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2012.03.25

OSN074都市研究会

「都市研究会」(後藤新平会長)の話が出てきたが、岡田との関わりで判明しているのは、今のところ次の2点である。

○会の機関誌「都市公論」1919年12月号に会員リストが掲載されており、岡田は特別会員になっている。加入時期は不明。1921年1月のリストにも名前があるが、その後も加入し続けたのかは不明である。
○1919年(大正8年)8月に、都市研究会が都市住宅政策の実行委員を決めるが、岡田は第四部(居住行政に関する件)の委員(主査)になった。(前項。神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)

「都市研究会」は、都市計画をはじめ、都市経営について研究し、一般向けの啓発を行う団体であった。官僚や研究者らが役員に名を連ね、機関誌「都市公論」の発行や講演会など普及活動を行った。
都市研究会に結集したのは、阪谷芳郎、片岡安、関一、内田祥三、笠原敏郎らで、その後も都市計画の推進に努力した人々である。都市計画法、市街地建築物法の起草を行った池田、佐野、笠原、内田をはじめ、法案の審議を行った「都市計画調査会」のメンバーの多くは、都市研究会の会員であった。(参照:越沢明「復興計画」P26-27)

ただ、設立当初の経緯などについて、今一つはっきりしない感じがする。岡田と関係がある団体ということで、少々寄り道にはなるが、いくつか書いておきたい。

●いつ設立されたのか…機関誌「都市公論」(1921.2)に、副会長の内田嘉吉の発言に「大正六年十月に本会創立の相談がございまして翌七年の二月十一日に始めて本会の趣意書を公にした」とある。設立総会などはなかった。
「都市公論」初期の十数号が欠落していることもあって、設立当初の状況がよくわからないのだが、1917年に「創立の相談」ということは、初めはコアメンバー数人の内々の会合(勉強会?)程度だったように思われる。そこで、都市計画の必要性や一般向けの啓発などが語られ、1918年4月の機関誌「都市公論」創刊に向けて態勢を整えていったのだろう。

●会員は…初期の「都市研究会」の規則を見ると、正会員、特別会員、賛助会員の別があり、会費は正会員が年4円、特別会員が年10円以上、賛助会員は200円以上を拠出した者である。「都市公論」1年分の定価は4円だから、正会員=定期購読者と考えてよさそうだ。(1919年12月号には、正会員1458名とある)

●事務局は…内務省に事務局が置かれた、とされるが、初期の「都市研究会」の規則や「都市公論」の奥付(1919年12月号)を見ると、会の所在地は「麹町八丁目二十八番地」となっている。これは「都市公論」の編集・発行人でもあった幹事の阿南常一の自宅か?(もっとも、入会申込みは、内務省の池田宏あてに出すことになっていた)

●設立の主体は…越沢明「復興計画」に、「佐野利器(…)池田宏(…)渡辺銕蔵(…)藤原俊雄(…)阿南常一(…)らは、都市研究会を結成し、会長に後藤新平(…)を戴いた」とあり(カッコ内は略歴)、素直に読めば、まず佐野や池田らが中心になって集まった団体のように思える。
だが、後藤が中心になって、周りにブレーンを集めたのではないか、とも想像してしまう。

都市計画法制定の動きが具体化するのは、1918年の都市計画調査会の設置によってである。しかし、調査会設置のための予算を通したばかりの4月、後藤新平は内務大臣から外務大臣に転じてしまう。本野一郎外相が病気で辞任したためである。後藤に代わって内務大臣となったのは、次官の水野錬太郎である。(水野は内務官僚上がりだが、政友会入りしていた)
調査会の活動は7月にスタートするが、9月には米騒動のため寺内内閣は倒れ、後藤も大臣職を離れる。政友会の原敬が首相となり、内務大臣は床次竹二郎に代わった。(床次も内務官僚上がりで、政友会に入党していた)
都市計画法が成立するのは床次内相時代である。
このように内務大臣のポストは1年ほどの間に、後藤、水野、床次と変わったが、後藤は都市研究会の会長を務めていたため、一貫して都市計画の問題に関わることになった(もちろんその後も)。

事前にここまで見通して都市研究会を作ったわけではないだろう。少なくとも、1918年4月に内務大臣を交代する際に、後藤が引続き会長職に留まったことで、都市計画の推進に大きな役割を果たすことができたのかもしれない。

後藤の主な経歴(1916年以降) ※後藤記念館の公式サイトに略年譜がある。
・内務大臣兼鉄道院総裁(寺内内閣1916.10~1918.4)
・外務大臣(寺内内閣1918.4~同.9)
・東京市長(1920.12~1923.4)
・内務大臣兼帝都復興院総裁(山本内閣1923.9~1924.1)

(貴族院議員…1903年に勅選され、1929年に逝去するまで務めた)
(都市研究会会長…後藤の逝去後は歴代の内務大臣が務めたとのこと)

●会の活動は…前述のように、機関誌の発行、講演会の開催がメインだが、その他にも法案の作成まで行っている。
1919年11月の新聞記事に「建物会社法案決定す」とあり、都市研究会・都市住宅政策実行委員の池田宏、渡辺鉄蔵、佐野利器らが「公共建築株式会社法案」を立案し、委員総会で決定したという。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)
例の実行委員のうち、第三部(住宅の建築に関する件)による仕事であろう。内容は、各都市に土地開発・建築を行う会社(例:東京市公共建築株式会社)を設置しようというもので、住宅公団のようなイメージだろうか。

■付記
似たような名称の団体に「都市協会」がある。藤原俊雄が両者に関わっているのもややこしい。
当時の新聞記事から推測すると、1915年頃、藤原あたりが呼びかけ、東京府市の関係者(幹部職員、議員)が中心になって集まった、市政研究の団体だったようである。
1916年4月の都市協会晩餐会で、岡田信一郎が「都市と建築」と題した講演を行っている。1918年には、建築学会、日本建築士会、関西建築協会と連名で、都市計画の法制化に向けた運動を行った(前項)。その後の活動についてはよくわからない。

初期の都市研究会、都市協会については詳しい方のご教示を願いたい。

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コメント

都市研究会の謎について調べ直したところ、
上記記事の「●設立の主体は…」以下はちょっと的外れでした。
少しわかった点を次の記事に書きました。

http://chuta.cocolog-nifty.com/arch/2014/10/post-dbc1.html

阿南が言いだしっぺで、まず雑誌作りに、内田嘉吉、後藤、池田らが集まったということかなと。
創刊直後に設置された都市計画調査会を通して佐野利器、渡辺銕蔵、片岡安、関一らが加わったように想像しています。
また、藤原の「都市協会」の活動は、都市研究会の活動に吸収されたのかもしれません。

投稿: 岡田ファン | 2014.10.23 00:20

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