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2012年4月の7件の記事

2012.04.29

洛中洛外図

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自分は狩野永徳ファンでもあるので、洛中洛外図には興味津々であります。
つい先日、岡山の林原美術館に、洛中洛外図の上杉本(永徳)、舟木本(岩佐又兵衛)、池田本をはじめ多くの逸品が集まっていたのですが、行くことができず無念でした。

それで、佐倉の歴史民俗博物館で開催中の「洛中洛外図屏風と風俗画」を見に行きました。(5月6日まで。公式サイト

歴史民俗博物館では6点の洛中洛外図を所蔵してますが、一堂に見られる機会は少ないのでは…?
個人的には会場入口に展示してあるレプリカがよかったです。
実を言うと、以前から洛中洛外図に興味はあるものの、細かな絵を見ていると頭痛がしてくるのが常でした。間近に見るレプリカの方が、ガラス越しに見る本物よりもわかりやすく、目からウロコでした。

16世紀に描かれた4点の洛中洛外図が並んでおり(上杉本はレプリカですが)、権力の移行に従って、題材や描き方が微妙に変わってゆく様子も興味深く思いました。
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歴史民俗博物館の建物は、芦原義信設計(1980年)とのことです。

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2012.04.07

デ・ラランデ自邸

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旧三島邸(デ・ラランデ自邸)の再建工事が始まっていると聞き、小金井公園の江戸東京たてものへ行ってみました

まだ基礎工事を行っている段階でしたが、今後、徐々に再建される様子が見られるはずです。
この住宅が、たてもの園に移築される最後の建物になるようですし、必見ですね。

なお、解体する際の調査により、もともとは平屋建の建物で、デ・ラランデが2階以上を増築したことが判明したそうです。
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掲示されている平面図をみると、東側の部屋は喫茶室、食堂に利用されるようです。背後に見えるRC造の建物は、厨房や事務室、トイレの部分です(鉄骨造の部分はエレべータ)。

以前に書いた記事はこちら
10年以上経っての再建…。時間がかかった分、感無量です。

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2012.04.06

保岡勝也展(川越)

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「建築家保岡勝也の軌跡と川越」という企画展が、川越市立博物館で開催されています。(5月13日まで)
建築ファンなら見ておきたい展示です。
公式サイト

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保岡勝也と言っても知る人はあまりいないと思いますが、川越には、第八十五銀行本店、山崎家別邸、山吉デパートと3件も保岡作品が残っています。
保岡作品で現存が確認されているのはオフィスビル、商店、住宅など10件だとか。
川越は日本一、保岡度の高い街と言えるでしょう。八十五銀行の副頭取を務めた山崎嘉七(和菓子の亀屋当主)が保岡のパトロンになったおかげ。
川越ならではの企画ですね。

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保岡は住宅に関する本を多く著しており、住宅作家としての側面が言われますが、著書には施主の名前を記しておらず、どこに作品を建てたのかほとんどわかりません。
山崎家別邸、西片の麻田家のほか、高崎市の吉田家住宅(1932年)が現存しているそうです。

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2012.04.04

OSN080明治生命館の建設

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明治生命館は竹中工務店の施工により1930年に着工し、1934年に竣工した。これが岡田の遺作になったことは以前にも書いたことがある。

二号館取壊しに立ち会った曽禰が涙していたことや、石工がストライキを起こす騒ぎのあったこと、弟の捷五郎に召集令状が届いたことなど、何かと建設にまつわるエピソードは多いが、今回は割愛したい。

明治生命側の新社屋の建設担当は、役員の阿部章蔵であった(創業者阿部泰蔵の四男)。明治生命館の竣工後、阿部が社報に書いた文章を引用しておく。(水上瀧太郎は阿部のペンネームである)

建築顧問の曽禰先生は、今年八十三歳の御高齢であるが、雨の日も風の日も現場に御出向 [おでむき] になり、設計施工両方面の指揮監督にあたられた。世間一般に、老大家を顧問とか監督とかに頂く例は少くないが、多くは名目だけか又は特別の事についての相談相手に過ぎないのに、今度の工事に於ては、そんな生温 [なまぬる] い事ではなく、先生御自身の設計のものゝ監督と同じ或はそれ以上に心を籠めて尽くされた。(…)
新館設計者岡田信一郎氏は天才と称されたかくれなき大家であつたが、たつた一つの大なる欠点は、健康に恵まれない事であつた。六十萬人の人間を使用しながら、一人の死者も出さなかつたのは稀有の事だといはれてゐるが、不幸にして工事半途に岡田氏を失つったのは、かへすがへすも残念である。氏は明治生命館の建築を一生の記念塔として、将来にのこさんとこゝろざし、文字通り全生命を打込んでしまつた。新館披露の日、御遺族はその竣工を喜ばれると同時に、個人追慕の感慨に堪へず、しばし涙にくれたといふ事である。ひそかに想へば明治生命館が氏の寿命を奪つたとも言ふべく、立並ぶ大円柱は尊き犠牲を人柱の上に築かれたものとも考えられるのである。
不幸中の幸は、令弟捷五郎氏が最初から協力して居られたので、工事には何の支障もなかつた。(「水上瀧太郎全集」12巻)

本日(2012年4月4日)は岡田が亡くなってからちょうど80年に当たる。

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2012.04.03

OSN079明治生命館

明治生命館の設計者を決める際に設計コンペが行われたことは、以前にも書いたことがある。このコンペには8人の建築家が参加し、互選で設計者を決めたという(「明治生命保険株式会社六十年史」)。

参加者による互選と言えば、大阪市中央公会堂、日比谷公会堂のコンペといった事例はあるのだが、余り見かけない方式である。(なぜ互選になったかは、長くなるので今回省略)
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また社史によれば、コンペを実施した段階では三菱二号館(コンドル設計、1895年竣工、かつて建築学会の事務所も入居していた建物)を保存して、その隣に高層ビルを建てる計画であった。ところが、コンペに当選した岡田から、二号館を取り壊して敷地全体で高層ビルを建てるようにという提案があり、協議の結果そのように決まった、ということである。

個人的には、岡田が発案した、という点に少々引っ掛かりを感じている。それというのも、岡田は関東大震災によって失われてしまった明治建築を惜しむ一文「死児の齢を算えて」を書いており(関東大震災後の言論の項)、二号館の取り壊しを提案するのは、よくよくのことだと思われるからである。
(画像左は三菱二号館、右は東京商工会議所)

1997年、明治生命館は重要文化財に指定され、その後、保存再生工事が行われた。現在、建物の一部が公開されており、2階の資料・展示室には画像データベースがある。
その中に、設計コンペ案のパース図5種類と平面図・立面図等20枚ほどが含まれている。
パース図5枚のうち3枚には佐藤功一のサインがある。ルネサンス系(野村ビル風)、ゴシック系(日比谷公会堂風)、古典主義系(ギリシア神殿風の列柱)の3通りのデザインであり、また、平面図・立面図等は、全て佐藤功一の3案に対応するものである。
他のパース図2枚は渡辺(仁?)案と設計者不明の案である(岡田ではなさそう)。

ところで、渡辺案を除く4案は、二号館の背後に建設する計画(二号館保存案)であるが、渡辺案のみは独立した高層ビルの計画、つまり三菱二号館を撤去して建てるもの(二号案撤去案)となっている。
これらの図面を見ると、いくつか疑問が生じてきた。

・佐藤功一はどうして3案も作成したのだろう? 
・佐藤の図面以外に、(岡田も含めて)他の建築家の図面は残ってないのだろうか?
・当初の計画は二号館保存案だったはずであり、応募者はそれに沿った案を提出したはずである。二号館撤去案は、渡辺(仁?)が提案したことになるのだろうか。
明治生命のコンペについては、不明な点が多い。

コンペで当選した岡田は、高島屋の川勝堅一に書簡を送っている(1929年2月22日付)。

今般(昨年末)明治生命保険会社新築の設計主要なる建築家十名を指名致し設計競技致す事と相成り(…)幸に小生選に当るの光栄を担ひ、昨日右建築の依頼を正式に請け候。
[明治生命の]場所は馬場先門外商業会議所と相対峙する晴れの場所に有之、充分腕を振ひたくと大喜び致し居候。(…)
右設計は一言にては三井銀行の建築が米国建築家に依頼されたるは日本建築家の恥辱とも存じ、三井と同式にて確かに美術的には凌駕し得る自信に御座候。(内部其他の贅沢は不及候が)
アメリカの設計事務所が設計し、竣工間近であった三井本館(同年3月竣工)を意識していたのは面白いが、明治生命館の設計に臨んで、岡田の高揚感や自信のほどが伝わってくる。

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2012.04.02

OSN078新喜楽

芥川賞・直木賞の選考会場としても知られる、築地の料亭、新喜楽。
建築関係者の間では、吉田五十八設計ということでも知られるが、その他はネットにもほとんど情報がない。(グルメ王というサイトに潜入記?がある)

現在の建物は、関東大震災後に再建されたものをベースにしているが、戦後、吉田五十八らによって何度か改修されており、再建当時の部分はあまり残っていないようだ。(奥の方には、震災後に建てられたという古い部屋が残っている模様)

国立国会図書館の岡田信一郎図面の中に「新喜楽」の図面が残っており、岡田がこの料亭の建築に関わりを持ったことがあるのは確かなようである。
図面があるのは、広間と洋間の2部屋分のみである。おそらく、再建後、暫く経ってからの模様替えを岡田が担当したのだろう。
広間の方が写った絵はがきを見ると、欄間など岡田の図面に雰囲気は近いものの、異なる部分もある。

残念ながら岡田が設計した2部屋は、改修されてしまっている。

また、洋間にあったステンドグラスは、取り外されて現存している。ステンドグラス研究家の田辺千代氏は小川三知の作品と考えているようだ。(「小川三知の世界」)
岡田作品に小川三知のステンドグラスが彩りを添えた事例は鳩山邸をはじめ数多いので、成程とも思うのだが、岡田の図面にはステンドグラスは示されていないようだし。

設計の経緯など、どうもスッキリしないまま、何年もモヤモヤしている次第。

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2012.04.01

OSN077国民新聞社

近代日本を代表するジャーナリスト、徳富蘇峰が経営する国民新聞社の社屋は日吉町(銀座)にあった。この建物は関東大震災(1923年)で焼失してしまい、震災直後は一時、F.L.ライト設計の帝国ホテル内に編集部が置かれた。
岡田が設計し、木造バラック建ての仮社屋を建てたことは、以前の項「関東大震災後の仕事」でも書いたとおり。

本建築も岡田の設計によるもので、場所は加賀町(銀座)に移り、1926年に竣工した。古典様式系のデザインで、高い時計塔が特徴であった。施工は上遠組である。
(作品リストには、「国民新聞社 地階附3階建て、鉄筋コンクリート造 人造石ヌリ (延坪数)1,300坪 (竣工、大正)15年4月」とある)

青山会館、徳富邸、民友社(木造)など、徳富蘇峰関係の仕事を多く手がけた岡田にとって、国民新聞社の仕事を引き受けたのは、ごく自然な流れだったことだろう。

…と数年前まで考えていたのだが、意外な資料が見つかった。

震災の翌年1924年1月に、国民新聞新社屋の計画がパース図とともに発表されるが、設計をしたのは岡田ではなくて、ヴォーリズであった。
なぜヴォーリズに頼むことになったのだろうか。

震災後、個人経営だった国民新聞社は資金難に陥った。
そのとき資金提供を申し出たのが、主婦の友社の石川武美で、石川は副社長に就任した。
石川といえば、クリスチャンとしても知られ、震災後の主婦の友社(1925年)はヴォーリズの作品である。おそらく、石川の縁からヴォーリズに設計を依頼することになったのではないか、と思う。

しかし、新聞経営は勝手が違ったようで、結局石川は5か月ほどで辞任してしまった。
(石川が経営から離れたことで、設計も白紙になったのだろうか…。この辺はまだ不明である。)
(1940年、石川は蘇峰の蔵書約10万冊、成簣堂文庫を一括購入した。現在はお茶の水図書館の蔵書である。)

【参考】有山輝雄「徳富蘇峰と国民新聞」(1992年)

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