« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月の3件の記事

2013.11.20

OSN090岡田の出生地

岡田信一郎は1883年(明治16年)、東京市芝区宇田川町11番地で生れた。
画像をgoo地図の明治地図より拝借(URL)。
Siba
中央の赤い線は東海道沿いに敷かれた路面電車だが、もちろん岡田が生れた頃はまだ通っていない(1897年に新橋-品川間の馬車鉄道が開業、1903年に電車となった)。

芝区宇田川町は新橋停車場や増上寺、芝神明宮に近い場所で、明治初年に編纂された「東京府志料」によると戸数は232戸(うち、士族1戸)、人口1055人。
物産として「腹掛、股引、足袋、西洋服、筆、木櫛、傘、下駄類、金箔」が挙げられており、職人が多く住んでいたようだ(当時の下町はどこも同様だったろう)。

かつての「11番地」は、現在の港区浜松町1-10と芝大門1-3の間あたりで、出生地跡は、第一京浜(国道一号線)の道路区域か(?)。

宇田川町11番地には、陸軍軍医、笠原親寧の家があった。笠原は信一郎の母の兄、つまり伯父にあたる。陸軍薬剤官であった父、岡田謙吉は、1872年(信一郎が生れる前年)に熊本から東京へ戻ってきたが、それと入れ替わるように、笠原は東京から高崎に赴任することになった。
岡田家はしばらくの間、笠原の留守宅に住むことになったのでは…というのが自分の推測である。

当時は、父(岡田謙吉)、母(いち)、姉、兄(阿蘇男)との5人家族だったはずである。
父の勤務先は東京陸軍病院薬剤課で、課長は大澤昌督(建築家、大澤三之助の父)であった (陸軍職員録)。

以上、130年前に岡田が生れた日、ということで書いてみた次第。

| | コメント (9)

2013.11.19

OSN089早稲田と美校

岡田は早稲田大学と東京美術学校の教員を務めていたが、どちらによりウエイトを置いていたのだろうか。

早稲田大学では、建築学科の創設(1910年)から間もない1911年(明治44年)に講師となり、翌年には教授に就任している。

一方、東京美術学校では1907(明治40年)年に嘱託となり、関東大震災のあった1923年まで講師のままだった。(48回あたりにも書いたが、長年講師のままでいたのは、東大建築学科の教授になりたかったためらしい)

どちらの勤務時間が長かったのか、といったことなど、もう少し詳しく調べなければいけないのだが、明治~大正中期にかけては早稲田の方にやや力を入れていたのではないか、と推測している。
Ookumap1010810
1923年以降は美術学校の教授となり、建築科の主任を務めた。岡田は病気がちで休む日も多かったが、正木校長の信頼は厚かったようだ。

早稲田大学では、後輩の内藤多仲や教え子の今井兼次らが活躍するようになり、岡田の働く場も少なくなっていった感がある。早稲田の建築学科が総出で取り組んだ大隈講堂の建設に際しても、(顧問として名は連ねていたものの)影は薄いようだ。

そうした訳で、少なくとも震災以降については美校優位だったと考えている。
(写真は2007年10月撮影)

| | コメント (0)

2013.11.18

OSN088黒田記念館

前回は岡田信一郎の毒舌ぶりについて記したが、岡田が珍しく(?)仕事の不手際を詫びる、という出来事があった。それは黒田記念館の建設に際してである。
Kurop1130543
9月9日記事の黒田記念館の写真を再掲しておく。写真右手に上下2つの窓があり、珈琲店の裏手にも窓があるようだが、この窓が今回のテーマである。

黒田記念館は、近代洋画の巨匠、黒田清輝(1924年7月逝去)の遺産をもとに建てられた。具体的には矢代幸雄の「美術図書館」構想に始まっている(東京文化財研究所七十五年史本文編P8)。矢代は1921年から1925年にかけて美術研究のため欧州へ留学、帰国後、東京美術学校教授に就任したばかりのところだった。(留学中、松方幸次郎に美術品購入の助言を行ったことでも知られている。)

黒田記念館の竣工後は、館内に設置された美術研究所(東京文化財研究所の前身)の所長を矢代が務めることになる。


1928年(昭和3年)12月1日、黒田記念館の建物を、黒田の遺族や関係者に披露する小さな集まり(落成内披露式)が行われ、設計者の岡田が次のようにあいさつをした。(概要筆記、原文カタカナ)
(…)自分も黒田先生には御厄介になり、その記念の仕事をすることは光栄で力を尽くしたが未熟の為に到らぬ点は御恕しを願ふ。工事に就いては(…)竹中工務店の手によって忠実に故障なく完成された。設計は皆さんに御覧を願ひ、又矢代氏の注意もあって出来るだけ完全にしようと思ひ、多少の変更もあったが自分の不注意により初夏の御命日に間に合はなかった。しかし一面には色々直して却って完全になった。(…)御尽力によって未熟な自分に此仕事の完成出来たことを感謝する。
「東京文化財研究所七十五年史 資料編P244」
つまり、岡田の不注意により、竣工が遅れてしまったというのである。一体どういうことであろうか。

建物の設計は前年の1927年9月初旬に完了し、入札により施工者(竹中工務店)が決まり、地鎮祭が行われたのは10月22日である。正木直彦(東京美術学校校長)は、建物の完成見込みは(1928年)5月末で、故人の命日である7月15日には開館したい旨を発言していた。(1928年2月29日、東京朝日)

しかし、建物の竣工は命日に間に合わず、8月末になってしまった(予定より3か月遅れ)。

先の岡田のあいさつを素直に読んでみると、「出来るだけ完全にしようと思ひ、多少の変更もあったが」「色々直して却って完全になった」とやや曖昧な言い方であるが、設計変更があったために遅れたように受け取れる。

黒田記念館の設計図面(国会図書館所蔵)を確認してみると、確かに着工後に設計変更をしている形跡がある。2階向かって左側の「展示室」に、窓を設ける変更である。(先の写真の窓) 

そこで正木の「十三松堂日記」を読んでみると、次の記述が見つかった。

(1928年)一月十四日 (…)矢代幸雄氏より来状 美術研究所建築に付模様替の事を申越す 依て岡田信一郎氏に協議 尚久米桂一郎氏を訪うて此事を協議す(…)
一月二十六日 (…)午後六時より春日に開かれたる黒田子爵記念館関係者樺山伯 大給子 久米 和田 藤島 打田 岡田等の集会にて矢代より最近申来りたる建築の設計の変更を是認したり
実は、矢代は前年4月からこの年の5月まで、美術研究所の設立準備も兼ねて欧米に出張していた。つまり、矢代からの「来状」は海外からのものである。

矢代も出国前に記念館の設計打合せには加わっていたはずだが、設計が完成した9月頃には既に国外におり、最終の設計図面を船便で受け取ったのだろう。設計図を見た矢代は、海の向こうから設計変更を強く要求してきたに違いない。これが岡田のあいさつにある「矢代氏の注意」であろう。

思うに、この設計変更が工期の遅れの一因ではないだろうか。

それにしても、設計変更にあたって、矢代と日本側がどのようにやり取りをしたのか、という点も気になるところである。国際郵便では時間がかかって仕方がないが、電信などが使えたのだろうか?

| | コメント (1)

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »