/kamakura/

「内神田旭町町会」のすぐ南側の「内神田鎌倉町会」は、「日本橋川」に面しており、「鎌倉橋」付近は材木商の拠点であったらしく、隣接する「旭町」も「神田の棟梁たち」にお書きになっておられる様な「請負師」が住んでいたと想像できます。《1913年(大正2年)5月に、神田区三崎町の「石井権蔵」が亡くなり、5月29日の読売新聞に死亡広告が載ってますが、「親戚総代」の中に「富樫文次」「長谷川金太郎」の名前がありました。親戚同士だったとは。》とお書きになっておられますが、もしかすると、江戸時代初期の築城で、鎌倉から江戸に出て来た「材木商」一族の子孫かもしれません。だから、この3家は親戚同士だったのではないでしょうか。
(ご参考)・・・《徳川家康の江戸城入城後、この辺りの河岸が相模の国から木材石材が運び込まれ、鎌倉から来た材木商が築城のための建築部材を取り仕切っていた。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町として「鎌倉町」となった。(千代田区町名由来表示板より)》
http://michikusa-ac.jp/archives/3568942.html
ご参考までm ( _ _ )m

投稿: 富樫の縁戚の者 | 2020.03.18 10:42

岡田ファン様
《googlemapでみると
伊勢街道のところ「牛谷坂」と書いてあるあたりに常夜灯があります。(今気付きましたが、その先に富樫公園とあります。関係あるのでしょうか)》

ご指摘頂きgooglemapとストリートビューで確認いたしました。本当ですね。驚きです!
小生が父から聞いていた話によれば、かなり広い土地を購入して、常夜灯(父は灯籠と言っていました)を寄進したとの事ですが、管理を依頼していた「油屋旅館」が無くなり(廃業されたのか、移転されたのか小生は知りません)常夜灯の土地の管理ができない状態になった様です。それによって、土地はかなり侵蝕されて行ったと聞いています。(どの程度かは解りません)。又、文治が他界して既に100年の歳月が流れ、その実態を知っている人も他界していますので、その間の経緯は解りません。富樫の直系の方は御存知かも知れませんが、御縁が薄くなっておりますので、小生には解りません。
しかし、お教え頂いた様に、隣接地に「富樫公園」が現在存在しているという事は、「常夜灯の土地」も含めて残された土地を、伊勢市かどこかが管理して下さっているのかと想像できます。土地の登記簿を調べたり、伊勢市の担当部署に伺えば解るでしょうが。

どちらにしましても、「両宮常夜灯」と隣接する「富樫公園」が、100年以上経った現在も奇麗に存在している事は、奇跡的な事かもしれません。ここを大切に守って下さっている多くの方々に心から感謝申し上げます。霊界の富樫文治や富樫を継いだ富樫厚博(昭和22年他界)・大叔母(昭和46年他界)達も、喜んでおられる事と思います。
貴重な情報をお聞かせ頂き心から感謝申し上げます。m( _ _ )m

投稿: 富樫の縁戚の者 | 2020.03.18 08:06

富樫さんの件はこちらにも少し書きました。
http://chuta.cocolog-nifty.com/arch/2014/04/post-527b.html

投稿: 岡田ファン | 2020.03.18 00:59

>富樫の縁戚の者様
コメントありがとうございます。
そんな桜島とのエピソードがあったとは驚きです!
どうも小樽支店の仕事は地元業者も嫌がるような仕事で、しぶしぶ引き受けたのではないかと思ってますが(勝手な想像)、北海道から九州まで幅広く仕事をしていた訳ですね。

googlemapでみると
伊勢街道のところ「牛谷坂」と書いてあるあたりに常夜灯があります。(今気付きましたが、その先に富樫公園とあります。関係あるのでしょうか)

https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE/@34.4678588,136.7178107,17z/data=!4m6!3m5!1s0x600450ebdf9f37f3:0xf009663753f60ca7!4b1!8m2!3d34.45501!4d136.725793


投稿: 岡田ファン | 2020.03.18 00:22

失礼します。m( _ _ )m
「富樫文治、伊勢常夜灯」で検索したところ、このサイトに辿り着きました。小生は富樫の縁戚の者です。伊勢の猿田彦神社近くに建てた富樫文治の常夜灯を探していました。小生の父の叔母(小生の大叔母)の嫁ぎ先が富樫家でした。その関係で、父から伊勢で一番大きいと言われている常夜灯の話は小さい頃から聞いていました。ご参考まで、富樫の大叔母から伝えられている常夜灯の建設逸話を書かせて頂きます。

文治は鹿児島桜島での大きな仕事を請け負い、資材一式を桜島に運び終えた所で、本人も愈々東京から桜島まで移動する事になりました。その途中、伊勢の皇大神宮に参拝し、その時泊まったのが「油屋旅館」でした。その夜寝ている文治の枕辺に「伊勢皇大神宮の神様」が立たれ、「文治よ、行く事なかれ」と告げたという事です。文治は、この夢の不思議なお告げを信じ、運んだ資材一式を抛って、すぐに桜島での請負仕事から撤退したそうです。そして大正3年1月12日、あの桜島の大噴火が起ったのです。このお告げを無視し、文治がもし桜島に行って工事を開始していれば、請負い工事は全滅するばかりか、多くの人夫の命さえ失った事でしょう。九死に一生を得た文治は、大正3年2月に油屋の近くの場所に土地を買い、この常夜灯を寄進し、管理を油屋旅館に依頼しました。しかし、その油屋旅館はその後無くなったそうです。

以上が、小生が父から聞いた話の全てです。富樫厚博に嫁いだ大叔母が我が家によく遊びに来ていましたので、この話を父に話していたとの事です。富樫の大叔母は50年前に他界、父も20年以上前に他界。父からは「猿田彦神社の近くの灯籠」と聞いていましたが、今回場所が特定できましたので、今度行ってみたいと思います。こちらのサイトを拝見する事で、請負師富樫文治の貴重な情報や伊勢の常夜灯の情報を知る事ができ、心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

投稿: 富樫の縁戚の者 | 2020.03.17 23:08

ふ~む、公文書館に契約書がありますか。
石井組の契約書もあるかもしれませんが…

投稿: 岡田ファン | 2014.05.07 23:05

富樫厚博のことを東京支店をやっていた、東京支店担当、と曖昧に書きましたが、
閉鎖登記簿で支店は存在せず、都立公文書館にある東京市との契約書でも、九里の「代理人」になっていました。
どうでもいい話ですが(笑)

投稿: 杣辺 温 | 2014.05.01 22:30

大正時代の東京美術学校一覧で見たところ、在校生・卒業生に富樫厚博さんらしき人は見当たりませんでした。見落としかもしれず、再度調べますが「東京美術卒業」っていう書き方も少々怪しい感じはします(^^;

投稿: 岡田ファン | 2014.04.10 22:52

大衆人事録昭和3年版によると「富樫とわ」は
富樫文次(原文ママ)の養子で、
今で言うなら女社長のようです。
ご明察どおり東京支店担当は富樫厚博。
初めて知ったが、東京美術学校卒なんですね。
アニキはメカ狂いで弟は芸術系だったのか。
内外エレベーターのデザインとか手掛けて
いそうです。ご紹介の資料初めて見ました。
富樫組本店は土木建築業並関係業者信用録
昭和11年版あたりに詳しいかもしれません。
ありがとうございました。

投稿: 杣辺 温 | 2014.04.02 22:56

コメントどうも。
内外エレベータとの関係は知りませんでしたが、東京支店の代表が富樫厚博さんでしょうか?
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017381/243

ついでに、石井権三(の二代目?)は九段小学校の施工者として名前が出てくるようですね。

投稿: 岡田ファン | 2014.04.01 22:46

そうでしたか!
神田旭町13の富樫といえば、「富樫とわ」の
富樫組ですね。
内外エレベーターの創業者、九里博武の弟が
富樫の養子となり東京支店をやっていました。
富樫組については気になりつつもスルーしましたが、そんなヒントがあったとは。

投稿: 杣辺 温 | 2014.04.01 21:29

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