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2013年7月の7件の記事

2013.07.31

OSN086高橋貞太郎

ここで高橋貞太郎についてふれておきたい。高橋については、INAX REPORTNo185の特集記事(砂本文彦氏執筆)に経歴や作品が要領よくまとめられており、あまり付け加えることはない。ただ、岡田信一郎との関わりでいくつか気になることがある。

東京帝国大学の卒業式では成績優秀者に銀時計が授与されたが、建築学科で銀時計の対象になったのは、岡田(1906年)、高橋(1916年)の2名のみである。もっとも、この制度が存続したのは1899年(明治32年)~1918年(大正7年)の20年間に限られるのだが(中野実「東京大学物語」)。

口が悪いという点でも共通している。岡田の毒舌については別に書く予定だが、高橋も色々と舌禍事件を起こしていたようだ(INAX REPORT参照)。
両者ともお互いについて何も書き残していないようであるが、意識していたのは間違いないだろう。

岡田は大阪市公会堂の設計コンペに入賞したことで名を挙げたが、実施設計には関わることができず、無念の思いをした。これに比べると、高橋は学士会館と日本生命館の設計コンペに入選し、実施設計まで携わることができたのだから、恵まれていたと言える。

さて、日本生命館の設計者として、片岡安、高橋貞太郎、前田健二郎の名が挙げられる。高橋=佐野利器派、前田=岡田派、と思いこんでいる筆者としては、高橋と前田が組んでいる点が気になる。
「前田建築事務所のあゆみ」によると、共同で応募案を作成したようだ(前出)。高橋と前田は学校は違うが卒業時期が同じであり、交友があったのかもしれない。

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2013.07.30

OSN085日本生命館

日本生命館といってもピンと来ないかもしれないが、高島屋東京店(日本橋店)のことである。竣工は1933年(昭和8年)で重要文化財に指定されている。ルネサンス様式を基調に、和風を取り入れたデザインは高橋貞太郎によるもの。
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設計段階で岡田が平面計画に関わっており、岡田ファンとしては中々気になる存在なのである。正面玄関を入ったところの吹き抜けは、歌舞伎座や明治生命館に通じるところがある、とも感じるが、どうだろうか。

日本生命館というのは、高島屋に貸す前提で、日本生命がビルを建設したからである。フロアの一部を日本生命東京支店が使用していたが、日比谷に日生ビル(村野藤吾設計)が出来てからはそちらに移転している。(現在はビル全体を高島屋が所有していると思う。)

岡田と高島屋には長堀店などの縁があり、関東大震災後の仮店舗(1927年、木造2階建)を設計したのも岡田である。
岡田自身も東京店の本建築は自分が設計したいと、高島屋の川勝堅一にあてた手紙(1929年2月)で書いている。
川勝は、東京支店復興営業準備委員・東京支店復興建築準備委員を務めており、1925年(大正15)2月~10月に欧米を視察し百貨店事情を調査していた。

だが、高島屋が自前で百貨店ビルを建設する訳ではないので、設計者の決定についても日本生命側の意向が大きく働いたであろう。
日本生命と高島屋の交渉は1924年(大正13年)頃から行われていたようだ。(「高島屋百五十年史」P104-106、「交渉開始以来6年目の昭和4年」に用地買収を完了した)

1930年(昭和5年)1月に日本生命館建設の第1回打ち合わせがあり、岡田は相談役として尽力したという。しかし、岡田は途中で解職になった。

同年3月に日本生命館の公開コンペが公表された。審査員は、建築家の伊東忠太、片岡安、佐藤功一、武田五一、塚本靖、及び日本生命側の3名、高島屋の1名(飯田直次郎取締役)であった。片岡は日本生命の取締役でもあったから、全体に日本生命の発言力が大きかったことが推察される。

この設計コンペは「建築意匠のヒントを懸賞で募集する」(建築雑誌534号)とあったほどで、ファサードデザインのコンペだった。
設計コンペの当選者は5月13日に決定しているが、7月1日に地鎮祭、8月に着工した(大林組施工)というから、コンペの実施までに、ほとんど設計は固まっていたはずである。なぜ慌しくコンペを開催したのか、疑問に感じるほどである。

岡田ファンとしては、もし岡田がデザインまで設計していれば…と想像してしまうのであるが、片岡と日本生命が相手ではさすがの岡田も勝ち目はなかったかもしれない。

設計組織として、日本生命館臨時建築局が置かれた。片岡安、高橋貞太郎、前田健二郎、田中正義、後藤武一の名が残っている。(写真は5月撮影)

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2013.07.29

帝蚕倉庫

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先日「帝蚕倉庫が解体へ」というニュースがあったので、これも見収めになってしまうのか。(神奈川新聞

森ビルは、横浜の歴史的建造物である帝蚕倉庫を保存し、高層ビルを建てるという計画を立てていましたが、計画を変更し、帝蚕倉庫を取り壊すことにしたそうです。

代わりにレプリカを建てるようですが、本物を残すことにこそ意味があるのではないでしょうか。(すぐ隣りに大きなレプリカがあるのに…)

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2013.07.25

OSN084学士会館

岡田にとって無念だったのは、学士会館の設計である。(以前に少しふれたことがある)

学士会館は帝国大学出身者で組織する学士会の会館である。学士会は大正2年に会館を建設したが、同年に火災のため、焼失。以後、木造平屋建の仮建築のままであった。大学創立50周年の大正16年(1927年)までに完成させようということになり、片岡安、佐野利器、寺野精一、中村達太郎、山口孝一が技術委員で、設計概要と積算を岡田が担当することになった。(1922年頃)

岡田は鉄骨鉄筋コンクリート4階建ての設計案をまとめ、大正12年(1923年)9月には工事に着手する予定であったという(「建築画報」)。それが関東大震災のため延期となり、後には区画整理事業により敷地が削られる見込みとなったことから岡田案は廃棄され、設計コンペが行われることになった。
神代雄一郎氏は「学士会館事件」として次のように書いている。

学士会館新築のための岡田の設計がすっかりでき上っていたのに、それがコンペになり、高橋貞太郎の手に落ちた(…)。(…)西村好時が岡田の霊に詫びた文章を読み、また諸氏の話を総合すると、どうも岡田が病床につくほど怒った理由はあったらしい。彼はそれ以後、佐野利器が関係した清水組には一切自分の仕事をまわさなかったという。
ここに出てくる西村は銀行建築を多く手がけたことで知られる建築家である。高師付属中(2学年下)以来の岡田の後輩であった。
学士会館の設計を岡田が行うことが、建築学科同級生の集まりの際に話題となり、「学士会館の建築は宜く会員間の懸賞設計に俟つ可し」という議論になった。それは建白書となって建築委員長(赤星陸治?)に届けられたということである。西村は自分たちの行動によって設計コンペが実施されることになり、岡田の仕事を奪ってしまったと気に病んでいたのである。

また、佐野と岡田は建築観が異なり、犬猿の仲だったように言われるのだが、初めから仲が悪かったとは思えない。
「清水組には一切自分の仕事をまわさなかった」というのは、おそらく明治生命館の工事を(清水組ではなく)竹中工務店が担当したことを指しているのだろう。
だが、明治生命館の施行者は入札で決められており、岡田の好悪で左右されたというのは疑問が残る。現に山一証券などは清水組による施工である。

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2013.07.20

OSN083神奈川県庁(続)

県庁舎のデザイン案が公表され、しばらく経ったある日のこと。知事室に内務部長、土木課長、建築技師らが集められ、その席で岡田は「海港の玄関らしく」「(開港)記念会館を凌ぐ高塔」を設けるべきだと主張したという。
佐藤氏の推定によればそれは1925年9月13日(デザイン案公表の翌月)で、清野知事が復興局長官に栄転し、後任に堀切善次郎(内務省土木局長)が就任する3日前のことであった。(前掲論文P64)
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唐突な話であるが、これはデザイン案に不満を持った岡田が知事交替というタイミングを狙って話をひっくり返したということなのだろうか。
確かに、会議の席に遅れて出席した岡田が、得意の弁舌をふるって、決まりかけていた話をぶち壊す、といったことはしばしばあったらしい(森井健介の追悼文)。
だが、既に進行しているプロジェクトを自分の一存でひっくり返すというのは少々違うのではないだろうか。

筆者としては、大きな設計変更は別のところ(堀切新知事あたり?)からの意向によるもので、岡田は説得役ということなのでは…という気がするのだがどうだろうか。

(ちなみに明治生命館の設計変更の場合も同様のことがあったのではないかと想像している)

翌1926年3月には、新庁舎の設計コンペの実施が公表された。片岡安、佐野利器、大熊喜邦、佐藤功一、内田祥三、岡田、県内務部長が審査員となり、6月に小尾嘉郎の案が一等当選と決まった。これが現在の県庁舎のデザインのもとになっている。

岡田はその後まもなく、建築事務嘱託を解かれたが、佐藤氏は県庁の平面計画そのものは、はじめの計画案から大きく変わっていないのではないか、と述べており(前掲論文P62)、岡田が関わった計画内容は引き継がれていることになるだろうか。

それにしても、片岡安、佐野利器、設計コンペというのは、岡田との相性が悪いようである。

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2013.07.19

OSN082神奈川県庁

神奈川県庁と言えば中央の高い塔で知られるが、設計に岡田信一郎が関わっていたことは佐藤嘉明氏の論文「神奈川県庁本庁舎と大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者に関する建築史的研究」で初めて知った。

*論文本文

もとの県庁(1913年竣工、片山東熊設計)は1923年の関東大震災で全焼し、新たに建替えられることになった。1925年(大正14年)4月、県庁舎の復興のため、岡田が建築事務嘱託になった(年俸1500円という)。同年8月には岡田の同僚、内藤多仲も同じく建築事務嘱託になった。

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8月には、新庁舎のパース図が公表された(「横浜貿易新報」8月5日)。佐藤嘉明氏は、この案に対して(当時建設中の)大阪府庁舎に似たあっさりしたもので、「華麗なデザインを得意とする岡田自身が直接線を引いたとは思えないもの」と評している。(同論文第3章P62)

(筆者の感想だが、岡田は自分の好むデザインを押し付けることはなく、予算に応じてデザインを提案していると思う。従って、あっさりしているから岡田らしくない、という言い方には違和感がある。)

8月の県議会で予算案も議決され、岡田は「丁度厳冬の時期に工事着工となる」(「横浜貿易新報」8月20日)と述べているので、年度内に着工する予定で進めていたことがうかがえる。

ところが、この計画案がひっくり返ってしまう。高い塔を設けることに方針が変わり、また、設計コンペが開催されることになった。
(続く)

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2013.07.01

聴秋閣

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三渓園の聴秋閣は中々個性的な建物です。西本願寺の飛雲閣と似ているように思います。
所伝によれば、徳川家光の上洛に際して二条城内に建てられたもので、その後、春日局に譲られて江戸の稲葉邸に移築。明治維新後は二条公爵邸に移され、三渓園に移築されたのは大正11年(1922年)のこと。これが正しければ3回引っ越していることになります。

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二条公爵邸の土地は大正中頃、某氏の所有に変わりますが、その某氏邸の改築計画(1921年)を担当したのは岡田信一郎でした。
もしかすると、岡田と聴秋閣の間には何かつながりがあるのでは…とも想像したのですが、特に関係はなかったようで、残念でした。

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