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2014.04.08

神田の棟梁たち

前々回の記事でふれた「石井権三、長谷川金太郎、富樫文治」について、少し調べたところ意外な事実が判明。

1913年(大正2年)5月に、神田区三崎町の「石井権蔵」が亡くなり、5月29日の読売新聞に死亡広告が載ってますが、「親戚総代」の中に「富樫文次」「長谷川金太郎」の名前がありました。親戚同士だったとは。
新聞記事を検索すると、3人の名前がいくつか見つかります。

■富樫文治
「建築請負業界の偉人富樫文次」と、1917年(大正6年)1月27日読売新聞の死亡記事にあります。心臓病で1月24日に死去。「年六十四」ということなので、1854年生れ(嘉永7年、ペリー来航の年)でしょう。

伊勢の常夜燈を寄進したのは数えで61歳のときです。

富樫登和(妻)が富樫組を継ぎ、養子の富樫厚博が内外エレベータの東京支店を兼ねることになった(?)ようです。(杣辺さん情報)

■長谷川金太郎
初代は1909年(明治42年)9月に死去。自宅は神田区錦町三丁目。
所沢飛行場飛行船庫(1914年、設計田村剛・内田祥三)の工事を行ったのは二代目でしょうか。

(補足)セントルイス万博(1904年)で日本館の工事を担当した同名の人がいますが、こちらは芝居の大道具で知られ、浅草、下谷あたりに住んでいたそうなので別人でしょう。
また、神田囃子の家元(明治~昭和初期)や、弘前教会の施工者(明治39年竣工)にも長谷川金太郎の名が出てきますが、同一人かどうか不明です。

■石井権蔵
初代は1913年(大正2年)5月に死去。自宅は神田区三崎町三丁目。千葉の中山に大きな別荘があり、中山協和銀行の頭取でもありました(5月29日読売新聞)。
養子の藤吉(旧姓久我)が二代目を継ぎ、鉄筋コンクリート造の建築をかなり多く手掛けたようです。

東京帝国大学、東北帝国大学、学習院、東京美術学校などの学校建築を多数施工しています(「日鮮満土木建築信用録」1925年)。
小笠原伯爵邸の施工者(石井組)もそうでしょうか。

石井組については、もう少し資料がありそうです。

(富樫文次か文治か、石井権三か権蔵か、は謎のまま)

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