« OSN067歌舞伎座の和風意匠 | トップページ | OSN069関東大震災 »

2012.03.05

OSN068歌舞伎座と区画整理

Kbkz02
歌舞伎座の建設が、大林組の施工により進んでいた1923年9月1日、関東大震災が起こった。
躯体は既に完成しており、地震による被害はなかったというが、周囲が大火災になったため、内装材用に積み上げてあった桧材に火が付いてしまった。鉄骨で組んであった屋根の小屋組も熱で曲がってしまう状態で、工事は中断せざるを得なくなった。(このあたり詳しくは「歌舞伎座百年史」を参照)

この頃のことを、大谷竹次郎が次のように回想している。(1930年の三宅周太郎との対談)

私は震災直後に内務大臣だった後藤新平さんの所へ駈け込んでよく頼んだ。本当はあの大建築だから少しは区画整理にかゝりさうなんですから。それを兎に角東京の名物にするから、何とか焼けた形の儘で建築を許してくれと、私は後藤さんに縋つて頼んだ。流石に後藤さんで、それを黙認してくれた。そのお蔭で今の歌舞伎座が出来たんです。
この話は本当なのか、少々検討してみたい。

震災後、復興を担う帝都復興院が設けられ、内務大臣の後藤新平が総裁を兼務することになった。さっそく10月には帝都復興院による復興計画の原案がまとまり、政府原案として確定した。

しかし、政府原案には激しい反対が起こった。先鋒は伊東巳代治(枢密顧問官)で、11月に開催された帝都復興審議会で「所有権を奪うもの」「日本の財政基盤を危うくするもの」などと政府原案に対して厳しい批判を行った。
伊東の主張を入れた修正案が作られ、この結果、幹線道路の計画は縮小されることになった。(例:靖国通りは幅員24間から20間に、浅草通りは20間から18間に縮小)

歌舞伎座前面の電車通り(晴海通り)は、計画が縮小されたとはいえ、従来よりも広がることになった。また、土地区画整理事業の実施により、歌舞伎座の敷地も何割分か削減された。
だが、政府原案のまま決まっていたら、電車通りはさらに広い道路となっており、建設計画が大きな影響を受けることは免れなかったかもしれない。この点で伊東巳代治は、歌舞伎座の工事再開に貢献したとも言える(?)。
(伊東は銀座の大地主だったという)

※晴海通りの幅員は、復興計画により広げられた(10間→18間)が、図面を見ると、歌舞伎座側は広がっていないようである(「中央区沿革図集」)。これは後藤の配慮による結果なのだろうか?さらに調べてみたい。

【参考】越沢明「東京の都市計画」、三宅周太郎「俳優対談記」

|

« OSN067歌舞伎座の和風意匠 | トップページ | OSN069関東大震災 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« OSN067歌舞伎座の和風意匠 | トップページ | OSN069関東大震災 »