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2012.03.09

OSN069関東大震災

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災のとき、岡田がどうしていたのか、よくわからない。関東大震災は岡田にとっても大きな転機になる出来事だったはずで、わからないというのは残念である。
…代わりに早稲田大学の同僚・佐藤功一と徳永庸の事例をみておきたい。

佐藤功一の随筆によれば、9月1日は「山の手の自宅」(小石川区指ヶ谷町74番地、現文京区白山)にいた。夜7時頃、帝大法文学教室と図書館の前に立ち、煉瓦造の建物が静かに燃えるのを見たが、手を出せずどうにもできなかった、という。
(自宅から東大は近くなので、燃えているのが見えたか、噂を聞いて見に行ったのだろう)
2日目に「本郷台よりお茶の水橋を神田に出で、丸の内より日本橋、京橋の焼跡を訪ひ」被害の大きさに愕然としたという。(「中央公論」1923年10月及び「太陽」1927年6月)

佐藤功一建築事務所に勤めていた徳永庸の手記があるので、少し詳しく紹介したい。
徳永は、佐藤の自宅2階にある事務所の製図場で仕事をしており、昼食にしようとしたところで地震にあった。
見ると、周囲の家は土煙を上げ、屋根瓦が落ちていった。柳町、掃除町あたりは低地で地盤が悪く、つぶれた家が多かった。表町の方から火災が起こったため、庭に穴を掘って鉄製の更衣箱を入れ、工事中の図面や関係書類を中に入れて土を埋めた。午後2時頃、事務所員は解散した。

その後、徳永は工事中の建物の安否を確認しようと、自動車を呼び止め、まず東京駅へ行った。
佐藤建築事務所の設計により工事中の実業之日本社、読売新聞社、下野新聞社東京支店、帝国興信所を見て回り、無事を確認した。
銀座に引き返すと、新橋方面の火災が大きくなってきた。
自動車を呼び止め、皇居前広場まで行くと、大勢の人が避難していた。警視庁や内務省の建物が炎上しているのが見えた。
自宅(豊多摩郡戸塚、甘泉園の隣り)に帰ろうと、濠に沿って九段下まで来てみると、神田神保町、小川町、三崎町あたりは火の海になっていた。飯田町一帯も火の海で、靖国神社の裏から神楽坂、矢来町、山吹町を通って早稲田大学を抜け、ようやく帰宅したのは夜11時頃だった。
余震をおそれ、数日間、屋外で寝ていた。

徳永の自宅には妻と、下宿の苦学生2人がいたが、ちょうど米がなくなってしまい、調達するのに大変苦労した。
東京市中の火事は三昼夜燃え続け、4日目にようやく収まった。
翌日(5日)、指ヶ谷町の事務所が無事であることを確認した後、水道橋、お茶の水あたりから、浅草付近と様子を見て回った。浅草のひょうたん池は水面が見えないほど死体で一杯であった。

6日に、前橋で銀行建築の監督をしていたF君が、現金と米を持てるだけ持って事務所に戻ってきた。これによって、7日から震災の復興や、被害調査に向かって活動することができた。(「徳永庸追想録」)

小石川や戸塚と、岡田の自宅・事務所があった神楽町は同じ山の手で、火災による被害が比較的少なかった点も共通すると思うので、(もちろん個々に状況は異なるだろうが)示唆するところが多いと思う。

大震災の前後、岡田がどのように過ごしていたのかは(今のところ資料が見当たらず)、想像するしかないが、1日は自宅にいた可能性が高いように思う。
(そうでなければ、建設中の工事現場にいたか、上野の日本美術院展覧会場あたりにいたか、それとも鎌倉の別荘あたりにいたか)

地震の後は、親族や学校関係、知人らの安否が気がかりなのはもちろんのこと、自分が手がけた建設現場が気になったに違いない。
当時建設中の主な工事は、次のようであった。

●歌舞伎座(大林組施工) 躯体が既にでき上がり、内装工事にかかるところであった。(前出)
●青山会館(小林組施工) 徳富蘇峰が建設する公会堂で、基礎工事を行っていた。
●日本赤十字社参考館(清水組施工) 芝の日赤本社敷地内の資料館で、躯体ができたところであった。(「早稲田建築学報」に記事あり)
●鳩山一郎邸(施工者不明) 音羽の鳩山邸では、基礎工事をしているところだったという。

なお、次のようなエピソードを聞いたが、本当だろうか(出典がわからない)。

震災の時、信一郎は佐藤功一と街で行き違った。信一郎は一言、「歌舞伎座はこわれなかったよ」と残して、崩れ果てた街に姿を消すのだった。
歌舞伎座は 1日の夜7時30分頃、銀座付近からの猛火によって、内装材が炎上した。歌舞伎座炎上の件は、その日のうちに岡田のもとにも知らせが入ったかもしれない。
佐藤功一と上記の会話を交わしたとすれば、1日当日、東大付近でのことだろうか…?

【付記】
徳永は1887年(明治20年)、福岡生まれ。福岡工業学校で建築を学び、辰野葛西事務所で実習を行い、東京駅の設計に関わる。1909年、早稲田大学高等予科(理工科)に入学、1910年、同大学建築学科に進み、1913年(大正2年)卒業。辰野片岡事務所に入所し、大阪市中央公会堂(原案岡田)を担当する。1917年、早稲田大学建築学教室に奉職(1944年まで)。1919年、佐藤功一を補佐し、佐藤建築事務所を開設。1927年、徳永建築設計事務所を開設。作品に徴古館(1927年)、研究社(1927年)、銀座ビルディング(1931年)など。昭和20年代に福岡銀行の一連の支店を古典様式で設計した。

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